海辺の町と泳げない竜 ― mare e drago ― ドラゴンに泳ぎ方を教えましょう。ただし交際は契約外です

しじま

第0話 初めての対面

 はじめてその青年を見た瞬間、リヴィアは息をのんだ。


 檻の中で、静かにこちらを見ているような。

 牙を隠したまま、こちらを値踏みする獣のように美しい。


 「(これが、“海竜かいりゅう”? 海の、王様?」


 聞かされていた通り、隷属に堕とされた存在らしい。

 なのに、青い海を閉じ込めたような髪は艶やかで、白い肌は研がれたような透明感。

 人間の意思でのが、見るだけでわかる。


「いかようにでも、お使いください」


 凪いだ声だった。従順さだけを丁寧に発音して。

 まるで奴隷ではなく、主人に仕える執事のように。


 教え込まれただけを、丁寧な発音で差し出してくる。


 まるで奴隷ではなく、貴族に従う執事のような言い回しで。


「まずは何から致しましょう」


 涼やかに笑うその顔は穏やかでも、瞳の奥には温度がない。


 首筋に刃物を当てられているような気分になる。


 「(この人にとって私は、だ)」


 きっと自由にしてしまえば、喉笛を噛み切ることだってできる。

 そんな力を、彼は持っている。

 正直、どうしてリヴィアが彼のに指名されたのか、いまだに理解していない。


 少し前に「ここに来い」と呼び出され、そのまま案内も説明もない。

 ただ、彼の前まで連れてこられた。


「(ひどい。こんな危険そうな人を、初対面の私に任せるなんて)」


 心の中で、案内してきた大人たちに恨み言を投げる。

 青年は笑っているのに、目だけが笑っていない。


 お腹を空かせた肉食魚と向き合っているような。そんな錯覚が肌に刺さる。

 

 おそらく、あまり間違っていないのだろう。

 

 そんな危険な相手に向かって、リヴィアは仕方なく言った。


「まずは、その話し方をやめてほしい、です」

「話し方、ですか?」


 青年は首をかしげる。
 さらりと髪の毛が揺れる。

 その仕草は優雅で、どこか育ちの良さすら感じさせた。


 けれどその瞳の奥には、底知れない何かが潜んでいる。


なんて、私はあなたの主人では、ありません」


 そう続けると、青年は一瞬まばたきを忘れたように固まった。

 沈黙が、ただの戸惑いではないことが、すぐにわかった。

 彼の周囲の空気がまるで、水面のような圧に変わる。


「(やっぱり、この人はただの青年じゃない)」


 確信した瞬間、青年はゆっくりと口を開いた。


「…あなたは、何をしに来たのです?」

「え?」

「なぜ、ここにいるのです?」


 何故。それはリヴィアが一番聞きたい。


「ただ、私は、あなたのお世話を頼まれただけの、人間です」


 その瞬間、青年の瞳の色がわずかに揺らいだ。


 月光のような金が、水面に落ちた光みたいに震える。


「(あ、これ……怒りじゃない。驚き?)」


 そう思った次の瞬間。

 青年の身体から、ふっと風が吹いた気がした。


 ただの気のせいとは思えない、海の底のような冷えた気配。

 言葉にできない緊張が部屋を満たした。


「あなたは、奇妙な方だ」


 青年が、静かに笑った。けれどその笑みはさっきとは違っていた。

 まるで、檻の鍵を開けられた獣が、試すように目を細めた時の顔。


「では、あなたはまず」


 青年はすっと距離を詰め、リヴィアの手を取った。

 氷のように冷たい手。
 けれど、その奥に燃えるような熱を感じた。


「私に、何を望むのです?」

「(なにこの人、距離が近い!)」


 答えようと口を開いた瞬間。

 青年の指先が、リヴィアの腕をそっと撫でた。


 鳥肌が立つほど滑らかな、しかし野生の気配を帯びた動き。

 彼の瞳はまっすぐにリヴィアを射抜く。


とは、どこまでを指す言葉なのでしょう?」


 声が近い。

 呼吸が触れそうな距離で、囁くように言う。


「(え、もしかして)」


 胸が跳ねた。

 その瞬間、背後で扉が激しく開いた。


「おーい、リヴィア!例の海竜様、話せたか?って、あ?」


 現れたのは町の自警団の男、ジルヴァードだった。

 リヴィアと青年の距離を見た瞬間、彼の顔がひきつる。


「おまっ、近い!離れろ!!」


 叫びと同時に、青年はゆっくりとリヴィアから手を離した。

 笑っていた。


 なぶりがいのある獲物を見つけた肉食獣みたいに。


「次は二人きりの時に続けましょう」


 淡々とした声なのに、背筋がぞくりとした。

 彼の瞳の奥で、金色がゆらりと揺れた。


「(この人、絶対、怖い)」


 リヴィアは確信する。

 明日からの生活が、絶対に普通では済まない。

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