第6話 1-6: 旅立ち、捨てられた未練
両腕を無骨な衛兵に掴まれ、リーナは謁見の間を後にした。
引きずられるようにして歩かされながら、彼女は一度だけ、ゆっくりと振り返った。
あれほどリーナを嘲笑し、あるいは恐怖の目で見ていた貴族たちは、もう誰も彼女を見てはいなかった。
彼らはすでに、玉座に残った王太子ジュリアスと、その傍らで勝利の笑みを浮かべる新聖女セラに意識を集中させ、次の阿諛追従の言葉を探している。
兄アランも、満足げな顔でジュリアスに擦り寄っている。
(……滑稽だわ)
あれほど熱狂し、一人の人間を断罪し、暴力を振るい、追放を決定したというのに、もう彼らの興味は次に移っている。
まるで、質の悪い芝居の幕が下りたかのように。
リーナは、もう二度と振り返らなかった。
殴られた左頬の熱だけが、この場所で起きたことの唯一つの現実だった。
「歩け、偽聖女」
衛兵は、掴んだ腕に力を込めた。
リーナはよろめきながらも、自分の足でしっかりと歩き出す。
重厚な王宮の扉が開き、廊下に差し込む外の光が、目を焼いた。
「荷物をまとめる時間はいただけますか」
「……神殿の自室に戻ることは許されている。ただし、時間は半刻(約一時間)だ」
「感謝します」
「勘違いするな。王太子殿下のご慈悲だ」
衛兵は吐き捨てるように言った。
五年間、聖女として暮らした神殿の自室。
王宮の隣に位置するその場所は、王都で最も清浄な場所とされていた。
だが、その道すがら、すれ違う神官や巫女たちは、リーナの姿を認めると、まるで汚れたものを見るかのようにサッと壁際に寄り、目を伏せた。
昨日まで「リーナ様」と微笑みかけてきた人々が、今は呪われた存在に触れるのを恐れるかのように、彼女を避けていく。
(私の『地味な力』が大地を浄化している間、あなたたちの心は、これほどまでに濁っていたのね)
自室の扉が開けられる。
そこは、もうリーナの知る部屋ではなかった。
すでに何者かが入った後で、クローゼットの扉は開け放たれ、聖女として下賜された豪奢なドレスや宝飾品の類は、すべて持ち去られていた。
おそらくは、セラの指示だろう。あるいは、神殿の者たちが、追放される聖女の私物など無用とばかりに略奪したのかもしれない。
「……ちょうどよかったわ」
リーナは小さく呟いた。
あんな華美なドレス、辺境では何の役にも立たない。
「おい、何を突っ立っている! 時間がないぞ!」
扉の外で、二人の衛兵が苛立たしげに槍の柄で床を叩いた。
リーナは、その監視の目にも臆することなく、部屋の奥へと進んだ。
彼女が本当に必要とするものは、王家から与えられたガラクタではない。
まず、クローゼットの隅に残されていた、数少ない私服に着替えた。
貴族の娘としてではなく、薬師として動くために誂えた、濃茶色の丈夫な木綿のワンピースと、革のロングブーツ。修道女の服装にも似た、飾り気のない地味な服だ。
聖女の純白の衣を脱ぎ捨て、その旅装束に着替えると、まるで身体にまとわりついていた重い鎖が外れたかのように、すっと心が軽くなった。
次に、ベッドの脇に向かう。
衛兵が「どこへ行く!」と咎める声を無視し、ベッドの重い木製フレームを少しずらした。
「おい、何をしている!」
「荷物を取ります」
リーナは冷静に答え、床板の一枚に爪をかけた。そこは、彼女だけが知る隠し場所だった。
床板を外すと、中には小さな革袋が一つ、静かに収まっていた。
(お母様、ありがとう)
それは、リーナがまだ幼い頃に亡くなった、第二夫人であった母の、ささやかな遺産だった。父の死後、アランたち正妻筋に財産を奪われることを見越した母が、リーナが本当に困った時のためにと、侍女を通してこっそり隠してくれたものだ。
中には、金貨数枚と、十分な量の銀貨が入っている。王都から辺境への旅費、そして、当面の生活費にはなるはずだ。
これはバークレイ家のものでも、王家のものでもない。リーナだけの、生きるための資金だった。
革袋を懐の奥深くにしまい込む。
衛兵たちは「金目のものではないだろうな!」と疑いの目を向けたが、リーナは「ただの思い出の品です」とだけ答えた。彼らには、その価値はわからない。
そして、最も重要なもの。
部屋の隅にある、小さな書見台。
そこに置かれていたのは、擦り切れた革の表紙がつけられた、分厚い三冊の専門書だった。
『王都薬草全書』
『鉱物と毒物の基礎』
『前世薬学応用論』
最後の本は、彼女が自分で書き記したものだ。
この世界にはない『前世の知識』と、この世界で学んだ薬草学を融合させようと試みた、彼女の研究のすべて。
王都の人間が誰も評価しなかった、彼女の本当の『力』の源泉。
リーナは、その三冊を、愛おしむように腕に抱えた。
「おい、それは本か? そんなもの、辺境に持っていってどうする」
衛兵が嘲笑った。
リーナは答えなかった。
最後に、彼女は窓辺に向かった。
そこには、小さな素焼きの鉢がいくつも並んでいた。
彼女が聖女の力で育てていた、実験用の薬草たちだ。
そのほとんどは、部屋を物色した者たちによって無残に引き抜かれ、床に散らばっていた。
だが、リーナは構わず、その鉢の土をかき集めた。
指先で土をより分け、中から小さな、小さな『種』を選り出していく。
解熱効果のあるもの。
鎮痛作用のあるもの。
そして、瘴気に耐性を持つようにと、彼女が独自に品種改良を試みていた、まだ名もない薬草の種。
「何をしている! 汚らわしい!」
衛兵が、リーナが土を触っているのを見て怒鳴った。
「種です」
リーナは、集めた種を小さな布袋に丁寧に包みながら、静かに答えた。
「……薬草の、種です」
これこそが、彼女の全財産であり、未来への希望そのものだった。
金貨も、本も、この『種』がなければ意味をなさない。
「フン、種だと? 痩せた辺境の土地で、そんなものが育つとでも?」
衛兵は、心底馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
(ええ、育ててみせます)
リーナは心の中で答えた。
(王都では『地味』だと笑われた、この『大地を活性化させる力』で、必ず)
衛兵が用意したのは、罪人を護送するための、窓に鉄格子がはまった粗末な荷馬車だった。
「乗れ」
乱暴に背中を押され、リーナは荷台に転がり込む。
扉が閉められ、重い閂がかかる音がした。
ガタン、と大きな衝撃と共に、馬車が動き出す。
鉄格子の隙間から、見慣れた王都の街並みが、急速に後ろへと流れていく。
五年間、聖女として守ろうとした人々。
彼らは今、窓の外で、新しい聖女の噂話に花を咲かせているのだろう。
誰一人、リーナが見送る者はいなかった。
かつて、聖女として初めてお披露目された日、この大通りをパレードした。
花びらが舞い、民衆が熱狂し、父が誇らしげに自分を見守っていた。
あの日の華やかな景色が、今、殴られた頬の痛みと共に、やけに色褪せて見えた。
馬車は王都の分厚い城門をくぐり抜けた。
ゴゴゴゴ……という重い門が閉じる音が、リーナと王都を完全に隔絶した。
(さようなら、王都)
リーナは、鉄格子の隙間から見える、遠ざかっていく灰色の城壁を見つめていた。
(さようなら、私を裏切ったお兄様)
(さようなら、私を嘲笑ったジュリアス殿下)
(さようなら、私のすべてを奪ったセラ)
懐には、母の残した金貨と、未来を繋ぐ薬草の種。
腕には、前世と今世の知識が詰まった専門書。
そして、王都の誰もが『無能』と切り捨てた、『大地の浄化と植物の活性化』という聖女の力。
(……未練は、もう、ないわ)
王都郊外の発着所で、リーナは乗合馬車に乗り換えさせられた。
衛兵は、御者に銀貨数枚を投げ渡し、「こいつを北の終着点までだ。途中で逃げたら、お前の首が飛ぶぞ」と脅しつけていた。
御者は、リーナの腫れた頬と、衛兵の態度を見て、面倒事に関わりたくないとばかりに顔を歪めた。
馬車には、すでに数人の乗客がいた。
商人風の男、屈強な傭兵崩れ、赤子を抱いた母親。
彼らは皆、リーナの異様な姿(顔の傷と、明らかに訳ありな様子)に奇異の目を向けたが、すぐに興味を失ったかのように、それぞれの薄汚れた毛布にくるまっていった。
リーナは、馬車の最も隅の席に、荷物を抱えるようにして深く座り込んだ。
そして、旅装束のフードを深く、深く被った。
ガタガタと、車輪がきしむ音が響く。
馬車が、北へ向かって走り出した。
王都が、完全に視界から消えていく。
殴られた頬が、北へ向かう風に晒されて、ひりひりと痛んだ。
だが、その痛みこそが、リーナに現実を突きつけていた。
(私は、追放された)
(私は、すべてを失った)
(……いいえ)
リーナは、フードの下で、固く閉じていた目を見開いた。
(私は、自由になったんだわ)
王都のしがらみから。
『聖女』という名の枷から。
そして、私を認めなかった、すべての人々から。
(待っていなさい、北の辺境)
(痩せた土地、瘴気の土地)
(私を、必要としてくれる場所へ)
リーナの唇の端に、あの鉄錆の味がする、微かな笑みが浮かんだ。
それは、絶望の淵から這い上がる者の、力強い決意の笑みだった。
彼女の新しい人生が、今、この瞬間から始まったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます