第2話 『影の交差 ― 死角のない部屋』
◆1 刑事課の朝と、歩かない探偵
十北署刑事課の朝は、コーヒーとコピー紙の匂いがする。
古い蛍光灯がじりじりと鳴り、誰かのタイピング音と、誰かの欠伸と、誰かの電話の声が重なって、雑然とした一日が始まっていく。
その一角。窓際から二つ目のデスク――そこが私、
「……ふあぁ」
小さく伸びをして、モニターに今日の案件メモを開く。
まだ配属から三ヶ月。慣れてきたような、慣れてないような、そんな位置。
「おはよう、わたり……」
背後から、乾いた声が落ちてきた。
「……あおこ君」
「だからしょうこです!
条件反射で振り返ると、そこには黒いコートに黒い眼帯の男――
杖を一本、片手に持って。
「三文字は覚えたんだけどね」
「惜しいんですよね、いつも! “わたりむら・しょうこ”です。渡る村の青い子です」
「村は渡れるけど、君は渡らないね」
「は?」
「――いや、なんでもない」
目の下にうっすらと隈を浮かべた夜代は、いつものように空いている椅子を引き寄せて、私のデスクの横に腰掛けた。
元刑事。今は警察庁の嘱託捜査官であり、弁護士でもある。右眼に“死者の最後の視界”を映す、厄介な能力を持った探偵。
そして、十北署刑事課にとっては、時々現れては事件に首を突っ込む、異物のような存在。
「今日も杖、ですね」
口から出てから、しまった、と思った。
でももう遅い。
夜代は、手にしていた杖をちらと見下ろした。
「歩くには、便利だからね」
「……本当に、必要なんですか」
「医師の診断書には、“心因性歩行障害に伴う補助具使用を推奨”とある」
「それ、ほぼ自分の意思ですよね」
「そうとも言う」
会話はそこで、一度切れた。
聞きたいことは、山ほどある。
銃撃事件のこと。殉職した相棒のこと。右足の傷。右眼に宿った“残響”。
でも、そのどれもが、軽々しく踏み込んではいけない領域にも思えた。
「……夜代さん」
「うん?」
「夜代さんは――」
“歩けるのに、歩かないんですよね”と続けようとして、喉の奥で言葉が固まる。
かわりに、全然別の言葉が滑り出た。
「――今日、何か予定あるんですか?」
「ない。だからここにいる」
「ですよね。暇人ですもんね」
「ひどい評価だ」
夜代が、ほんの少しだけ肩をすくめた、そのとき――
刑事課の電話が、甲高く鳴った。
近くにいた柿原係長が、受話器を掴む。
「十北署刑事課、柿原――はい……ああ、北辰不動産? ……モデルルームで……? 死体? ……カメラには誰も映ってない?」
空気が、薄皮一枚分だけ緊張したような感覚になる。
係長は短く相槌を打ち、受話器を置くなり、こちらを振り返った。
「渡村。夜代くん。出るぞ」
「はい!」
「わかった」
返事をしたときにはもう、心臓の鼓動が一段階跳ね上がっていた。
署を出る前、エレベーターの前で、私は夜代の横に並んだ。
「さっきの話、続きは?」
「続き?」
「“歩くには便利だから”って。……本当は?」
夜代は、少しだけ視線を落とした。
「……歩くと、思い出すからね」
「思い出す?」
「置いてきた人のことをさ」
黒い眼帯の下に隠れている右眼の奥で、何かが一瞬だけ揺れた気がした。
エレベーターが、軽い音を立てて開く。
「続きは、後にしようか」
乾いた声だった。
聞こえないふりではなく。ただ、その先をまだ語りたくないという、ささやかな拒絶の温度。
私は、それ以上踏み込むのをやめた。
「……わかりました。じゃあ今は、目の前の死体から」
「そうだね。死人は待ってくれない」
杖の音が、エレベーターの床に、コツ、と落ちた。
私たちは、事件の現場へ向かった。
◆2 死角のない部屋
北辰不動産・十北支店のショールームは、思っていた以上にきれいだった。
白いタイル張りの床。天井にはダウンライトが規則正しく並び、壁には新築マンションの広告パネルがずらりと並んでいる。
『SkyLuxe TOWER 十北 ――空に近い暮らしを、あなたに』
大きなポスターに、夕日を背にした高層マンションのCGが印刷されている。
その奥が、問題のモデルルームだった。
透明ガラスの扉の前には、黄色い規制線。
中は、ラグジュアリーホテルの一室のようなリビングが、そのまま切り取られたように見える。
その中心で、一人の男が倒れていた。
「被害者、
鑑識が手帳を読み上げる。
「北辰不動産・十北支店の営業部長。独身。今朝九時三十分頃、部下の
「死因は?」
「現場検視では、左胸部刺創による失血死。凶器は現場に見当たらず。司法解剖待ちですが、死亡推定時刻は昨夜二十一時から二十二時頃と見られます」
「昨夜?」
私は、モデルルームのガラス越しに、中を見た。
被害者の朝峰は、リビングの中央、ソファとローテーブルの間で仰向けになっていた。
シャツの胸元には、赤黒い血の花。
周囲には大きな血溜まりが出来ている。
モデルルーム自体は一見、何の乱れもなかった。
白いソファ。ガラスのローテーブル。壁一面を占める、大きな飾り棚兼収納。その背後には窓のように見せた大型スクリーンがあり、外の夜景映像がスライドショーで流れている。
「ここ、“死角ゼロのモデルルーム”って売り文句なんだよね」
鑑識の一人が、天井を指さした。
見上げると、四隅と中央に、小さなドームカメラが計五台、黒い目玉のようにこちらを見下ろしていた。
「全部で五台。リビングに三台、玄関スペースと廊下にそれぞれ一台。どこに誰が入っても、必ずどこかのカメラに映る。営業のウリにしてたらしい」
私は、思わず唾を飲み込んだ。
「じゃあ、昨夜ここで朝峰さんが殺された瞬間も……」
「全部、録画されてるはずなんだけどね」
別の鑑識が、苦い顔をした。
「問題は、“犯人らしき人間が、一度も映ってない”ことですよ」
「……映ってない?」
「監視システムのログから、朝峰の入室時刻は二十時五十五分。その後、二十三時までのあいだに、モデルルームの扉を開けた記録はありません。映像をざっと確認しましたが、途中で誰かが入ってきた形跡もない。にもかかわらず、二十一時過ぎの映像で、彼は胸を押さえて倒れました。凶器も映っていない。まさに“カメラの目が見ていない殺人”です」
死角ゼロの部屋で、誰にも見られずに行われた殺人。
胸の奥が、ぞわりと冷えた。
「合鍵とか、裏口とかは?」
私が訊くと、鑑識は首を振った。
「モデルルームの鍵は、このスマートロック一種類。解錠履歴はすべてサーバーに記録されてる。昨夜二十時五十五分に朝峰のカードを認証、その後翌朝九時まで記録なし。今朝九時〇七分に、部下の宮沢のカードで解錠。裏口はなし。搬入口もセキュリティゲート付きで、履歴に怪しいものはないですね」
「つまり――」
私は言った。
「犯人は“カメラに映らずに殺す方法”を使ったか、あるいは“すでに中にいた誰か”ってことですね」
「そういうことだ」
背後から、柿原係長の低い声がした。
その横で、夜代がガラス越しにじっと中を見ていた。
黒い眼帯の下の右眼は見えない。
左の瞳は、鏡のように静かだった。
「夜代さん。どう見えます?」
私が尋ねると、彼は短く答えた。
「――“見えすぎて、見えない”部屋だ」
どういう意味ですか、と訊ねる前に、
「中に入るぞ」
と係長が言い、規制線の隙間をくぐった。
◆3 モデルルームの違和感
ビニールのシューズカバーをつけ、私たちはモデルルームの中に入った。
空気が、外よりわずかに冷たい。空調が一定に保たれているせいだろう。
新築の内装材と、わずかな血と鉄の匂いが混じり合っていた。
まず目に入るのは、例の大きな飾り棚だ。
白い木目調のパネルで作られた、壁一面の収納。
四角く区切られた棚には、本や観葉植物、オブジェのようなガラスの球体、インテリア雑誌が、さも自然に置かれている。
私は、棚に近づいてみた。
(……なんか、変だ)
正面から見ると、きれいに壁にぴったりくっついているように見える。
でも、横に回り込もうとすると――
「ん?」
棚の右側側面と、その隣の壁とのあいだに、薄い影が見えた。
指を伸ばしてみる。
ギリギリ一本、入るか入らないかくらいの隙間。
「……壁にべったりくっついてるわけじゃない」
私は呟いた。
「数センチ、浮いてる」
棚の側面の下のほうには、小さなキャスターのような金属部品が、床との境目に覗いていた。
パッと見ではわからないが、よく見ると、これは“可動式の収納”だ。
「この棚、動くんですね」
「展示の時、レイアウトを変えられるようにしてあるそうだ」
後ろから、スーツ姿の男が答えた。
四十代前半。営業スマイルが板についた顔。
北辰不動産・十北支店の支店長、
「ただし、動かすときは、必ず営業担当か設計担当の立ち会いが必要です。下手に動かすと、床の配線を傷めてしまうので」
「配線?」
夜代が、棚の下を覗き込む。
「はい。この棚の裏には、LEDの間接照明と大型スクリーンの配線が全部通っているんです。だから、本来は勝手に動かしちゃいけない。清掃スタッフにも、”棚の裏には触らないように”って言ってあります」
ふうん、と私は棚の前にしゃがんだ。
床には、肉眼ではほとんどわからない程度の細い傷が、棚と平行に伸びていた。
何度か動かされた痕だろう。
ふと、棚の中のガラスのオブジェに目が行く。
透明な球体の中に、小さな街の模型が閉じ込められているようなインテリア。
その表面に、天井のカメラが逆さまに映っていた。
(ガラス。反射)
モデルルームのコンセプトどおり、部屋のあちこちに“映るもの”が配置されている。
観葉植物の鉢の横には、縁が金属の写真立て。ローテーブルの上には、雑誌と一緒に、小さな鏡面トレー。
“映されること”を前提に設計された部屋。
そんな場所で、『カメラには映っていない殺人』が起きた。
胸の奥が、もう一度ひやりと冷えた。
「青子」
背後から、課長に名前を呼ばれた。
「はい」
「被害者の状態、見ておけ」
「了解です」
私は手袋を確認しながら、朝峰の遺体のそばにしゃがみ込んだ。
シャツのボタンが途中まで外れ、胸元の刺創が露出している。
ナイフか、細身の刃物で一突き。
刺し傷はやや斜め下から斜め上に向かっている。
(……前の事件と同じだ。角度)
思わず、心の中で苦笑する。
胸からローテーブルにかけて、血が飛び散っている。
床の血溜まりの形状から、倒れた方向もおおよそわかる。
周囲に転がった物はない。
スマホは、ローテーブルの上。画面は暗いが、通知ランプが小さく点滅している。グラスには、ワインのような赤い液体が数センチ残っていた。
(争った痕は……ほとんど、ない)
私は、そっとシーツ――ではなく、ラグの皺に指を滑らせた。
ローテーブルの角と、ソファとのあいだの部分。
そこには、妙な“引きずり跡”があった。
「……ここだけ、擦れてる」
ラグの毛足が、一方向にだけやや寝ている。
人が倒れた勢いで出来た皺というより、何かを引きずったような筋。
「青子君」
背後から、夜代の乾いた声がした。
「床はどうだい」
「血の広がり方は、倒れた位置からほぼそのままですね。……ただ、ラグのこの部分、何か重いものを横に引いたみたいな跡があるのが気になります」
夜代は、杖をつきながらこちらに近づいてきた。
右眼の眼帯は、まだ閉じられたままだ。
「なるほど。君の目は、よく見ている」
彼はラグをじっと見て、それから顔を上げた。
「――青子君。君の仮説を、まず先に聞こうか」
「仮説、ですか」
「“寝ていたところを刺されたのか”“立っていたのか”“座っていたのか”――どう思う?」
私は一度深く息を吸って、現場の全体を見渡した。
ソファ。ローテーブル。ラグ。飾り棚。
グラス。スマホ。営業資料のファイル。
「……少なくとも、“完全にくつろいでいた”感じではないですね」
「というと?」
「グラスは飲みかけ。スマホはテーブルの端に置いたまま。営業資料が開きっぱなし。ラグには引きずったような跡……。ベッドがないぶん、第1話のときと状況は違いますけど、ここでも“姿勢の変化”がありそうです」
「いいね」
夜代が、口元だけで笑った。
「じゃあ、“最後に何を見ていたのか”も、あとで確認してみよう」
眼帯に触れる仕草。
私は、喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。
右眼の“残響”。
死んだ人間の、最後の視界。
それは便利な能力なんかじゃない。
頭痛と吐き気と、古傷を伴う、厄介な現象。
「……本当に、やるんですか」
思わず口にしていた。
「視たくないなら、やらなくていいです。私たちは、物理証拠からでも――」
「やるよ」
夜代は、あっさりと言った。
「何度も言うけど、僕の右眼は“証拠の裏取り”にしかならない。主役は、君たちの目と頭だ。そのうえで、足りないところを少しだけ補う。それが、せいぜいだ」
そう言うと、彼はゆっくりと眼帯に指をかけた。
◆4 残響と、映らない影
黒い布が持ち上げられる。
露わになった右目は、一瞬、光を反射してぎらりと光った。
次の瞬間、その瞳に何かが流れ込んでいく。
夜代の身体が、ぎゅっと強張る。
「……っ」
喉の奥で押し殺したような息が漏れる。
左手が、ラグの端を掴んだ。指先に血の気が戻っていくのが、外から見てもわかる。
私は、何もできずに見ているしかなかった。
(三秒。……前回も、三秒くらい)
一度に耐えられるのは、その程度だと、彼自身が言っていた。
右目の“残響”は、死んだ人間の最後の視界を、断片的に、ざらついた映像として写し取る。
音も匂いも温度もない。ただ、狭い視野の揺れだけ。
やがて。
「……ふぅ」
夜代は、大きく息を吐き、眼帯をぱたりと戻した。
額には、うっすらと汗。
左手はまだ、ラグを掴んだままだった。
「大丈夫ですか?」
「ああ。これくらいなら。……あまり、やりたくはないけどね」
冗談めかした声の奥に、薄く震えが混じっている。
「視えたものを、教えてください」
私が言うと、夜代はうなずいた。
「まず、“視えていなかったもの”から」
その台詞に、少し救われる思いがした。
「彼の視界には、入口のガラス扉も、廊下も、一切入っていなかった。最後の瞬間、彼は“外”を見ていない。モデルルームの内部だけだ」
「じゃあ、“外から襲撃者が入ってきた”可能性は?」
「かなり低いだろうね。扉越しに誰かが飛び込んできたなら、反射的にそちらを向くはずだ」
夜代は、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「視界の中央にあったのは、ローテーブルと、その向こうにそびえる飾り棚だ。ガラスの天板。赤い液体の入ったグラス。資料のファイル。その全部が、彼の“眼前”にあった」
私は、現場の光景と頭の中で重ね合わせる。
「それと……視野の端に、“二つ”の影があった」
「二つ?」
「うん。一つは、彼自身の影だ。飾り棚の間接照明で、ソファの背凭れのあたりに薄く落ちていた。もう一つは、そのすぐ横に、少しだけ濃い影。人影だと気づくほどの輪郭はなかったが、“揺れ方”が違った」
「揺れ方?」
「彼の影は、倒れ込む動きとともに、ゆっくりと伸びていった。もう一つの影は、それとは別のリズムで、前に出て、引いた。……まるで、刺すような動きに合わせて」
喉の奥が、ぞくり、とした。
「つまり――そこに、もう一人“いた”」
「そうだね。ただし」
夜代は、飾り棚の上に置かれたガラス球を見た。
「その影は、“人間の形としては、うまく映っていなかった”。輪郭が歪んでいた。伸びたり縮んだり。まるで、水面に映った像のように」
私は、ガラス球の中の逆さまのカメラの像を思い出す。
(……映ってるのに、ちゃんと映ってないもの)
「それから、強い光の筋が、一瞬だけ視界を横切った」
夜代は、自分の胸の前に手をやった。
「ここから、ここまで。斜め下から斜め上へ。白い光が、細い線になって走った。刺創の角度と一致している。刃物だろう。鏡面仕上げのステンレスか、よく研がれた包丁だ」
「音や匂いは?」
「視えない。右眼が拾うのは、あくまで像だけだ」
彼は軽く首を振った。
「まとめると――」
私は言った。
「被害者は、部屋の中にいる誰かに向き合っていて、その人の影が、自分の影の隣に揺れていた。刃物が光り、その直後に倒れた。玄関方向は一切見ていない。だから、“すでに中にいた人物”による犯行である可能性が高い」
「そういうことになるね」
夜代は、杖のグリップを握り直した。
「問題は、“どうしてカメラにはその人物が映っていないのか”だ」
死角ゼロのはずの部屋。
カメラには、朝峰の入室と、その後の一連の動きしか映っていない。
なのに、“影”は二つあった。
私は、飾り棚と天井のカメラを交互に見上げた。
(――どこかに、目の盲点がある)
◆5 監視映像と、二つの時間
ショールームの奥、バックヤードの小さな会議室。
そこで、私たちは監視映像を確認することになった。
壁掛けのモニターには、五分割された映像。
左上がモデルルームのリビング全体。右上が玄関スペース。左下が廊下。右下が、入口付近のカメラ。中央が、リビングの反対側からの補助カメラ。
「これが昨夜二十時五十五分。朝峰部長が入室した時刻です」
説明しているのは、北辰不動産のシステム担当、
三十代半ば。細身のスーツに、少し長めの前髪。いかにも“IT系”という雰囲気の男性だ。
「このICカード認証ログと、映像のタイムスタンプはすべて同期されています」
画面には、スーツ姿の男が入口のガラス扉から入ってくる様子が映っていた。
社員証をかざし、扉を開け、リビングへ。
その顔は、遺体のものと一致する。
「ここから先、早送りします」
梅津がリモコンを操作する。
映像の中の朝峰は、ソファに腰掛け、グラスを手に、資料をめくり、ときどきスマホを見ていた。
どのカメラを見ても、“一人”だ。
玄関カメラにも、廊下カメラにも、他の人物は映り込まない。
「二十一時十四分」
梅津が言った瞬間――
リビングのカメラ映像で、朝峰が胸を押さえた。
眉をひそめ、椅子から半ば立ち上がるような姿勢で、よろめき、前のめりに倒れる。
グラスが床に落ち、赤い液体が飛び散る。
……それだけだ。
誰も、近づいてこない。
誰の手も、画面に入らない。
「ここから先は、彼が動かなくなった映像だけです。二十三時ちょうどに、自動消灯。今朝九時までは真っ暗です」
説明どおり、しばらくすると部屋の照明が徐々に暗くなり、画面はほぼ真っ黒になる。
私は、唇を噛んだ。
(――“誰もいないのに死んだ”ようにしか見えない)
でも、そんなはずはない。
右眼の残響は、二つの影を視たと言っている。
刃物の光も、刺す動きも。
カメラの目には映っていない、誰か。
「もう一度、さっきの倒れる直前のところ、コマ送りで見せてもらえますか」
私は言った。
「わかりました」
梅津が再生位置を巻き戻し、スローに切り替える。
朝峰がグラスを持ち、立ち上がろうとした、まさにその瞬間。
「ここ」
私は画面を指さした。
「飾り棚のこちら側――一番右端あたり。光の反射、さっきと違いません?」
天井のダウンライトが、棚の縁や飾られたガラス球に反射している。
その中で、ほんの一瞬だけ、右端のほうが、妙な“揺れ方”をした。
光が、歪んだ鏡に映ったように、波打つ。
「……たしかに」
課長が、腕を組んだ。
「このタイミングでだけ、右端の反射が変だな。ほかのところはブレてないのに」
「カメラ側のノイズって可能性は?」
私が訊ねると、梅津は首を振った。
「他のカットには出ていませんし、この瞬間だけです。カメラの故障なら、もっと長く乱れます」
「飾り棚の裏には?」
「配線スペースが十センチほど。配線と、LEDのコントローラーが通っています。人が入れるほどの幅じゃないはずですが……」
梅津の言葉の最後に、かすかな逡巡が混じった。
私は、その揺れた反射を頭の中でなぞり直した。
(光。歪み。影が二つ。人の姿は映ってない――)
「青子君」
夜代が、隣で静かに言った。
「君がさっき言った“ラグの引きずり跡”、もう一度、思い出してみて」
「え?」
「飾り棚の前。ラグの毛足の向き」
私は、現場の光景を思い浮かべる。
棚の前のラグは、横方向――つまり収納に平行な方向に、帯状の擦れ跡があった。
ちょうど、人が立てる幅くらいの。
(……棚の前に、何かがあった?)
人一人が立てるくらいの細い空間。
カメラから見れば、“棚の一部”に見える場所。
「――鏡、ですね」
口が、勝手に動いていた。
「鏡?」
柿原課長が、眉を上げる。
「飾り棚の裏側に、人一人分の幅の立て鏡を仕込んでおけば、カメラからは“棚”しか見えません。でも、実際には、棚の手前に人が立っている。その人の姿は鏡に映って、棚と同化する。だから、映像には“彼一人”にしか見えない」
「鏡面トリック、か」
夜代が、乾いた声で言った。
「“死角ゼロの部屋”で、“映像に犯人が映らない”ようにするには、カメラの目を騙すしかない。棚の裏に鏡を立てて、そこに自分を溶け込ませる。カメラには、反射した棚の像しか映らない」
私は、さっき見た光の揺れを思い出した。
「でも、完璧ではなかった。倒れる瞬間、影の揺れで反射が乱れた。その一瞬の歪みが、映像に残っている」
「だとしたら――」
課長が、モニターの中の飾り棚を睨んだ。
「殺したあと、その鏡をどうやって消した?」
「そのヒントは、きっと現場に残ってるはずです」
私は立ち上がった。
「もう一度、飾り棚の裏を、きちんと見てみたいです」
◆6 棚の裏と、清掃スタッフ
飾り棚の右端。
壁との隙間に体をねじ込み、私は懐中電灯の光を滑らせた。
「埃、少ないですね」
「毎日清掃入ってますから」
返事をしたのは、先ほどから入口付近で所在なさげに立っていた、中年の女性だった。
「
小松原支店長が紹介する。
「今朝も、いつものように開館前に一通り掃除してもらいました。この部屋に入ったとき、異変に気づいて、いったん外に出て、宮沢に連絡を――」
「――すみません。あのときは、私のほうが先に部長を見つけてしまって……」
声を割り込ませたのは、二十代後半くらいの女性だった。
ボブカットの髪。スーツのスカート。目元には、泣き腫らした痕。
北辰不動産営業部副主任、
今朝九時七分に、ICカードでモデルルームの扉を開けた人物であり、第一通報者。
彼女は、少し唇を噛みながら続けた。
「桜庭さんから、“モデルルームの中で部長が倒れている”って電話が来て……急いで来たんです。鍵は……私のカードで開けて……」
「すみませんね、あたしじゃどうしたらいいか、わかんなくって」
桜庭が、手をぎゅっと握りしめた。
「いつものように清掃に来たら、リビングに誰か倒れてて。最初はお客さんかと思って声をかけたんだけど、返事がなくて……怖くなって、一回外に出て、宮沢さんに電話したんです。あたしのカードじゃ、鍵開けられないから」
「清掃の方も、入退室記録残るんですか?」
私が訊くと、梅津がうなずいた。
「スタッフ用の共通カードがあります。今朝は、八時四十五分に桜庭さんの入室、八時四十八分に退室記録が残っています。その後、九時七分に宮沢さん。昨夜の閉館後から今朝まで、他の入室記録はありません」
(……じゃあ、犯人は“昨夜のうち”に仕掛けと犯行を終えて、どこかから出ていった)
私は、再び棚の裏側に注意を向けた。
飾り棚は、幅三メートル、高さ二メートル半。
壁とほぼ同じ高さで、天井とのあいだはわずかな隙間しかない。
裏側には、縦方向にケーブルダクトが走っていた。
その横――床から九十センチほどの高さのところに、妙な“枠”がある。
「これ……なんですか?」
指で触れると、四角く囲われた部分の木目調シートの感触が、ほんの少し違った。
周囲よりわずかにざらついている。
「そこは……あれ?」
梅津が首をかしげて近づいてきた。
「そんなところに、枠なんて……」
「設計図には、何か記載されていませんか?」
「後で確認してみます」
彼の額に、汗がにじむのが見えた。
私は、その四角い枠と、床の擦れ跡の位置を見比べる。
枠の幅は、およそ五十センチ。
人が真正面に立つには、ぎりぎりの幅。
枠の下の床には、ラグとは違う、直線的な擦り傷があった。
何度か重いものを出し入れしたような。
(――ここに、何か“板状のもの”がはめ込まれていた)
鏡だ。
その仮説は、頭の中でほぼ確実な形になりつつあった。
「桜庭さん」
私は、清掃スタッフの女性に声をかけた。
「はい?」
「今朝、いつものように掃除されたとき、この棚の裏側は?」
「裏は、あんまり……。危ないから、無理に入らないでくれって言われてますからね。表の棚は、上のほうはハンディモップで、下のほうは布で拭いてますけど」
「脚立、使いますか?」
「使いますよ。ほら、あそこに」
指さした先には、折りたたみの小さな脚立が置かれていた。
アルミ製の二段の踏み台。
脚の一つには、白い塗料のようなものが薄く付着していた。
「それ、いつからそこに?」
「さあ……。少なくとも、先週の金曜日にはありましたよ。あたし、天井の照明拭くのに使いましたから」
「そのとき、この棚、動かしました?」
「いいえ。棚は動かしちゃダメって言われてますし。動かすときは、必ず営業の人と、さっきの……」
桜庭の視線が、梅津に向く。
「設計の人が立ち会って、床の配線とか見ながらやるって聞いたもんで」
(棚を動かせるのは、営業か設計。清掃スタッフは、基本的には裏に触れない)
私は、心の中で整理する。
桜庭靖子。
清掃スタッフ。
定期的にこの部屋に出入りするが、棚の裏側を触る権限はない。
今朝の入室時間は八時四十五分。死亡推定時刻の二十一〜二十二時には、ここにいなかった。
(――でも、“鏡の存在”に気づかなかったのは、十分ありえる)
もし昨日まで、この枠に鏡がはまっていたとしても、清掃スタッフの目線からは“ただの棚の裏板”にしか見えなかっただろう。
鏡面は、カメラのほうに向いていたのだから。
◆7 副主任・宮沢仁美という可能性
事情聴取のため、宮沢仁美は、ショールーム内の小さな打ち合わせスペースに座らされていた。
テーブルの上には、未開封のペットボトル。
彼女は両手を膝の上で組み、視線を落としている。
「宮沢さん」
私は向かいに座り、小さく会釈した。
「十北署刑事課の渡村です。いくつか、お話を聞かせてください」
「……はい」
かすれた声。
目元は赤く、疲れの色が濃い。
「朝峰部長とのご関係を、改めて確認させてください」
「直属の上司です。営業部で、私は副主任で……モデルルームの担当も兼任してます。部長が全体の方針を決めて、私が現場を回す、みたいな感じで」
「仲は?」
彼女の指が、膝の上でぎゅっと組まれる。
「仕事上では……尊敬してました。売上も実績もある人でしたし。ただ……」
「ただ?」
「……いいところは、全部自分の手柄にする人でした」
一瞬だけ、目に鋭い光が宿った。
「今回の“死角ゼロのモデルルーム”の企画も、元は私が考えたんです。でも、社内プレゼンになると、いつのまにか“部長の発案”になってて。スポンサーとの打ち合わせも、取材も、全部部長が前に出る」
「なるほど」
「仕方ないって、思ってました。会社って、そういうものだからって。でも――」
宮沢は、唇を噛んだ。
「今月の人事で、部長だけが昇進候補に名前が載ってて……。私は、“補佐としてよく頑張っている”ってコメントだけ。正直、悔しかったです。部長に直接聞きました。“私の評価はそれだけですか”って」
「なんて返されました?」
「“実績は上司に付くもんだ”って。笑いながら、“君はまだ若いから、これからいくらでもチャンスはある”って」
テーブルの下で、彼女の膝が震えていた。
「昨日、部長と会ったのは、何時ですか?」
「十八時半くらいです。ここじゃなくて、支店の会議室で。モデルルームの今後の方針について話しました。……売れ行きが思ったほど伸びなくて、“もっと攻めた企画を出せ”って」
「そのあと?」
「十九時過ぎに、一旦解散しました。部長は“残業して少し資料をまとめる”って言ってました。私は、同僚と軽く食事して、自宅に帰りました」
「モデルルームには?」
「……昨日の夕方、一度来てます」
宮沢は、視線を落としたまま言った。
「十七時頃。お客さんの下見に付き添って、その後、ちょっとレイアウトを変えて……。そのとき、飾り棚の前のラグを少し引っ張って、位置を直したのは私です」
ラグの擦り跡。
「昨日のそのあとには?」
「入ってません。出入りの記録を見てもらえば、わかると思います」
実際、監視ログでも、十七時の入室記録のあと、宮沢のカードは使われていない。
(――動機は、十分すぎる。機会もある。でも、“決定的なタイミング”にはいない)
死亡推定時刻は二十一〜二十二時。
監視映像でも、その時間帯に宮沢は現れていない。
「部長とは、プライベートでのトラブルは?」
「付き合ってたのかって意味ですか?」
宮沢は、少しきつい目でこちらを見た。
「噂になったことはあります。でも、事実ではありません。私は彼のそういうところ――部下に手を出したり、“可愛い子”だけえこひいきするところも、嫌いでした」
「それも、動機になり得ます」
「……はい。自覚してます」
彼女は、うつむいた。
「正直、昨夜ニュースで“モデルルームで殺人”って見たとき、最初に頭に浮かんだのは、“ざまあみろ”って言葉でした。……そのあと、すぐに自己嫌悪で気持ち悪くなりましたけど」
胸の奥が、少し痛んだ。
「それだけ憎んでいたのなら、なおさら、“やってない”ってことをはっきりさせなきゃいけませんね」
私が言うと、宮沢はかすかに頷いた。
「……はい」
「最後にもう一つ。飾り棚について、何か不審なことは?」
「不審なこと?」
「いつもと違う、とか。動かされてた、とか」
「昨日の時点では……特に。LEDの光も普通でしたし。強いて言うなら、一昨日、設計の梅津さんが、“棚の裏の配線を触るから”って、私に立ち会いを頼んできました。脚立を使って、上のほうのケーブルを点検してました」
梅津。
私は、頭の中で名前に印をつけた。
◆8 鏡の行方
午後。
北辰不動産から設計図のコピーが届き、私たちは刑事課の会議スペースにそれを広げていた。
「ここだ」
夜代が、一本の赤い線に指を置いた。
「“リビング壁面収納 背面メンテナンスパネル(取り外し可)”」
飾り棚の背面図に、小さく四角く囲われた部分があった。
サイズは五十センチ×百八十センチ。
注釈には、「配線点検および演出用反射パネル挿入可」とある。
「演出用反射パネル?」
柿原課長が眉を上げた。
「モデルルームのオプションらしいです。必要に応じて、“鏡パネル”や“ガラスパネル”を差し込んで、空間を広く見せる演出をするって」
説明してくれたのは、書類を届けてきた北辰の事務の女性だった。
「今回は、コストの都合で使ってないって聞いてましたけど……」
「使ってないはずの“枠”に、擦り傷とラグの引きずり跡」
私は、飾り棚の裏で見た四角い枠を思い出す。
「誰かが、“勝手に鏡を入れて、勝手に抜いた”んですね」
「その鏡パネル、本来どこに保管されている?」
夜代が訊ねると、事務の女性は少し言いよどんだ。
「えっと……正式には、“本社倉庫に保管”となってます。ただ、今回のモデルルームに使う予定だった分は、一度ここに持ち込んで、採寸やフィッティングをしたと聞いてます。その後、使わないって決まって……どこに保管したかまでは」
「倉庫を全部、洗ったほうがよさそうだな」
課長が、ため息混じりに言った。
「梅津さんにも、もう一度詳しく話を聞きましょう」
私は立ち上がった。
北辰不動産・設備管理室。
配線図やサーバーラックが並ぶ一角で、梅津拓海は椅子に腰据え、端末に何か入力していた。
「――鏡パネル?」
私たちが話を切り出すと、彼は一瞬だけ目を泳がせた。
「設計図には、そういうオプションが書いてありますね」
「実物は?」
「本社から送られてきた分は、最初のフィッティングのときに使って……その後、倉庫のほうに――」
「倉庫のどこです?」
「……詳しくは覚えてません。施工業者さんが片づけたので」
声の端に、わずかな硬さが混じる。
「梅津さん」
私は机の上のマウスに目をやった。
「昨夜、二十一時から二十二時のあいだ、どこにいました?」
「ここですよ。サーバーのログを見ればわかるはずです。監視カメラもありますし」
「たしかに、設備管理室に出入りするあなたは、映像にもログにも残っています」
夜代が、淡々と言葉を重ねた。
「ただ――」
「ただ?」
「“サーバーの時計は、いじれる”」
梅津の指が、マウスの上で止まった。
「監視システムのログだって、設計者ならいくらでも“メンテナンス”という名目で、書き換えることができる。特に、“自分の出入り履歴”ならね」
「何が言いたいんですか」
「君は、昨日の十七時頃、宮沢副主任をモデルルームに呼んで、“棚の裏の配線点検”を名目に、メンテナンスパネルの存在を確認した」
夜代の左目が、じっと梅津を射抜く。
「そのとき、鏡パネルを使えば、“カメラの死角ゼロの部屋に、自分だけの死角を作れる”と気づいただろう」
「……」
「君には、動機もある」
今度は、柿原課長が口を開いた。
「内部監査部から、ここのシステム費用について問い合わせが来ている。横領の疑いだ。朝峰部長の指示で、架空請求や水増し請求に協力させられていた、という話もある」
梅津の顔色が、わずかに変わった。
「部長は、君に責任を擦り付けようとしていた。横領の証拠となるデータは、ほとんど君の操作ログで残されている。君のほうに、矢面に立たされる危険が迫っていた」
「だからって――」
「“だから殺した”とは言ってない」
夜代は、乾いた声で遮った。
「ただ、“殺す理由としては十分だ”と言っているだけだ」
「……」
「昨夜二十時五十五分。朝峰部長のカードで、モデルルームの扉が開いた。彼は一人で中に入って行ったように見える」
夜代は、机の端に手をつき、ゆっくり歩きながら言葉を紡いだ。
「でも実際には、その少し前――二十時四十五分頃、君は、清掃用のサービス口からモデルルームの裏手に回り、鍵のかかっていない非常用メンテナンス扉から、棚の裏の配線スペースに入った」
設備管理者用のメンテナンス扉。
図面に、小さくそう記載されていた。
「君はそこで、以前倉庫から持ち出しておいた“鏡パネル”を、飾り棚の背面枠に差し込んだ。鏡面は、カメラのほうを向いている。君はその鏡の前、棚の陰の中に立つ」
「……映像には、僕なんて映ってませんよ」
「映っていないように見えるだけだ」
夜代は、端末のモニターではなく、部屋の蛍光灯をじっと見上げた。
「リビングのカメラは、飾り棚の“表面”を見ている。そこに鏡を仕込めば、“鏡に映った棚”も“本物の棚”も、同じに見える。君の姿は、その裏側に隠れる。カメラには、“棚しか映っていない”」
私は、さっきのラグの擦り傷と、光の歪みを思い出した。
「朝峰部長が入ってきたとき、君はすでに棚の陰にいた。彼は、一人だと思っていた部屋で、普通にくつろぎ出す。ソファに腰掛け、グラスを手に、資料を読みながら、君が出てくるのを待っている」
「なんで僕が出てくる?」
「横領の話を、“なかったことにしてくれ”と頼みに来たからだ」
係長が、静かに言った。
「監査が入る前に、ログを書き換えろ。自分に不利なデータを消せ。今まで通り、“お互いのため”だ――そう言って」
「…………」
梅津の喉が、ごくり、と鳴った。
「君はそれに、耐えられなかった。自分の人生が、このまま“誰かの不正のための道具”として終わることに。だから、棚の裏で待ち構え、彼がテーブルのグラスに手を伸ばした瞬間、鏡の陰から一歩踏み出して、胸を刺した」
夜代の右手が、目の前で刺す動作をする。
「右眼が視た、“二つの影”。一つは部長自身。もう一つは、“鏡の陰から出てきた君の影”だ」
梅津は、額に浮かんだ汗を、乱暴に拭った。
「――証拠は?」
「物理的な?」
夜代は、わざとらしく首を傾げて見せた。
「証拠なら、すでに見つかってる。ねえ、渡村君」
「はい」
私は、一枚の写真を取り出した。
「倉庫の奥のサービスハッチから、“長さ百八十センチ、幅五十センチの鏡パネル”が見つかっています。枠の四辺には、昨日付けられたような新しい擦り傷。裏のフレームには、モデルルームの壁紙と同じ白い塗料が、薄く付着していました」
「さらに」
課長が、別の写真を机に置いた。
「鏡の側面からは、微量だけど、被害者の血液が検出されている。刺したとき、刃先の血が飛んだんだろう。君が必死に拭ったんだろうが、全部は消せなかった」
「サーバーのログも、見直したよ」
私が言った。
「“昨夜二十一時二十分頃に実行されたログのメンテナンス”。表向きは“バックアップ処理”って表示されていましたけど、実際は“二十一時〜二十三時の監視ログの一部を書き換える”作業だった。……痕跡が残ってました」
夜代が、ゆっくりと補足する。
「部長が倒れた21:14の直後、廊下カメラの映像に、棚の近くで一瞬だけ影が動くのが映っている。君が棚から鏡パネルを外して、廊下に面したサービスハッチへ運んだときのものだろう。あとからそれを消そうと、ログごといじった」
「でも、“いじる前のログ”は、別のバックアップサーバーにも保存されていた」
私は、小さく息を吐いた。
「だから、あなたが“映像の神様”になれる時間は、ほんの少しだけだったんです」
梅津は、椅子の背もたれに身体を預けた。
長い沈黙。
やがて。
「……あいつが、全部悪いんだ」
ぽつり、と言った。
「あいつが、最初に“こういうのはどこでもやってる”って言った。“君ならログをいじれるだろう? なぁに、バレやしないさ”って。俺は、ただ……」
「“従っただけ”ですか?」
夜代の声は、驚くほど冷静だった。
「なら、なんで、鏡まで使って完璧なトリックを組んだ?」
「…………」
「君は、自分の技術を誇っていたんだろう。監視カメラの死角をなくすシステム。その完成度。その設計を、部長に“横取り”された。今回のモデルルームも、評価も、すべて」
夜代は、梅津をまっすぐ見据えた。
「君は“部長を殺した”だけじゃない。自分の技術を、“自分の人生ごと”殺した」
梅津の肩が、かすかに震えた。
その震えが、罪悪感によるものか、悔しさによるものかは、私にはわからなかった。
ただ一つだけ確かなのは――
“死角のない部屋”にも、“盲点がある”こと。
そして、“自分の人生を守るための技術”は、その使い方次第では、人を殺すための刃にもなるということだった。
◆9 歩くことと、見えること
その日の夕方。
事件現場だったモデルルームは、すでに鑑識のテープも外され、普段の静けさを取り戻しつつあった。
もちろん、当面は“営業中止”の札が掛かることになるのだろうが。
私は、玄関のガラス扉の前に立ち、リビングを見渡した。
ソファ。ローテーブル。飾り棚。
もう、血の跡はない。
ラグも交換されている。
鏡パネルは、倉庫から押収済み。
飾り棚の背面の枠は、空っぽだ。
「――死角ゼロ、か」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、夜代が杖をついて立っていた。
「実際には、どれだけカメラを増やしても、どこかに“見えない部分”は残る。この世界の真理だね」
「でも、“見ようとする人間”がいれば、その死角はだいぶ小さくできます」
私は、ほんの少し胸を張って言った。
「ラグの擦り跡とか、棚の枠とか、鏡の光とか。夜代さんの右眼が視たものと、私たちの目で見たもの。両方合わせれば、“見えなかった犯人”も、ちゃんと見えました」
「そうだね」
夜代は、飾り棚の前まで杖を進めた。
「君の目が、“現場に残った時間”を見てくれるから、僕の右眼は、“最後の数秒”だけ視ていればいい」
「便利な言い方ですね」
「便利な能力ではないと言ったのは、誰だったかな」
私は、苦笑した。
「……夜代さん」
「うん?」
「さっき、“歩くと、置いてきた人を思い出す”って言ってましたよね」
「言ったね」
「それって、“歩かないほうが、楽だ”ってことですよね」
「……そうだね」
彼は、廊下の先を見た。
モデルルームの廊下は、実際のマンションの廊下より少し広く作られている。
まっすぐ伸びた先に、偽物の玄関があり、その手前に姿見の鏡が掛かっていた。
「でも、“歩かないこと”って、本当に楽なんでしょうか」
私の声は、自分でも少し驚くくらい、はっきりしていた。
「歩かなかったら、その場の風景しか見えません。鏡に映るのも、自分だけ。死体も、事件も、過去も、ずっと同じ場所に留まる」
「………………」
「歩けば、“見たくないもの”も見ちゃいますけど。そのぶん、“見える景色”も増えるはずです。さっきの鏡だってそうです。棚の前に立った人間は、自分の姿しか見えない。でも、カメラの位置を変えれば、“映ってない犯人”も見える」
夜代は、少しだけ眉を寄せた。
「何が言いたい?」
「歩くことって、“視点を変えること”なんじゃないかなって」
私は、足元の床を見下ろした。
「同じ場所に立っていたら、ずっと同じようにしか見えない。でも、一歩進めば、景色が少し変わる。過去の記憶を引きずりながらでも、一緒に歩く誰かがいれば――」
言いながら、手のひらに汗が滲んでくる。
それでも、言葉を止めなかった。
「――夜代さんの“死角”の一部くらい、私が埋められるかもしれません」
彼は、しばらく何も言わなかった。
飾り棚の前で立ち止まり、杖の先でそっとラグを突いた。
「……ずいぶんと、大きなことを言うね、新米刑事」
「先日よりは、成長してるつもりです」
「自覚があるのは、悪くない」
夜代は、ふっと口元を緩めた。
「じゃあ――」
彼は、杖を軽く持ち上げた。普段よりも、ほんの少しだけ重心を前に傾けて。
「“視点を変える練習”でも、してみようか」
「え?」
「この廊下を、一周歩く。君のペースで。……僕は、君の影についていく」
心臓が、どくん、と鳴った。
「……いいんですか」
「君が“死角”を埋めてくれると言うなら、少しくらいは信用してみよう」
彼の声は、いつものように乾いていた。
けれど、その奥に、微かな期待のようなものが混じっているのを、私は感じ取った。
「じゃあ――」
私は、一歩、前に出た。
モデルルームの廊下。
足音が、静かな空間に小さく響く。
すぐ後ろで、杖の音がついてくる。
コツ。コツ。コツ。
振り返らなくてもわかる。
黒いコートに、黒い眼帯。
右眼に、死者の最後の視界を宿した、歩かない探偵。
――夜代真陽。
廊下の曲がり角を曲がると、姿見の鏡に、こちらの姿が映った。
私の影と、その少し後ろに重なる、夜代の影。
モデルルームの照明が、その影を床に長く伸ばす。
「死角、なくなりました?」
振り返ってそう言うと、夜代はほんの少しだけ目を細めた。
「さあね」
乾いた声。
「でも――」
彼は、杖を持っていないほうの手を、ほんの少しだけ前に出した。
「今、僕の視界には、“二つの影”が見えてる」
その言い方が、どこか救いのある冗談に聞こえて、私は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、これからも、“二つ”で行きましょう」
「そうだね。“一つ”でいた時よりは、少しはマシかもしれない」
鏡の中で、二つの影が並んでいた。
右眼の残響探偵・夜代真陽。
十北署刑事課の新人刑事・渡村青子。
死角のない部屋と、死角だらけの心。
それでも、少しずつ視点を変えながら、私たちの共同捜査は続いていく。
――次の、“見えない何か”を見つけるために。
右眼の残響探偵・夜代真陽 古木しき @furukishiki
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