「もういい。やめろ下手くそ」
「早速始めるぞ」
部屋の隅にあったメトロノームを持ち出し、黎木はドラムの椅子へ座る。中央付近には既に88鍵のキーボードがアンプに接続された状態で「誰でもいいから順番に弾け」と指示を出した。
最初の一人が準備する間にメトロノームをいじり、カチッ、カチッとリズムが走る。
「途中にアドリブさえあれば、曲はなんでもいい。とにかくパーカーとの相性を見る」
智絵里は手を上げ、自身を指差した。
「私どうするのー?」
「お前は伴奏に合わせて、主旋律を歌え」
智絵里は頷き、蜂蜜を床に置いた。
まずは壮年の男性がピアノキーボードの前に立つ。黎木はメトロノームを止めハイハットでカウントを取り、演奏が開始した。智絵里は伴奏に合わせ、ルイーズと練習してきたことを意識し、且つ、きちんと教わったジャズに即した歌い方を披露する。
黎木はセッションより先に、彼女の歌の変化に対して満足げに口角を上げた。
壮年の男は伴奏を流していたが、前触れもなくソロを弾きだした。終わるのを待ち、智絵里の番になる。
彼女が緩急をつけようとしても男は録音のようにブレない。
智恵理は首を傾げ、歌いにくそうに眉をひそめた。数分経った頃、伴奏がひとりでに盛り上がり、終わる雰囲気を出し始める。
見合わせ、二人は演奏を終わらせた。
智絵里は男へ一礼しつつ、難色を隠しきれずに蜂蜜を舐めた。
「次」
黎木の鋭い合図で次の若い男性がキーボードの前へ。しかし結果は同じようなものだった。智恵理は本気を出せずに終わり、再び一礼するが不満そうにしている。
「……次」
黎木の声は明らかに不機嫌だった。
最後、知久がキーボードの前に立つ。彼女はアルコールタオルでキーボードを何度も拭き、更にアルコールスプレーを手に吹きかけよく揉み込んだ。
挑戦的だがどこか色が混じる双眸を黎木に向ける。
「お前はセッションしねぇのか?」
黎木は「あぁ」と知久をおざなりに対応し、演奏開始のハイハットをカウントする。
「ちっ……目くらい見ろよ」
演奏が始まると、知久は口だけではなく、他の二人と違って録音のようなやり方ではなかった。しかしそれも途中までで、気持ちよく歌っていた智絵里とどうも噛み合わなくなってくる。
知久はドラムに座る黎木をやたらと意識し、身勝手な演奏のせいでセッションどころではなくなっていた。黎木は大きくため息をつき、おもむろにシンバルを取り外して二人の間に放り投げた。
「わぁ! びっくりした! 何!?」
虚を突かれた轟音で演奏は中断。全員の注目を集める彼は怒髪天を衝いている。
「もういい。やめろ下手くそ」
「下手くそ? なんだ、喧嘩売ってんのか」
憤りを露にした知久が黎木へ詰め寄る。ドラムを挟んで二人が睨み合う中、壮年の男性が慌てて止めに入った。
「落ち着けって、そっちの女の子の話だろう」
もう一人の男性も同調した。智恵理はリズムが跳ねすぎる、二,四拍がぶれる、楽器の真似をする声には合わせにくい、キーも勝手に転調する等の文句を練り合い、知久を宥めようとした。
全くの正論に智絵里は俯き、何も言えないでいたが、黎木がメトロノームを壁に叩きつけて三人を黙らせた。
「下手くそはお前ら三人の事だ。演奏のケツ拭かれてることも煽られてることも気付かねぇ。セッションなのにオナりやがって。ジャズ舐めてんのか」
知久は青筋を立てて黎木の胸倉を掴んだ。
「てめぇがギャラくれるっていうから茶化しに来ただけだよ。本気でやる訳ねぇだろ」
「あぁ、頼んだ俺が間違いだったよ。たとえ本気でも、全く息が合わないだろうけどな」
智絵里はおろおろしながら二人のやり取りを追い、無力ながら何かできないかと部屋をきょろきょろしている。一触即発の空気に我慢できなくなり、大きく手を掲げた。
「みんな! 私のために争うのは止めて!」
「「「お前のためじゃねぇ!」」」
「うわ息ピッタリ!」
智絵里が苦笑いで一歩引くと同時、スタジオの扉が開いた。
壁とドアの隙間から、棺のような入れ物とスクールバックを持った、ジャージ姿の巨躯がぬるりと覗き込んだ。
「す、すいません、電車が遅れたんです、途中で帰ろうとかしてないです、ほんとです……」
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