第9話 2-3: 村の酒場と「王都の噂」
集落の酒場は、『酒場』とは名ばかりの、荒々しい場所だった。
傾きかけた建物の中は、薄暗く、獣の脂と、安酒の酸っぱい匂い、そして、男たちの汗の匂いが混じり合って、むせ返るようだった。
集まっているのは、屈強な猟師たちと、非番の兵士たち。彼らは、この辺境で、魔物や魔族と対峙する、最前線の人間たちだ。
リーナがフードを目深に被ったまま店に入ると、騒々しかった酒場が一瞬、シン、と静まり返った。
場違いな、女。
それも、この辺境には似つかわしくない、どこか『上』の匂いがする、余所者。
値踏みするような、無遠慮な視線が、リーナの全身に突き刺さる。
(……怯んでは、だめ)
彼女は、その視線を真っ直ぐに受け止め、カウンターの隅でエールを呷っていた、恰幅の良い主人に声をかけた。
「……あの、何か、温かいものを。それと、少し、お話を伺いたいのですが」
主人は、リーナの顔をじろりと見ると、無言で、黒パンをちぎったものと、薄い豆のスープをカウンターに置いた。
リーナが銀貨を差し出すと、主人は驚いたように目を見開き、それから、無愛想にそれを受け取った。
リーナは、熱いスープでかじかんだ指先を温めながら、カウンターの隅で、耳をそばだてた。
彼女が聞きたかったのは、薬草の情報だけではない。
『王都』の、情報だった。
追放されて十数日。あの後、王都はどうなっているのか。
幸い、酒場の奥のテーブルで、王都から来たらしい、身なりの良い商人たちが、大声で酒を酌み交わしていた。彼らは、辺境軍に納品する物資を運んできた、御用商人なのだろう。
「いやあ、聞いたか! 王都は今、ジュリアス王太子殿下と、新聖女セラ様の話題で持ちきりだぞ!」
(……セラ様)
リーナの手が、ピクリと震えた。
「ああ、聞いた聞いた! セラ様の『奇跡の光』は、本物だとな! どんな流行り病も、その光をかざせば、ピタリと収まるそうだ!」
「なんでも、先代の『偽聖女』が、疫病の浄化を怠っていたせいで、王都は大変だったらしいからな!」
(……私が、怠っていた?)
リーナは、奥歯を強く噛み締めた。
(違う。私が、毎日、祈りを捧げていたからこそ、王都では大きな疫病が起こらなかったのに……!)
(私が追放された途端、王都の浄化は途絶えた。……当然、瘴気の澱みは再発し、病が流行り始めている……)
(そして、セラは、その『症状』だけを、あの『まやかしの光』で、一時的に抑え込んでいるに過ぎない)
(根本にある、大地の汚染は、悪化し続けているはずなのに……!)
商人たちの、無邪気な賞賛は続く。
「ジュリアス殿下も、ご英断だったよな! あんな『地味な力』しかねえ偽物をさっさと追い出して、本物の聖女様を迎え入れたんだから!」
「ああ、違いない! おかげで、あの偽聖女の実家、バークレイ伯爵家も、今や飛ぶ鳥を落とす勢いだ!」
「……え?」
リーナは、思わず顔を上げた。
「バークレイ伯爵? ……アラン様のことか?」
「そうよ! あの、偽聖女の兄君だ! 彼は『我が家の恥を晒した』と、王太子殿下の前で、自ら妹を断罪したそうだ!」
ガシャン、と小さな音が響いた。
リーナが、握りしめていたスープの匙を、床に落としたのだ。
(……お兄様が、私を……断罪?)
あの謁見の間での、暴力。
父の壺の、捏造された嘘。
そのすべてが、王都では『兄の英断』として、美談にすり替わっている。
(……私を殴りつけ、私を『偽聖女』と罵ったことで、お兄様は、王太子殿下からの『覚えがめでたい』……?)
(……ああ、そう。そうだったわ)
(あの人たちは、そういう人間だった)
(真実など、どうでもいい。自分たちに都合の良い『物語』だけがあれば、それで満足なのだ)
「おかげで、アラン様は王太子殿下の側近に取り立てられ、伯爵家には、王家からの莫大な援助金が出たとか……いやあ、羨ましい限りだ!」
商人たちの、下品な笑い声が、酒場に響き渡る。
リーナは、ゆっくりと床の匙を拾い上げた。
もう、スープの味はしなかった。
(……そう、お兄様。あなたは、私を売った『対価』で、富と名声を手に入れたのね)
(ジュリアス殿下も、セラも、あなたも。……王都は今、あなたたちの、絶頂期、というわけ)
ズキン、と、心の奥深くが、冷たく痛んだ。
だが、それは、もはや悲しみではなかった。
(……よかった)
リーナは、本気で、そう思った。
(……よかった。私が、あの腐った場所に、もういなくて)
王都への、最後の未練が、これで完全に断ち切れた。
兄が、私を裏切って得た富。
セラが、私を陥れて得た名声。
(……せいぜい、お楽しみなさい)
(あなたたちの足元で、この国を支えていた『基盤』が、今、この瞬間も、腐り落ちていっていることに、気づかずに)
この国は、私を捨てた。
……いいえ、この国が、自ら『破滅』を選んだ。
(……もう、知らない)
リーナは、薄いスープを、一気に飲み干した。
彼女は、大声で笑う商人たちには目もくれず、カウンターの隅で黙々と酒を飲んでいた、猟師風の男に近づいた。
「……すみません。少し、お尋ねしても?」
酒場の喧騒の中、リーナの、生きるための戦いが、静かに始まろうとしていた。
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