第9話 平和という現実
元魔王ガングリュックがヘルツの部屋に転がり込んでから、十日が過ぎた。
「それにしてもマズいな……」
世界最強の勇者ヘルツは、人生最大級のピンチに直面していた。
「クエストがない!」
ガングリュック失脚に端を発した魔界の大規模内乱により、人間界へ侵食していた魔物のほとんどが魔界へ引き上げてしまったのだ。
魔物の脅威が消え、世界は平和になった。
だがその結果、それを生業としてきたヘルツをはじめ冒険者たちは、完全に干上がった。
職を求めて冒険者たちがギルドへ殺到する。
高額報酬のクエストは影も形もなく、「飼い猫の捜索」「庭の雑草むしり」など、これまで誰も見向きもしなかった雑多で低報酬な仕事さえ一瞬で消える有様。
今、ギルドで一番人気の“仕事”は「ギルドに入る整理券を取るために前日から並ぶ」ことだ。
秋も深まり、夜風が骨身にしみる。
それでもヘルツは、確実に日銭が得られるその“仕事”を、既に三日連続でこなしていた。
さらに状況は悪化する。
「まったく宿屋の店主も薄情なものだ。散々命を助けてやったのに、魔物がいなくなった途端に宿泊代を請求してきやがった。しかもこのバカの分まで。ベッドは一つしかないだろうが!」
四日前から宿代の請求が始まった。
街の英雄であるヘルツは、これまで一番良い部屋に無料で泊まっていたが、平和になった瞬間、用済みと言わんばかりの高額請求である。ガングリュックの分まで。
「あと二日で出ていかなかったら、これまでの分も請求するよ」
店主のその一言は、事実上の立ち退き通告だった。
平和な時代に勇者はいらない――この残酷な現実に、ヘルツは右往左往するしかなかった。
「このままだと、あと二日で資金が尽きる。このバカがいると国にも帰れないし……足手まといにも程がある!」
そんな危機的状況でも、ガングリュックはベッドで寝たまま起きてこない。
食べ物を置いておくと消えているので生きてはいるし、どうやらときどき起きているらしいが、ヘルツが部屋にいる時は決まって“寝たフリ”だ。
ヘルツは、故郷に戻れば親のすねをかじって何とか暮らすこともできる。
だがガングリュックがいるとそれも難しい――というか連れて行きたくない。
何度も置き去りにして出ていこうと考えたが、腐ったとはいえ元魔王。放置すれば何をしでかすか分からない。
それに、心のどこかで「こうなったのは自分のせいだ」という罪悪感があり、見捨てられなかった。
「ご苦労さんね。はい、これ報酬」
列の先頭を次の冒険者に譲ると、初老の冒険者から銅貨を五枚受け取る。
「ありがとう……」
ヘルツは大事そうに銅貨を握りしめ、ギルドを後にした。
(徹夜で並んで、これっぽっちか……前はそこらのオークを二、三体倒すだけで金貨三十枚は貰えたのに)
朝飯の硬いパンを買えば、残りは三枚。
宿代は一泊銀貨八枚(銅貨八十枚)もする。
「あそこにこれ以上泊まるのは無理だな……こんなこと、いつまでも続けられない。まずは安い宿を探さないと」
悲壮感を漂わせ、冷え切った体を温めるため宿へ戻ると、店主がしかめっ面で待ち構えていた。
「ど、どうしました?」
「どうもこうもないよ! アンタの同居人が、うちの食材を勝手に盗み食いしてたんだ!」
「ええ!! す、すみません!!」
「『すみません』じゃないよ! 今までのことがあるからタダで泊めてやってたのに、こんなことされたらたまったもんじゃない! もう我慢できない、今すぐ出てってくれ!!」
「え……あっ!」
ショックで、握っていた銅貨三枚を落としてしまった。
――チャリン。
「あ……」
拾おうと腰をかがめた瞬間、店主が目にも止まらぬ速さで銅貨をさらう。
「とりあえずこれは今回の件のチャラってことで! 十時までに出てってよ!!」
店主は勇者の全財産をポケットに入れ、店の奥へ消えた。
部屋に戻ると、ガングリュックは“盗んだハム”をかじっていた。
「しまっ!」
食べるのに夢中で“寝たフリ”をし損ね、慌てて布団に潜り、白々しく“寝たフリのフリ”をする。
「あのさぁ……」
「ぐーぐー」
ボスッ!
ヘルツは容赦なく布団ごと蹴り飛ばした。
「ぐはっ!」
どうやらボディにめり込んだらしい。
「あのさぁ……」
「は、はぃ……」
息も絶え絶えに布団から顔を出すと、ヘルツがゴミを見るような目で見つめていた。
「お前のせいで、今すぐここを追い出されることになりました」
「えっ!? 俺のせい??」
「そう。お前のせい」
「まさかぁ」
ボスッ!
再びみぞおちに一撃。
「とにかく出るぞ」
「えー……!!」
間延びした声を上げた瞬間、ガングリュックの目の前にヘルツの靴裏が迫る。
「わ、分かりました分かりました! す、すぐ準備します!!」
――――
こうして、つい十日ほど前まで“世界最強の勇者”と呼ばれた男と、“魔界のすべてを支配してきた魔王”は――無事、ホームレスになった。
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