第35話 8-3: 遅すぎた『気づき』
ギシギシギシギシッ!
メキメキッ、バキッ!
王宮の、堅牢だったはずの、大理石の床が、足の裏で、明らかに、傾いでいく。
壁にかけられていた、ジュリアスの、尊大な自画像が、その重みに耐えきれず、ガシャン! と甲高い音を立てて、床に叩きつけられ、砕け散った。
バルコニーの手すりが、凄まじい音を立てて、ねじ曲がっていく。
「ひっ、ひいいいぃぃぃっ!」
セラが、聖女にあるまじき、甲高い悲鳴を上げた。
彼女は、バルコニーの床に、無様に、尻餅をつき、泥水まみれの夜会服(ナイトドレス)のまま、這うようにして、まだ傾いていない、執務室の奥へと、逃げ戻ろうとした。
その姿には、昨日までの、傲慢な『本物の聖女』の面影は、欠片もなかった。
「な、な、な、なんでだ!」
ジュリアスも、パニックに陥っていた。
彼は、傾くバルコニーにしがみつきながら、目の前の、現実離れした『崩壊』を、理解できずに、叫んでいた。
「王宮だぞ! この国で、最も、堅牢な、建物が! なぜ、こんな、雨くらいで!」
「殿下! お早く! お早く、中へ!」
「西棟は、もう、持ちません! 建物が、崩落いたします!」
泥まみれの騎士たちが、半狂乱で、王太子と、聖女(だったもの)を、文字通り、引きずるようにして、バルコニーから、傾いだ執務室の中へと、押し戻した。
ゴウウウウウウウッ!
その、直後。
ジュリアスたちが、ほんの数秒前まで立っていた、あの、壮麗なバルコニーが。
王宮の、壁ごと、巨大な音を立てて、眼下の、濁流渦巻く広場へと、まるで、粘土細工のように、崩れ落ちていった。
ズウウウウウウウウウウウンッ!!
凄まじい、地響き。
そして、王宮前広場で、セラの『光』に、偽りの『熱狂』を抱いていた、民衆たちの、最後の、絶叫。
彼らは、自分たちの、最後の『希望』であったはずの、王宮のバルコニーが、その『聖女』の奇跡の、まさにその瞬間に、自分たちの上へと、崩れ落ちてくるという、あまりにも皮肉な、悪夢の光景を、目撃した。
濁流と、土砂と、王宮の瓦礫が、一瞬にして、広場の、何千人もの民衆を、飲み込んだ。
「あ」
「ああ」
「あああああああああああああっ!」
ジュリアスは、バルコニーが消え失せ、ぽっかりと大穴が開いた、執務室の『元・窓際』に、腰を抜かしたまま、へたり込んだ。
(死んだ)
(皆、死んだ)
(俺の、民が)
(俺の、祝祭を、待っていた、民が)
(セラの、光に、熱狂していた、民が、今、目の前で、潰された)
彼の、傲慢だった頭脳は、ようやく、この事態が、自分の『祝祭』や『絨毯の汚れ』などとは、比較にならない、絶対的な『破滅』であることを、理解し始めた。
「なぜだ」
ジュリアスの、震える声が、響いた。
「なぜ、こうなった」
「セラ」
彼は、同じく、床にへたり込み、焦点の合わない目で、虚空を見つめている、セラの、泥まみれの髪を、掴んだ。
「お前の、せいだ!」
「ひっ!?」
「お前の『光』が! お前の『奇跡』が、まやかしだったからだ! お前が、雨も、止められぬ、役立たずの、偽物だったからだ!」
「ち、違います!」
セラは、ようやく、我に返り、ジュリアスの手を、必死に、振り払おうとした。
「わ、わたくしは、治癒の聖女です! 天候を操るなど、そのような力、もとより、契約には、ございません!」
「嘘を、つけ!」
ジュリアスは、もはや、分別を失っていた。
「あの『偽聖女(リーナ)』は! あの『地味な力』の女は、五年間、この王都で、雨も、川も、すべて、管理していたではないか!」
(そうだ)
ジュリアスの脳裏に、今更ながら、あの、忌まわしい、追放の日の、光景が蘇った。
あの時、リーナは、確かに、叫んでいた。
『私の力は、大地を浄化し、瘴気を防ぎ、川の氾濫を防ぐ、国の基盤だ』と。
(あの時は)
(あんな『地味』な祈りで、国が守れるかと、嘲笑ってやった)
(あんな『目に見えぬ』もので、民が救えるかと、断罪してやった)
(だが)
(あの女が、いなくなった、途端)
(この、様だ)
「殿下! 殿下!」
その時、執務室の、奥の扉から、今度は、文官の、トップである、宰相代理が、血の気のない顔で、転がり込んできた。
その手には、王宮の、崩落とは、また別の、絶望が、握りしめられていた。
「も、もはや、王都だけの、問題では、ございません!」
「なんだと!」
「たった今、地方の、すべての関所から、緊急の、魔術通信が!」
宰相代理は、その場で、羊皮紙を、震える手で、広げた。
「お、王都周辺の、すべての、小麦畑が、全滅!」
「は?」
ジュリアスの、思考が、止まった。
洪水で、泥まみれになった、民衆の死体。
それと、『小麦』。
二つの、出来事が、彼の頭の中で、繋がらない。
「全滅、だと? この、雨の、せいか?」
「そ、それも、ございます! が!」
宰相代理は、続く言葉を、恐怖に、ためらった。
「それ、だけでは、なく」
「はっきり、申せ!」
「『根腐れ』、にございます!」
(ねぐされ?)
「この、長雨で、大地が、水を、吸いきれなくなり、すべての、畑で、作物の『根』が、一斉に、腐り始めて、いる、と!」
「そ、そんな、馬鹿な! たかが、五日や、十日の、雨で! この国の、大地が、そこまで、軟弱な、はずが」
ジュリアスの、言葉が、止まった。
彼の脳裏に、再び、あの日の、リーナの、声が、響いた。
『私の力は、大地を浄化し、植物を活性化させる力!』
『私の祈りが途絶えれば、作物は根腐れし、大地は瘴気に汚染される!』
(まさか)
ジュリアスの、顔が、急速に、青ざめていく。
(あの女の、あの『地味な祈り』は)
(本当に、この国の、大地の『保水力』と、作物の『生命力』そのものを、支えていた、というのか?)
「そ、それだけでは、ございません!」
宰相代理は、もう、止まらない。
「洪水で、水没した、下町から! すでに『疫病』が、発生し始めております!」
「えきびょう?」
「『灰色の病』! 五年前に、王都を、壊滅寸前にまで、追い込んだ、あの『瘴気病』と、酷似した、症状が、現れております!」
「あ」
ジュリアスは、もう、立っていられなかった。
(灰色の、病)
あの時、父である国王が、慌てて、神殿に、聖女の捜索を、命じ。
そして、見出されてきたのが、あの『地味』だが、確かに、その『灰色の病』を、鎮めた、少女。
リーナ・バークレイ。
(あの女が、五年間、毎日、毎日、神殿で、捧げていた、あの『陰気な祈り』)
(あれが、この王都から、瘴気を、祓っていた?)
(洪水)
(根腐れ)
(疫病)
リーナが、いなくなった、途端。
その、彼女が、五年間、たった一人で、防ぎ続けていた、三つの『天災』が、今、一斉に、この王都に、牙を剥いた。
「ああ」
ジュリアスは、砕け散った、自分の自画像の、額縁を、呆然と、見つめていた。
(俺が、捨てたのは)
(『偽聖女』などでは、なかった)
(俺は)
(この国の『生命線』そのものを)
(俺、自身の、手で、断ち切り、辺境へと、捨て去ったのだ)
(あの『叔父』が、統べる、あの、忌まわしい、辺境へと!)
遅すぎた『気づき』。
それは、彼が、何よりも、軽蔑し、嘲笑い、その存在価値を、欠片も、認めていなかった、『地味な力』こそが、この国の、すべてであったという、絶対的な、絶望だった。
「リーナ」
ジュリアスの、乾いた唇から、あの、忌まわしい『偽聖女』の、名前が、こぼれ落ちた。
「あの女を、連れ戻せ」
「は?」
宰相代理が、聞き返す。
「今すぐだ!」
ジュリアスは、床に、へたり込んだまま、まるで、狂人のように、叫んだ。
「あの『偽聖女』を! 辺境から、今すぐ、王都へ、連れ戻せ!」
「何を、犠牲にしても、だ!」
「あの女さえ、戻れば! あの女の『地味な力』さえ、あれば! この雨も、洪水も、疫病も、すべて、元通りに、なるはずだ!」
それは、もはや、王太子としての、命令ではなかった。
自らの、愚かな『人災』によって、すべてを失い、破滅の淵に立たされた、一人の、愚かな男の、最後の、身勝手な『叫び』だった。
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