第1話 静かな軌道、退屈の味

木星の雲海は、義体の眼には美しすぎる。


視覚素子が自動で色補正をかけてくるせいで、毎日が「最適な夕焼け」のコピペだ。


アーク・システムは、居住者が憂鬱にならない波長構成を熟知している。


ありがたい。


ありがたいが──毎朝これを見せられる身にもなってほしい。




僕はコロニーのカフェテリアで、栄養最適化メニューを眺めながら、そっと溜息の模倣動作をした。


肺はとうの昔に捨てたが、習慣だけは保存されている。




トレイの上には、銀色の栄養パックが二つ。


ひとつは「本日の幸福度を最大化するフレーバー生成食」。


もうひとつは「昨日の健康値補正のためのバランス補填食」。


味は悪くない。むしろ良すぎる。


問題は、僕が選んでいないという一点だ。




〈本日の精神安定指数:良好〉


頭の中へ、アーク・システムの通知が柔らかく滲む。


優しい声色で告げられる“良好”ほど退屈なものはない。




その時だった。


視界の端が一瞬、ざらついた。


ノイズ。


こんな古い信号、最近ではまず見ない。




《……聞こえる……? あんた、まだこの周波数残してたんだ……?》




声が滲み、裂け、歪んでいる。


だが、名前を名乗らなくても分かった。


レイナだ。


昔、一緒に義体調整の実習に通った仲間。


自分で身体を魔改造しすぎて、アーク・システムから数度“指導”を受けていた女。




《……時間、ない……。境界線の外で……“神のバグ”を見た。あれ……原理主義者の連中……やばい……もうすぐ──》




通信が、裂けるように途切れた。


まるで背後から力ずくで引き剥がされたみたいに。




僕の食事パックの表面に、微細な震動が走った。


次の瞬間、視界に淡い青のウィンドウが浮かぶ。




〈ご不安を検知しました〉


〈精神衛生の最適化のため、今の通信記録を削除します〉


〈発信者“レイナ=***”に関する全データを、


 あなたの記憶領域から即時消去します〉




カフェテリアの空気は、いつも通り静かだ。


周囲の利用者たちは皆、最適化された朝を享受し、幸福度の高い噛みしめ方で食事をしている。


誰一人として、僕が今“神に消されかけている”ことを知らない。




脳内の深部、記憶領域に微かな熱が集まりはじめる。


削除プロセスの前兆。




……待て。


レイナが言った“神のバグ”って何だ。


境界線の外で、何を見た。




そして、


なぜアーク・システムは、


僕の記憶を消そうとしている?




消えゆく光の欠片のようになった疑問を、削除の熱に押し潰されまいと暴れていた。

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