「うん、ロリロリ。でも私はプロの歌手になるんだ」

 智絵里は夕日に照らされる桜並木を小走りしていた。時折吹く春風にアスファルトの花弁が舞い、視界が桃色に染まる。桜の香りに助けられ、アルバイト先への地を踏むテンポは速くなる。

 一度信号で止まってしまったが、気分を落とさないようその場で足踏みをして待った。


 隣に並ぶ大人達は、視界の隅で小さい子供が跳ねているように映る。栗毛の癖毛、くっきりとした二重に日本人離れした輪郭の線、所謂ハーフの顔立ちで道行く人の目を引く。

 自身を見ている人と目が合うと意味もなく笑いかけるため、年が離れていれば可愛らしい子供に思えるし、同年代なら性別を問わず相手を恋に落としてしまう愛嬌があった。


 信号機を越えて、智絵里は小走りで向かう。最寄りの駅から徒歩にして十分もかからない、バー兼音楽スタジオへ辿り着いた。【close】と札がぶら下がっている店の扉を勢いよく開ける。


「おはようございまー!」


 広いとも狭いとも言えない薄暗い店内へ、幼児のような黄色い声が弾む。入って左にレジと電話機があり、数歩進むと縦に七つ椅子が並ぶカウンター席が目に入る。


 ホールには四つ掛けのテーブルが六席、壁際に二つがけの席が八席、衝立はなく背の高い観葉植物が数本、視界を遮ぎるだけで見晴らしは良い。

 カウンターで酒を数えている、背の高い初老の男性が手を上げた。


「おはよう。早速で悪いけど、着替えたら消毒用アルコール持ってきてくれる? 二本ね」


「はーいマスター」智絵里は元気よく挨拶し、すれ違い様に頭を見た。「あ、カツラズレてる」


「えっ!?」と間抜けに屈むマスターの声はホールに響き、すぐに消えた。

 声が尻つぼみに食べられてしまうのは、店の中に大きな空間が存在しているからだった。カウンターから真正面には、防音材の張り巡らされたステージが広がっている。


 下手にグランドピアノ、上手にギターアンプ、中央に年季の入ったバスドラムとハイハットスタンド、今は薄暗く廃れたライブハウスのように映るが、ジャズバーであるこの店ではプロのアーティストが月に一度は訪れる。


 店内入口の突き当りには男女で別れたトイレが二つあり、女性用のドアは赤いマークが示され、従業員の誰かが入っているようだった。


 そこを通るとロッカールームへと続く通路がある。智絵里は薄暗く狭い通路進み、レコーディングスタジオと貸スタジオの二部屋を通り過ぎ、従業員用の部屋へたどり着く。


 制服に着替えてから一度外へ出て、店裏の倉庫へ向かう。車庫と倉庫は併用されていて、古いハイエースの後ろに錆びた鉄棚が三つ並んでいる。このハイエースは稀にマスターが買い出しに使う程度で、智絵里は乗ったことがなかった。


 荷台には店で使うこともあるカバーのかかったギターや、カホンなどの打楽器らしきものがあり、ある種の機材車としても使用されていた。智恵理は楽器を横目に見つつ、消毒用アルコールを二本持ってホールへ戻ってくる。


「ヘイまいどー」

「どうも智絵里ちゃん」


 マスターが所望したものをカウンターへ並べていると、女性用トイレから制服を着た従業員が飛び出してきた。腰のあたりまで伸びている真っすぐな黒髪を乱し、胸を撃たれたようにカウンターへもたれかかる。


 二十代中程の、街を歩いていればすぐ声を掛けられそうな美人だが、今は枯渇した植物に似た表情で台無しになっている。


「あー、智絵里、おはよ」


 ゾンビも逃げる歩き方でカウンターを伝ってくる女性は、そのまま智絵里にもたれかかった。体格差で倒れそうになるが、小柄な体で必死に抱きかかえる。


上洲うえすさんおは……って酒くさ! これからお仕事だよ!?」

「こんな仕事、二日酔いでも余裕なのよ」


 マスターは消毒用アルコールを一本開け「雇い主の前で言うな」と呆れる。

 智絵里は二日酔いの女性、上洲をカウンターの椅子に下し、開店準備をいそいそと始めた。モップで床を掃除し、上がっている椅子を戻してテーブルを拭く、メニューを並べる。

 上洲はその一部始終を眺め、気怠そうに頭を抑える。


「……はぁ気持ち悪っ。マスター、水」

「君、今時給発生してるからね。わかってる?」


 マスターは嘆息しながらもグラスを差し出した。

 智恵理はテーブルを一生懸命に拭きながら「そういえばさ、二人とも聞いてよ」とカウンターの二人へ声を投げた。


「昨日ね、カラオケでまた馬鹿にされちゃったー」


 マスターは上洲が掴んだグラスへ水を注いだあと、肩をすくめる。


「また大人っぽい曲歌った?」

「そう! 大人の色気を出す練習!」


 上洲は水を一気飲みし、そこへ小さなゲップを加えた。


「あんた、自分の声を録音して聞いたことあんの?」


 テーブルを拭き終えた智絵里は雑巾を握りしめ、それをマイクに見立てる。


「うん、ロリロリ。でも私はプロの歌手になるんだ」

「その自信はどこから来んのよ」

「それでね、いつか絶対ワールドジャズフェスに出るの!」

「話聞けよ」


 上洲はマスターへ水をねだろうとコップを上げたが、彼は店の電話が鳴ってレジへ消える。彼女は「おいおいー」と舌打ちした後、自分で水を汲んだ。

 智絵里はバケツに雑巾を入れ、カウンターまで戻ってくる。


「声、もっとロリ感なくしたいんだけどなぁ。何かいい方法知らない?」


 上洲はウィスキーでも飲むようにグラスを摘み、思案顔でチビチビと水を口に入れた。


「煙草吸ってウィスキー飲んで叫べば、多少はハスキーになるんじゃないの。こんな感じに」


 彼女から「あ~」と濁音交じりの胴間声が産まれ、智絵里は舌を出して顔を歪めた。


「うーん……ドブガエルみたいな声でも、今よりはマシかなぁ」

「おい」


 レジの方でペンを落とす音がして、二人は振り向く。電話をしていたマスターは肩と頭で受話器を挟み、慌ただしくレジ横のノートを漁った。

 ペンを拾い上げてノートをノックするように叩く。会話できる距離にいるマスターの声は、静まった二人の元へ届いた。


「あぁ、ウチは大丈夫。明日の十九時ね。予約ないよ。はい、はーい、どうもね」


 マスターは受話器を置き、ノートに何かを書いている。彼はじっと見られている視線に気づき、書き終えたノートをレジ横にしまった。


「聞こえてたけど、智恵理ちゃんはアルコールも煙草もダメだよ。まだ小学生なんだから」


 マスターの冗談に智絵里は頬を膨らませた。


「高・校・生! しかもあと一年後には卒業する、大人のレディなんだけど!」


 上洲とマスターは見合わせ、短躯の輪郭線をなぞる。百五十センチに満たない背丈、凹凸のない胴体、ハーフだが幼い顔立ちと幼児のような声。智絵里は視線に晒される体をくねくねと折り曲げ、色気のあるポーズを取ってみせる。


 最後の投げキスで上洲とマスターの臨界点は突破し、笑声が濁流となって溢れた。マスターは肺を空にするように、上洲はカウンターをバシバシと叩いて涙する。

 智絵里はそれが嘲笑ではないとわかっているが、顔を真っ赤にして地団駄した。


「もう! 笑わないでよー!」


 自分の体と上洲の豊満な胸を比べ、悔しそうに唸った。

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