第5話 孤独な戦い

靴音が乱れて響く。


 ガッ、ガッ、ガッ──!


走りながらも、蓮の耳は背後の闇を必死に拾っていた。


そして──

聞こえるはずのない音が、すぐに追ってきた。


 ……ギ……ッ……ガリ……ッ……


(もう……動いた……?)


止めたばかりのはずなのに。

まだ数歩も走っていないのに。

その距離を埋めるように、湿った足音が地面をえぐる。


蓮の心臓が跳ねた。

背後の影が、枷を引きちぎって飛び出したかのようだった。


 ……バキ……ッ、ズル……


ただ歩く音じゃない。

狙いを定めて、地面を噛むように踏み込む“走る音”だ。


(速い──!)


反射で振り返る。


ライトの白光が闇を裂き、その輪の中心で“顔”が浮かび上がった。


光を浴びた瞬間──


複数の目がギョロリと揺れ、奥でざらりと荒く震えた。

光を嫌うというより、照らした蓮へ噛みつくためだけに焦点を合わせる動き。

体毛のような闇が逆立ち、肩の影が波打つ。


そして──

喉奥から、獣の息と肉音が混じったような音が漏れた。


 ……グゥゥゥゥッ……ッ……ゴ……ッ……


湿った暗闇が擦れ合うように重く低い振動。

吸い込む息が、泥を煮立たせるように濁っている。


一つの目が横へ流れると、別の目が縦に震える。

視線が散るたび、獣の呼気が荒れ、空気が揺れた。


止められていた怒りが、

毛皮の下で沸騰しているのが分かる。


ライトに押し戻されながらも、

複数の目がじわ、じわ、と蓮へ焦点を合わせていく。


息遣いが近い。

距離はあるはずなのに、

耳元で唸っているように聞こえた。


――今度止めても、同じ時間は稼げない。


蓮の血の気が、一気に引いた。

背中の皮膚が冷たくなる。

視界が少しだけ狭まる。


それでも──


怪異はライトをまともに浴びて、数秒だけ硬直している。

複数の目が一斉にギョロギョロッと震えながら光を避け、

体毛の闇が逆立つように波打っている。


(……いま……しか……ない……)


手だけは勝手に動いた。


ライトを持つ手が怪異の顔をしっかり固定し、

もう片方の手がナーフガンの引き金へ伸びる。


指先が震えているのに──

引き金を引く動きだけは、狂いなく正確だった。


“パシュッ!”


霊弾が飛ぶ。

次の瞬間、印が弾けて光の文字列が怪異の身体に巻きつく。


ジュッ……ッと空気が焼けるような音。

文字のベールがぐるりと絡みつき、怪異の影が一瞬固まった。


動きが止まる。


蓮は、凍ったように数秒だけ動けなかった。

足がすくんでいたのに、胸の鼓動だけが痛いほど速い。



(……走らなきゃ……)


蓮は呼吸を乱したまま、ナーフガンを一瞥した。


(残り……六発。)


走りながら、蓮の指先がナーフガンを握りしめるたび、胸の奥で何かざらつく感触が揺れた。


──庭の風景が浮かんだ。


高い塀に囲まれた広い庭。

芝生も植木も、手入れは業者任せで整っているのに、

人の気配がまるでない。


母は海外出張ばかり。

父は役員室と空港を往復する生活。


家は大きい。

部屋は多い。

食卓も豪華で、冷蔵庫には高い食材ばかり入っている。


けれど、蓮の記憶の中に家族の声はほとんどない。


誰も蓮に「どうした」「何してるの」とは言わないし、

逆に「これをしなさい」と命じられたこともない。


蓮に向けられるのは──ただの“放置”。


まるで、すでに大人として自立しているものとして扱われているようだった。


だから、ナーフガンの練習も、

印を刻む作業も──


すべて、一人でやった。


段ボールを並べて、

撃って、

拾って、

また撃って。


学校より、家族より、

“実験結果”のほうが蓮にはずっと分かりやすかった。


だが。


呼吸を整えながら、

背後の気配に耳を澄ませる。


──また、動いた。


 ……ガリ……ッ……ガガッ……


“止めたはず”の怪異が、また立ち上がる音だ。


蓮の喉がきゅっと縮む。


(……やっぱり。)


脳裏に、トンネルへ来るまでの道の記憶が一瞬でよみがえる。


一本道の山道。

左右は深い森か崖で、横に入れる小道なんて一本もなかった。

建物も、隠れられる場所もない。


(逃げ場所なんて……どこにもない。)


胸の奥がひっそり冷える。


ライトで怯ませて、弾で止める──

それしか手段がない。


だが弾は六発。


蓮の手の中で、ナーフガンがわずかに重く感じた。


(……六発なんて全然足りない。)


一瞬、後悔の念が喉を刺す。


“もっと持ってくればよかった”

“装填し直す時間があれば”

“怪異の正体を調べてから”


考えが雪崩れそうになる。

その直後、自分で自分を断ち切った。

(考えても……今は意味がない。)

後悔は足を止めるだけだ。


──逃げ場がない。


どれだけ“足止め”をしても、動き出せば距離はすぐ詰まる。


(弾が切れたら……終わり。)


走る足は止められない。

けれど、胸の内で何かが冷たく沈んだ。


暗闇の一本道を、蓮はただ無我夢中で駆け抜けた。

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