第16話 3-4: 瀕死の『モフモフ』
リーナの両の手のひらが、淡い、しかし、この世のどんな炎よりも確かな熱を帯びた、白銀の光を放ち始めた。
それは、王都の謁見の間で兄アランに見せつけた、あの見栄だけの光ではない。
新聖女セラが放つ、民衆の目を欺き、生命力を前借りする、中身のない『まやかしの光』でもない。
リーナ・バークレイが、聖女として、この世界に生を受けてからずっと、その身に宿し続けてきた、力の源泉。
父だけが、その価値を信じてくれた力。
『大地の浄化と植物の活性化』。
王都の誰もが『地味』と嘲笑い、『無能』と切り捨てた、その純粋な『生』の力そのものだった。
(……瘴気を、浄化する……!)
(……この子の命を奪おうとしている、この傷口から流れ込む、魔族の『呪詛』を、断ち切る……!)
ゴウウウッ、と、まるで地獄の釜の蓋が開いたかのように、黒い亀裂から噴き出す瘴気の奔流が、リーナの放つ白銀の光に触れた、その瞬間。
ジジジジジッ……!
まるで、燃え盛る炎に、冷たい水を浴びせかけたかのように、激しい抵抗がリーナの両手を襲った。
瘴気が、リーナの『生』の力を、真っ向から喰らい尽くそうと、凄まじい勢いで抵抗してくる。
光に触れた瘴気は、霧散するどころか、黒い蛇のように凝縮し、リーナが張った『浄化』の結界を、外側から激しく叩き、こじ開けようとしてきた。
(……っ、なんて、濃いの……!)
リーナは、奥歯を強く、強く、噛み締めた。
『死の谷』の、あの淀んだ瘴気とは、圧力が、密度が、そして『悪意』の純度が、まるで違う。
ここは、源泉。
魔族の世界から、直接流れ込む『死』そのもの。
(……熱い!)
全身の血が、沸騰するかのようだ。
聖女の力が、体中から、まるで栓を抜かれたかのように、凄まじい勢いで奪われていく。
足元の、白い苔の死骸が、両者の力の衝突に耐えきれず、チリチリと音を立てて、黒い塵へと変わっていく。
(……ここで、負けたら)
(……私が、力を緩めたら)
(……この奔流が一気に、私と、この子を、二人とも飲み込む……!)
(……二人とも、死ぬ……!)
グル、ウウゥ……。
その時、聖獣が、再び、心の底から絞り出すような、苦悶の声を漏らした。
その黄金色の瞳が、リーナの、汗みずくになった顔を、じっと、焦点を合わせるかのように見つめている。
その瞳に宿っていた『絶望』の色が、ほんのわずかに揺らぎ、代わりに、信じられないものを見るかのような『驚愕』の色が浮かんでいた。
(……なぜ)
(……なぜ、逃げない)
(……お前も、死ぬのに)
その、言葉にならない波動が、リーナの心に流れ込んでくる。
(……諦めないで)
リーナは、唇こそ動かさなかったが、祈りのすべてで、聖獣に語りかけた。
(……私が、死なせない)
(……あなたは、こんな場所で、こんな瘴気にまみれて、死んでいい存在じゃない)
(……私も、諦めないから)
リーナは、意を決し、両手を、聖獣の、あの忌まわしい傷口へと、さらに深く差し向けた。
傷口にこびりついた『呪詛』が、彼女の接近を感知し、まるで生きている蛇のように、その黒い鎌首をもたげ、リーナの聖なる力を拒絶し、威嚇し、攻撃してきた。
ビリビリ、と、両腕の皮膚が、直接焼かれるような激痛が走る。
(……私の力は、王都では『地味』だと笑われた)
(……ジュリアス殿下は『そんな目に見えぬもので国が守れるか』と嘲笑った)
(……セラは『派手』な治癒の光で、私を『偽物』だと断罪した)
(……私には、あんな『派手』な治癒の光は、ない……!)
(……でも!)
リーナの心の中で、父の、あの温かい声が蘇った。
『リーナ。お前の力は、基盤だ。目には見えぬが、すべてを支える、何よりも尊い力なのだ』
(……そうよ、お父様……!)
(……私には、この『大地を浄化する力』がある!)
(……この子の、聖なる身体を蝕む、魔族の『呪い』も!)
(……この国の大地を汚染する『瘴気』と、同じこと……!)
(……穢れは、穢れ!)
(……ならば、私の力が、届かないはずがない!)
(……浄化、してみせる……!)
リーナは、絶叫にも似た、無音の祈りを込めて、自らの力の、その奥底にある、最後の源流の堰を、切った。
パァァァァァァッ……!
リーナの身体から、彼女自身も、これまで自覚したことのないほどの、眩い、眩い、白銀の光が、奔流となって溢れ出した。
それは、セラの光のような、目を焼く、表面的な眩しさではない。
それは、まるで、真冬の早朝の、凍てつく大気を、厳かに清めていく、最初の太陽の光。
冷たく、厳しく、しかし、何よりも温かく、そして、この世のいかなる『死』をも拒絶する、絶対的な『生』の波動。
「……ッ!」
聖獣の黄金色の瞳が、今度こそ、驚愕と、そして、数百年、数千年ぶりに感じたかもしれない、純粋な『安堵』の色に、大きく、大きく見開かれた。
リーナの放つ、その白銀の光の奔流が、聖獣の傷口にこびりついていた、あの蛇のような『呪詛』に、真正面から激突した。
ジュウウウウウウウウウウッ……!
まるで、灼熱の鉄が、深雪に突き立てられたかのように。
聖水が、不浄なものを、その存在ごと焼き尽くすかのように。
あの、禍々しい『呪詛』が、断末魔の叫びを上げる間もなく、黒い、悪臭を放つ煙を上げて、消滅していく。
(……今……!)
呪詛が、消えた。
聖獣の身体を、内側から蝕んでいた、最大の『敵』が、浄化された。
傷口から、瘴気が流れ込もうとするが、リーナの光の奔流が、それを許さない。
瘴気の源泉の、その真っ只中に、リーナと聖獣だけを包む、絶対的な『聖域』が、一瞬、生まれた。
その隙を、リーナは見逃さない。
(……今度は、あなたの『中』よ……!)
彼女は、両手を、ついに、聖獣の純白の毛皮――その、血と泥と瘴気に汚れながらも、なお神々しさを失わない『モフモフ』の毛皮に、深く、深く、沈めた。
(……!)
リーナは、あまりの感覚に、息を呑んだ。
(……なに、これ……)
(……あったかい……)
まるで、極上の、湯たんぽよりも温かい、絹の雲に、両手を、腕ごと差し入れたかのようだった。
指が、毛皮の奥深くへと、どこまでも、どこまでも沈んでいく。
信じられないほどの、柔らかさ。
信じられないほどの、密度。
信じられないほどの、生命力に満ちた、温かさ。
(……王都の、どんな毛皮とも、違う……)
(……これ、生きてる。この毛、一本一本が、聖なる力で、呼吸してる……)
そして、その、あまりにも心地よい温かさの奥にある、聖獣の、か細くなった『命』の鼓動。
ドクン……ドクン……と、ゆっくりと、しかし、必死に、生きることを諦めていない、気高い鼓動。
(……私の力を、あげる)
(……私の『聖』を、全部、あげるから……!)
(……『活性化』……!)
リーナの聖女の力が、今度は、浄化の『白銀』から、生命を育む『黄金』の色へと、その性質を変えた。
黄金の光が、リーナの両手を通じて、聖獣の身体の中へと、優しく、優しく、注ぎ込まれていく。
それは、傷を『塞ぐ』力ではない。
そんな、セラの『まやかし』のような、表面的なものではない。
聖獣が、自ら傷を『治す』ために。
その、呪詛によって奪われ、失われ続けていた、膨大な生命力を、リーナの力が『肩代わり』し、『増幅』させ、『再点火』させる力。
(……お願い、生きて……!)
(……こんなに、温かいあなたが、死んでいいはずがない……!)
リーナの意識が、急速に、遠のいていく。
瘴気の源泉の真ん中で、これほどの力を使った代償は、あまりにも、あまりにも大きかった。
体中の血液が、一瞬で蒸発してしまったかのような、凄まじい虚脱感。
視界が、白く、点滅する。
(……寒い)
あれほど熱かった身体が、今度は、急速に冷えていく。
聖女の力が、完全に、底をついた。
もう、指先一本、動かせない。
(……もう、だめ……)
(……ごめん、なさい……)
(……私も、ここまで、みたい……)
リーナの身体が、浄化の光を失い、瘴気の奔流の『死』の空気に、再び晒され、ぐらり、と横へ傾いだ。
そして、その意識が、永遠の闇に落ちる、寸前。
ふわり、と。
信じられないほどの、柔らかさと、温かさに、その背中が、優しく包み込まれた。
(……え……?)
薄目を開けると、そこには、あの巨大な聖獣が、先ほどまでぴくりとも動かなかったはずの、その『尾』があった。
純白の、あまりにも『モフモフ』な、リーナの身体よりもなお太いその尾が、最後の力を振り絞って、リーナのことを、まるで、壊れやすい、大切な宝物でも守るかのように、その冷え切った身体に巻き付き、抱き寄せていた。
(……あったかい……)
(……私を、守って、くれてるの……?)
聖獣の、あの黄金色の瞳が、リーナの顔を、すぐ間近で、見つめていた。
その瞳には、もう、あの『絶望』の色はなかった。
ただ、深い、深い『慈愛』と、そして、リーナの無謀な行動に対する、呆れたような、それでいて、愛おしそうな光が宿っていた。
グルゥ……と、今度は、確かに、温かな音が、その喉から響いた。
聖獣の身体から、リーナの光とはまた違う、力強く、気高い『聖』の波動が、今度は、リーナの身体へと、ゆっくりと、ゆっくりと、流れ込んでくる。
(……あ……)
それは、リーナが聖獣に注いだ『活性化』の力に対する、聖獣からの『返礼』だった。
リーナの、空っぽになった聖女の力の器に、聖獣の、遥かに格上の『聖』の力が、注がれていく。
互いの、失われかけた『聖』の力を、分け合うように。
傷ついた聖女と、瀕死の聖獣は、この瘴気が渦巻く『死』の源泉の、その中心で。
互いの『聖』の力を寄せ合い、一つの小さな、温かな『生』の領域を、かろうじて作り出し、その夜を越したのだった。
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