「前みたいに、ゆっくり笑えるようになろうね」
――ガシャン!
キッチンのシンクに皿の破片が飛び散る。智絵里の母は咄嗟に破片を拾ってしまい、数本の指に切り傷を負った。
「……っ」
鋭利な痛みと洗剤の浸み込む痛みに思わず声が出る。
流血は少量だが、水を伝って手の平全体を深紅に染め、大仰な怪我に映った。
瞬間、母は何かを思い出したように体を強張らせ、初めて自分の手を認識する赤子のように指をゆっくり動かした。
「ただいまー!」
智恵理の声が玄関から響いた。
彼女は靴を脱ぎ、姿見の中で動く相手とふざけ合う。掌で自分をぺたぺたと触り、胸やくびれ、お尻を念入りに揉み、斜めや横から自身のシルエットを確認した。
「くそー、第三成長期ってないのかなぁ」
唸りながら脱衣所へ向かい、制服を洗濯機に入れて運転ボタンを押した。煙草の臭いを落とすため、店を出る前にも使った消臭スプレーを再び振りかけ、リビングへ向かった。
智絵里は荷物をソファーに預け、キッチンで猫背になっている母へ声を投げる。
「今日のご飯なにー?」
丸いテーブルには料理が並んでいるものの、父の遺影がまだ準備されていない。今の質問に対する返答や、「おかえり」もなかったことに違和感を持ち、母の顔を覗きに行った。
「ママ、どうし……えっ!?」
母の手は重症と勘違いされる程に赤い。母は慌てる我が子へ「パパがね」と小さく口を開け、冷然と続けた。
「初めて吐血した時、こんな風に手が汚れたの……」
自身の手を見ているようで、焦点は合っていない。智絵里は慌てて袖をまくり、母の手を洗ってキッチンペーパーで拭き取った。血を落としてみると酷い怪我ではないと分かり、彼女は落ち着きを取り戻した。
母の背中を擦ったあと、救急箱と奇麗なタオルを用意し、指を再度奇麗にして絆創膏を巻く。右に二本、左に一本の切り傷、絆創膏を除けば奇麗な白い手のままだった。
智恵理は手の傷に注意して優しく掴み、未だ放心状態の母を食卓へ座らせる。
「お腹空いちゃったよ。食べちゃおう、洗い物は後で私がやるから」
母は顔を上げ、誰も座っていない三つ目の椅子へ視線を投げる。智恵理は言いたいことを察し、慌てて母から離れた。
「ごっ、ごめん! 今連れて来る!」
リビングの日当たりの良い場所に置いてあった父の遺影を、急いでテーブルに添える。残りの食事をキッチンから運び、食前の祈りを済ませて二人はぎこちなくシルバーを手に取った。
主菜は魚のソテーで、彩りに人参のグラッセが添えられている。
智絵里は蜂蜜入りの白湯へ一度逃げてから、気づかれないようそっと人参を皿の脇へ弾く。
伺う目線は母の手元、精神薬の紙袋にまで滑った。母は食事が進まず、紙袋から数えずに精神安定剤を取り出し、水で流し込んだ。
母は無表情のまま涙を一筋落とし、弱くてごめんね、と虚空に漏らす。
智絵里は急いで席を立って横から抱きしめた。「大丈夫だよ」と頭を撫で、優しく囁く。
母は掬った水が流れ落ちるのを待つように、掌を上に向けたままじっとしていた。
智絵里はティッシュで涙を拭った。
「前みたいに、ゆっくり笑えるようになろうね」
落ち着いた母の背中を擦り、席に戻った。
人参を頬張り、無理に笑ってみせる。しかし母は自分の手に呪われたまま、夢想から食卓へ帰ってこなかった。
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