第5話 1-5: 侮蔑の囁きと追放の宣告
殴られた衝撃で霞む視界の中、リーナは床に倒れたまま、小さく息を吐いた。
左頬が、まるで熱い鉄を押し当てられたかのように、じんじんと脈打っている。口の中に広がった血の味は、兄アランへの憎しみよりも、もっと冷たく、決定的な『諦め』の味をしていた。
謁見の間は、水を打ったように静まり返っていた。
先ほどまでリーナを嘲笑し、アランの嘘に同調していた貴族たちは、今や血の気の引いた顔で、この異常な『暴力』の目撃者となっていた。
だが、彼らは傍観者だ。
誰も、玉座に座る王太子ジュリアスの機嫌を損ねてまで、床に倒れた『偽聖女』に手を差し伸べようとはしない。
彼らの視線は、好奇と、恐怖と、そして「自分は巻き込まれたくない」という保身の色に満ちていた。
兄アランは、妹を殴りつけたというのに、何の呵責も感じていないようだった。むしろ、自分の立場を危うくする『真実』を力でねじ伏せたことに満足し、興奮冷めやらぬといった様子で荒い息をついている。
そして、玉座のジュリアスは。
彼は、この全てを、まるで極上の演劇でも鑑賞したかのように、その唇に薄ら笑いさえ浮かべて見下ろしていた。
彼にとって、リーナの尊厳がどうなろうと知ったことではない。彼が望んだのは、リーナが『悪』であり、セラが『善』であるという、この分かりやすい構図だけだった。
(……ああ、そう。これが王都)
これが、私が五年間、守ろうとしてきた人々の、本当の姿。
リーナは、冷たい大理石に頬をつけたまま、ゆっくりと目を閉じた。
もう、何もかもが、どうでもよかった。
その時だった。
サ、と軽い衣擦れの音がして、ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐった。
王都で今一番流行している、高価な薔薇の香油の匂い。
(……セラ)
リーナは目を開けた。
視界いっぱいに、純白のドレスの繊細なレース刺繍が広がっていた。
新聖女セラが、リーナのすぐ傍らに、音もなく立っていたのだ。
セラは、その場にゆっくりと膝を折った。
床に倒れたリーナと視線を合わせるためだ。
その仕草は、傍目には、傷ついた前任者を気遣う、慈悲深い聖女そのものに見えただろう。
彼女の顔には、聖母のような、痛ましげな微笑みさえ浮かんでいた。
「まぁ、お可哀想に……リーナ様」
その声は、リーナにしか聞こえない、か細く、しかし蜜のように甘ったるい囁きだった。
だが、その慈愛に満ちた仮面の下で、彼女の瞳が、凍てつくような勝利の喜びに爛々と輝いているのを、リーナは見逃さなかった。
(この女……!)
「あんな……実のお兄様が、あんな乱暴をなさるなんて。本当に、お労しいことですわ」
セラは、そう言いながら、そっとリーナの髪に触れようとした。
リーナが、反射的に身を強張らせると、セラは楽しそうにクスクスと喉を鳴らした。
「ふふ……そんなにムキにならなくても」
セラの囁きから、慈愛の仮面が一瞬で剥がれ落ちた。
そこにあったのは、獲物をいたぶる猫のような、底意地の悪い侮蔑だった。
「皆様、もうお分かりなのですわ。リーナ様の、その『地味な力』では、もう限界だったのだと」
(……限界?)
リーナの心に、殴られた頬とは別の、冷たい痛みが走った。
(私の力の、何を知っているというの……!)
「流行り病一つ防げず、王太子殿下にご心配をおかけして。……聖女として、恥ずかしいとは思いませんこと?」
「……っ」
「でも、大丈夫」
セラは、これ以上ないほど優雅に微笑んだ。
その笑みは、リーナの五年間の務めと誇りを、根こそぎ踏みにじるものだった。
「王都のことは、この私がお守りしますから」
(……お守りする?)
リーナの中で、何かが、ぷつりと切れた。
(あなたの、あの『まやかしの光』で?)
(病の根本を絶たず、痛みを誤魔化すだけの力で?)
(国の基盤が腐っていくのを放置して、表面だけを取り繕って、『守る』と、あなたは言うの……?)
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
それは、あまりにも滑稽な茶番に対する、絶対的な『無関心』だった。
(……そう。もう、いい)
リーナは、心の底から、そう思った。
(この王都は、もう、私の知ったことではない)
(この人たちが、まやかしの光に熱狂し、本当の危機から目をそらし、やがて来る破滅を選ぶというのなら)
(それはもう、私が関わることではないわ)
王太子、異母兄、そして後任の聖女。
三方向から、これでもかと尊厳を踏みにじられた。
だが、そのおかげで、リーナの心に残っていた王都への未練は、綺麗に、欠片も残らず消え失せた。
「セラ、もうよい」
不意に、玉座からジュリアスの声が飛んだ。
セラは「はい、殿下」と、再び慈悲深い聖女の仮面を被り、名残惜しそうに立ち上がった。
ジュリアスは、床に倒れたままのリーナを、まるで汚物でも見るかのように一瞥し、満足げに一つ頷いた。
「さて、茶番は終わりだ」
彼は立ち上がり、謁見の間に集まった貴族たちに向かって、朗々と声を張り上げた。
「皆も、これで理解したであろう! リーナ・バークレイは、聖女の御名を騙っていたばかりか、その無能さを指摘されれば嘘を重ね、あまつさえ、その罪を実兄であるアラン・バークレイ伯爵になすりつけようとした!」
ジュリアスは、芝居がかった仕草で天を仰いだ。
「その大罪、万死に値する!」
貴族たちが、ゴクリと息を呑む。
『万死』。それは『処刑』を意味する言葉だ。
(……処刑)
リーナは、床に頬をつけたまま、ぼんやりと天井のシャンデリアを見上げた。
(そう。この国では、真実を語ることは、万死に値する罪なのね)
もはや、何の恐怖も感じなかった。
だが、ジュリアスは、ここで彼が考える『最大の慈悲』を見せることにしたようだった。
「……だが、待て」
彼は、焦らすように間を置いた。
「我が慈悲をもって、貴様の死罪は免じてやる」
「おお……」と、貴族たちから安堵とも失望ともつかない声が漏れた。
「代わりに!」
ジュリアスの声が、謁見の間全体を支配した。
「偽聖女リーナ・バークレイ! 貴様から聖女の資格を剥奪し、王都からの永久追放を命じる!」
(……追放)
その言葉は、リーナの心に何の波紋も起こさなかった。
当然の結末だと思った。
だが、ジュリアスが次に口にした言葉は、貴族たちを再び震撼させた。
「追放先は、北の辺境! 魔族領に最も近い、瘴気に汚染された痩せた土地だ! 貴様はそこで、己の罪を悔いながら、無様に朽ち果てるがいい!」
「ただちに送致せよ!!」
『北の辺境』。
その言葉を聞いた瞬間、貴族たちの間に、あからさまな同情と恐怖が走った。
王都の人間にとって、そこは「人が住む場所ではない」と同義だった。
瘴気に蝕まれ、作物も育たず、魔族の脅威に常に晒される、見捨てられた土地。
そこへ送られることは、緩やかな死刑宣告に等しかった。
アランは「当然の報いだ」と吐き捨て、セラは「お可哀想に」と口元を扇で隠した。
だが、ただ一人。
リーナだけが、その宣告を、まったく違う響きで聞いていた。
(北の辺境……)
殴られた頬の痛みの中で、彼女の意識は、驚くほどはっきりとしていた。
(瘴気に汚染された、痩せた土地……)
王都の、この腐りきった人間関係。
嘘と欺瞞に満ちた政治劇。
真実が暴力でねじ伏せられる、この閉鎖された世界。
(……そこから、出られる)
前世の記憶と、薬師としての知識が、彼女の脳内で囁いていた。
(瘴気? 浄化すればいい)
(痩せた土地? 活性化させればいい)
(私の力は、王都では『地味』だと笑われたけれど)
(辺境のような、本当に大地が死にかけている場所でこそ、私の力は、真価を発揮するのではないの……?)
『厄介払い』。
王太子は、そう思っているだろう。
『緩やかな死』。
貴族たちは、そう思っているだろう。
(いいえ……これは、『好機』だわ)
リーナは、床に倒れたまま、誰にも気づかれぬよう、口の端に微かな笑みさえ浮かべた。
鉄錆の味がする、血に濡れた笑みだった。
王太子も、兄も、新聖女も、誰一人として気づいていなかった。
彼らが今、王都から追放しようとしている『地味な力』こそが、この国の生命線そのものであったこと。
そして、彼らが『無能な偽物』として見捨てた女が、この国の運命を、そして彼ら自身の運命を、根底から覆すことになる『奇跡の薬師』であったということを。
「連れて行け!」
ジュリアスの最後の命令が響く。
衛兵たちが、無感動な顔でリーナの両腕を掴み、引きずっていく。
リーナは、もう、何の抵抗もしなかった。
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