第15話 3-3: 聖なる獣

「……あ……」

リーナは、息を呑んだ。

声にならない、かすれた吐息が、彼女の唇から漏れた。

瘴気が渦巻く窪地の中心。

ゴウ、ゴウ、と地獄の釜が開いたかのように、黒い亀裂から『死』の奔流が噴き出し続ける、その真っ只中に。

それ(・・)は、倒れていた。

あまりにも場違いな、巨大な『白』。

(……獣?)

リーナの、薬師としての知識、貴族令嬢としての教養、そして前世の記憶の、そのどれにも当てはまらない、異様な、しかし、あまりにも神々しい姿だった。

獅子のようにしなやかで、大地を掴む力強さを感じさせる四肢。

狼よりも気高く、威厳に満ちた、純白の体躯。

そして、全身を覆う、まるで光そのものを編み上げたかのような、絹糸のように輝く、純白の長毛。

(……きれい……)

リーナは、その美しさに、一瞬、我を忘れた。

この、死の世界である『白夜の森』において、その一角だけが、まるで神殿から切り取られてきたかのように、聖浄な空気を放っていた。

だが、その純白は、今、おびただしい量の『血』と、そして、こびりついた『黒い瘴気』によって、無惨に汚されていた。

獣は、ぐったりと横たわり、呼吸さえしているのか分からない。

その脇腹には、まるで攻城兵器の槍で、内側から抉られたかのような、致命的な傷口が、ぽっかりと開いていた。

(……ひどい、傷……)

リーナの薬師としての目が、瞬時にその傷の異常さを看破する。

(ただの、物理的な傷じゃない……)

(……魔族の、呪詛が込められた攻撃……!)

傷口からは、赤い血と共に、聖なる『光』の粒子が、まるで砂時計の砂がこぼれるように、瘴気の中に溶け出し、失われ続けていた。

(……死にかけて、いる)

その存在が持つ、膨大な『聖』の力が、その傷口から、急速に漏れ出している。

(だから、この瘴気の源泉に倒れていることが、これほどの『致命傷』になっているんだわ)

(普通の獣なら、とうの昔に、この瘴気で絶命している)

(でも、この獣は、自らの『聖なる力』で、傷口から流れ込む瘴気を中和し、抵抗しながら、必死に、必死に、生き延びようとしている……!)

グルル……。

その時、獣の喉の奥から、苦悶の音が漏れた。

それは、リーナを威嚇する音ではなかった。

ただ、その、あまりにも強大な苦痛に耐える、か細い、か細い呻きだった。

(……魔物、じゃない)

リーナは、本能で理解した。

これは、魔族や、瘴気から生まれた魔物といった、負の存在ではない。

これこそが、瘴気と対極にある、『聖』なる存在。

アウトラインにあった、あの名前が、リーナの脳裏に雷鳴のように轟いた。

(……白耀獣(はくようじゅう)……!)

(……伝説の、聖獣……!)

(魔族領で、強力な魔物と戦って、深手を負って、王国領へ……)

(そして、私を、見つけたの……?)

リーナは、自分の心臓が、恐怖と、それ以上の何か――畏敬と、使命感のようなもので、激しく高鳴るのを感じた。

(……私を、呼んでたの?)

(この『聖』の気配に、私のか細い『聖女の力』が、引き寄せられた……? いいえ、逆)

(この子が、最後の力を振り絞って、私を、ここまで『呼んだ』んだわ……!)

リーナは、まるで何かに導かれるように、ゆっくりと、一歩、獣に近づいた。

瘴気の奔流が、彼女の『浄化』の結界を、バチバチと激しく叩く。

聖獣に近づけば近づくほど、瘴気の源泉、その中心へと入っていくことになる。

(……危険すぎる)

理性が、警告を発する。

(今すぐ引き返すべき。こんなものに関わったら、私まで死ぬ)

(王都で、あんな目に遭って、やっと手に入れた、穏やかな生活が……)

だが、リーナの足は、止まらなかった。

すると、獣は、ピクリと、その三角形の、狼のようにも、狐のようにも見える、美しい耳を動かした。

そして、うっすらと、その黄金色の瞳を開いた。

その瞳が、瘴気の渦の中心から、まっすぐに、リーナを捉えた。

(……!)

リーナは、その瞳に射抜かれ、金縛りにあったかのように、動けなくなった。

それは、ただの獣の目ではなかった。

人間よりも遥かに深い、何百年、何千年もの時を生きてきたかのような、深い、深い『叡智』。

そして、その叡智の奥底に宿る、あまりにも深く、純粋な『絶望』の色。

(……諦めて、いる……)

リーナは、その瞳の意味を、痛いほど理解してしまった。

獣は、リーナを見つめ、敵意も、警戒も見せなかった。

ただ、その黄金色の瞳から、ぽろり、と一筋、涙のような、光の雫がこぼれ落ちた。

それは、瘴気に触れる前に、スウ、と蒸発していった。

(……助けて)

(……間に合わなかった)

(……けれど、あなたが、来てくれた)

言葉は、ない。

だが、その『聖』の波動が、リーナの心に、直接、そう語りかけていた。

(……ああ)

(……ああ、ああ……!)

リーナは、もう、後戻りなどできなかった。

(……こんな、瞳をさせたままで)

(……こんな、気高い存在を、見捨てて)

(……どの面下げて、集落で『薬師様』なんて、呼ばれていられるものですか……!)

(王都で、私を殴った、兄アランと、同じになる)

(ジュリアス殿下や、セラと、同じになる……!)

(……絶対に、嫌!)

「……大丈夫」

リーナは、自分でも驚くほど、落ち着いた、力強い声が出たことに安堵した。

「……大丈夫よ」

彼女は、瘴気の奔流を、自らの『浄化』の力で、強引に切り裂きながら、聖獣の傍らへと、膝をついた。

「……私が、来たから」

彼女は、革の鞄から、薬草を取り出すのではなかった。

そんなものは、この『聖』なる存在の、呪詛にまみれた傷には、何の役にも立たない。

リーナは、固唾を呑んで、自らの両手を、聖獣の、血と瘴気にまみれた純白の毛皮へと、ゆっくりと差し出した。

(……助ける)

薬師としてではない。

王都から『偽聖女』として追放された、リーナ・バークレイとして。

この、自分と同じ『聖』の力を持ち、絶望の淵にいる、気高い魂を。

(……私の力は、『地味』なんかじゃない)

(……お父様が、信じてくれた、この力は)

(……この『命』を、救うために、ある力なんだわ……!)

(……絶対に、死なせない……!)

リーナは、自らの聖女の力のすべてを、王都では、決して引き出すことのなかった、その奥底にある力の源流を、その両手に集中させた。

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