「王都を追放された『地味』聖女、辺境で『奇跡の薬師』になる ~モフモフ聖獣と王弟殿下に守られているので、今さら王都が崩壊しても知りません~」
第37話 第9章 王都の使者と総司令官の剣 9-1: 招かれざる客
第37話 第9章 王都の使者と総司令官の剣 9-1: 招かれざる客
辺境軍総司令部の砦に、リーナが『専属薬師』として迎え入れられてから、数週間が経過していた。
黒い岩肌を削り出して作られた無骨な砦。その東棟にアレクシスが与えた工房は、今やリーナにとって、王都の神殿や実家のどの部屋よりも大切な『夢の城』そのものだった。
窓から見える風景は、王都の華やかな街並みとは似ても似つかない。どこまでも続く、鉛色の空と、痩せた灰色の荒野。魔族領から吹き付ける風が、瘴気の匂いを微かに運び、砦の壁に当たって低く唸っている。
だが、その厳しさこそが、リーナに絶対的な安心感を与えていた。
分厚い石壁と、アレクシスという絶対的な庇護者に守られたこの工房の中は、驚くほど静かで、温かい。
(ここでは、誰も、私の邪魔をしない)
リーナは、工房の中央に据えられた巨大な作業台に、王都から持ち出した『前世薬学応用論』を広げ、研究に没頭していた。
王都にいた頃は、実兄アランが「聖女の務め以外のことをするな」と、その冷たい目でリーナを睨みつけ、彼女から薬学書を取り上げた。父の死後、あの家には、彼女の探求心を認めてくれる者など誰もいなかった。
だが、アレクシスは違った。
彼は、リーナの知識を『辺境の未来への投資だ』と断言し、彼女が望むあらゆる環境を、その恐ろしいまでの行動力で整えてくれた。
王都の王立研究所にしかない最新の蒸留器。壁一面に並べられた、薬草を完璧な状態で保管するための乾燥棚。そして、リーナの知識への、絶対的な信頼。
(あの人は、私の価値を、正当に評価してくれた)
その事実が、リーナの心を、王都で受けたどんな傷よりも深く、温かく癒していた。
医務室での治療、『奇跡の畑』での実験、そして新薬の研究。アレクシスの庇護下にあるという絶対的な安心感が、リーナの薬師としての能力を、堰を切ったように開花させていた。
王都で受けた心の傷、あの日の屈辱と痛みは、まだ完全に消えたわけではない。だが、この充実した日々の中で、まるで薄い絹を一枚ずつ重ねるように、ゆっくりと、確実に癒え始めていた。
「きゅぅぅん」と、甘えたような寝息が漏れた。
工房の隅、アレクシスがブラン専用にと特注させた(ガルド隊長が「聖獣様とはいえ、俺の月給より高いのでは」と内心で悲鳴を上げたほどの)極上の絹のクッションの上で、小さな白い毛玉が、世界で一番幸せそうな寝息を立てている。
リーナは研究の手を止め、その無防備な『モフモフ』の塊に、思わず笑みをこぼした。
ブランの温もりは、リーナにとって、この砦での生活の、もう一つの中心だった。研究に行き詰まった時、王都の悪夢を見そうになった夜、この小さな『湯たんぽ』を抱きしめるだけで、心のささくれが綺麗に溶けていく。
(この生活が、ずっと、ずっと続けばいいな)
もう二度と、あの日のように、誰かの身勝手な都合で、この幸福を奪われたりしない。
そう、心から願った、その瞬間だった。
ガコンッ! ドンドンドンッ!!
まるで、破城槌で打ち破ろうとするかのような、暴力的で、無遠慮な音が、工房の分厚い扉を激しく叩いた。
それは、彼女の穏やかな日常を、文字通り『破壊』する音だった。
リーナの心臓が、氷水で掴まれたかのように、激しく跳ね上がった。
あの音を知っている。
王都で、兄アランが、彼女の私室の扉を、苛立ち紛れに蹴破った時の音に、酷似していた。
「きゅん!?」
ブランが、クッションから飛び起き、警戒の唸り声を上げる。
「リーナ薬師殿! ご無事か! 開けてくだされ!」
扉の外から聞こえたのは、ガルド隊長の切羽詰まった声だった。
「ガルド隊長?」
リーナは、震える手で扉の閂を外した。
勢いよく開かれた扉と共に、砦の廊下の、凍てつくような冷気が、工房の温かい空気の中へと、一気に流れ込んできた。
そこに立っていたガルドは、リーナが知る、あの屈強な隊長の姿ではなかった。
その顔は真っ青で、目には、魔族の大群に遭遇した時のような、明らかな『恐怖』と『焦燥』が浮かんでいた。
「どうなさったのですか、そんなに慌てて。医務室で、また急患が?」
リーナは、まだ、日常の延長で、そう尋ねてしまった。
ガルドは、そのリーナの言葉に、かぶりを振った。
「はっ! それが!」
ガルドは、この砦で最強クラスの彼が、なぜこれほど怯えているのか、声を絞り出した。
「『王都』から、使者が、参りました!」
(王都)
その二文字を聞いた瞬間、リーナの全身の血が、サッと音を立てて引いた。
暖かい工房の空気が、一瞬にして、あの日の『謁見の間』の、冷たく滑る大理石の床に変わったかのような錯覚。
カシャン、と。
手から、新薬の配合を試していた調合用のガラス棒が滑り落ち、硬い石の床で、甲高い音を立てて砕け散った。
蘇る、あの日の悪夢。
殴られた左頬の、焼けるような熱。
ジュリアス王太子の、甲高い嘲笑。
セラが、リーナの耳元で囁いた、慈愛の仮面の下の、冷たい侮蔑。
そして、思い出す。
(お兄様!)
私を、虫ケラでも見るかのように見下ろし、殴りつけた、あの憎悪に満ちた瞳。
『王都』という言葉は、リーナにとって、その全ての屈辱と恐怖を凝縮した『呪い』だった。
「リーナ薬師殿? 顔色が、真っ白だぞ!」
ガルドが、リーナの異変に気づき、慌ててその肩を支えようとする。
「使者は、今はどちらに」
リーナの声は、自分でも驚くほど、か細く、震えていた。
「今、砦の中庭におられます! 総司令官閣下が『薬師殿は工房から出すな』と厳命されていたのですが、使者側が、薬師殿の身柄の引き渡しを強硬に要求しておりまして!」
「!」
ガルドの言葉の続きを聞く前に、リーナは工房を飛び出していた。
(身柄の、引き渡し?)
(嫌な予感がする)
(王都が、今さら、私に何の用?)
回廊を走りながら、リーナの脳裏に、アウトライン(第8章)の光景がフラッシュバックする。
『大雨』『洪水』『疫病』。
(まさか。王都が、本当に崩壊を? だから、私を連れ戻しに?)
(あんなに無様に私を捨てておいて、今更、助けろと?)
(そんな、あまりにも身勝手な!)
だが、別の、もっと恐ろしい可能性が、彼女の背筋を凍らせた。
(違うかもしれない)
(アレクシス閣下が、私を『保護』していることを、王都が『反逆』と見なしたのかもしれない)
(私を、アレクシス様を貶めるための『道具』として、王都へ、あの地獄へ、連れ去りに来たというの!?)
胸を突き上げる強烈な不安に、足がもつれる。
医務室で兵士たちを救い、アレクシスに『宝』だと認められ、ブランという温かい相棒を得て、ようやく手に入れた、この『居場所』。
それを、王都の人間たちが、再び、あの日のように、理不尽な暴力で奪いに来たのではないか。
「きゅん!」
ブランが、主の恐怖を感じ取り、その後を必死に追いかけてくる。
リーナは、恐怖に震えながら、中庭を見下ろせる、冷たい石畳の回廊へと走った。
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