第8話 紫花

彼女の最寄り駅は、都会と自然が

静かに同居しているような場所だった。


政府の宣言もあり、夜の街はどこも灯りが落ちていた。

あかりに群がる虫たちが集まるのはコンビニと、駅前のスーパーだけ。


僕たちはそこでお酒と食材を買って、

そのまま彼女の家に向かうことになった。


「好きな食べ物はなんですか?」

何気なく聞いた問いに、


「セロリ好きです!!」


と迷いなく返ってきた。


好きな食べ物で1番にセロリ、、

そんな人には出会ったことがなかった。

彼女の美肌の秘訣を垣間見た気がした。

少し笑ってしまった僕に、彼女は得意げに笑った。


彼女に好きと言われるセロリが

羨ましいと思った。


まさか、セロリになりたいと思う

人生になるなんて思ってもみなかった。


この後しっかり刻んでやるからなと

セロリにテレパシーを送った。


鶏肉、セロリ、その他もろもろを袋に詰めて歩く。


夕方まで降っていた雨は嘘みたいに止んで、

舗道にはまだ水の匂いが残っていた。


月が雲の隙間から顔を出し、

歩く2人と

川沿いに咲いた紫色の花を照らしていた。

名前を知らないその花は、

ただ静かに下を向いて咲いていた。


鈴の形をしたその花に、雨粒が光っていた。

まるで、さっきまでの雨が嘘だったかのように。


月夜に照らされた

白く透き通った彼女が

花なんかよりよっぽど綺麗で、

この夜が終わったら消えてしまうのではないかというくらい儚くて、


花の名前を考えるのも、

スマホで調べるのも、

どうでもよくなった。


今を思い出としてこの目に

この心に残したいと思った。


ゆっくり他愛もない

会話をしながら歩く。


ほんの少し手を伸ばせば、

触れてしまいそうな距離だった。


だから僕は、

触れてしまわないように、


彼女側の手にスーパーのビニール袋を

そっとぶら下げた。


手ではなく、袋を持った。


それだけで、精一杯だった。



ーーーーーー


「少し散らかってますけど、どうぞ入って」


彼女が少し恥ずかしそうに言う。


「お邪魔します。」


彼女の部屋は

柔軟剤となんだか懐かしさを感じる落ち着いた匂いがした。

とても好きな匂いだった。

家の匂いというより、彼女自身の匂いに近かった。


とりあえず缶チューハイで

乾杯をしてから


料理人の端くれの僕が作る。


作ってと頼まれたわけではない。


僕は昔から"作りたがり"

なので、

自分が作ると言っただけ。


別に好きな人によく思われたいからとか下心はない、たぶん。


ただ美味しいと言って食べてくれている笑顔を僕の手で作りたい気持ちだった。


言うなればこれは真心。

と自分に言い聞かせる。


さて何を作ろうか考えていると


「何作るの?」


彼女が横からひょこっと小動物のように顔を出す。


献立が決まりかけていた矢先

その急に現れた

彼女の瞳に思考ごと吸い取られた。

ダイソンより強力だった。

全ての思考を吸われた僕は


「なんか作る」


僕は答えながら何を考えていたのか思い出そうと頭を捻る。


「ふふ、なんかって何ですか?笑」


彼女が笑いながら僕が困っているのを楽しんでいるようだった。


少し悔しかったが彼女が楽しそうだからそんなのどうでも良かった。


「とりあえず、セロリ刻むわ」


今の所僕より

優勢に立っているセロリを

ひたすら刻んだ。


"トントントン ザクザク"



セロリだけを見つめているようで

視野の端っこには彼女を捉えながら

退屈してないだろうか

今何を思っているのだろうか

そんなことばかりを考えていた。


セロリを刻む音と深夜のテレビ番組の音だけが部屋に響いていた。


セロリを刻む音と心臓の音がリンクして、自分の胸の内が彼女に聞かれているようで少し恥ずかしい。


鍋の湯がコトリ、と小さく鳴った。

その音がなにかの始まりの合図のようだった。


「今、彼女いるの?」


唐突な音葉からの問いだった。


僕は聞こえていたが


「え?なんて?」


あえて聞こえていないふりをして

時間を稼いだ。


「付き合っている人とかいるの?って聞いた」


音葉はまっすぐな瞳でこちらを向いて聞いてきた。


こんな子に嘘をついていいものかと。


しかしもう戻れないし、戻りたくない。


今日は罪悪感は職場に置いてきた。


僕は答えた。

「いないよ。」

その4文字が全ての始まりだった。


「そっか、いないのね。そうか。」


音葉は、そう答えて

お酒を一口飲んだ。


「そっちはいるの?彼氏」


僕はその時点で音葉のことを間違いなく気になっている。


ここで深く踏み込まれて、実は彼女がいるという

事実を知られたくない。

顔に出やすい僕なので表情ひとつで

知られたら全て終わってしまいそうで。


それがとてつもなく嫌で、僕は話の矛先を変えるのに全神経を注いだ。


「いないよ」

音葉はあっさりと


と答えた。


なにも後ろめたいことがなければなんともないこの会話だが

僕はセロリを切るスピードが上がり

自分の心音が上がるのも感じた。


僕はセロリを刻む手を止めなかった。

止めたら、胸の鼓動まで

そのままこぼれてしまいそうだった。


コトリ、と鍋がまた鳴る。

部屋の空気が、少しだけ形を変える。


この夜のあの返答がなければ、

きっと何も始まらなかった。


悪いことをしたという自覚は、ちゃんとあった。

それでも——


あのときの「いないよ」は、

たしかに僕の本音だった。


サキには悪いが、本音というより

そうであって欲しいと現実を

捻じ曲げたい僕のズルさだった。

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