第2話 『影の交差 ― 死角のない部屋』

◆1 刑事課の朝と、歩かない探偵


 十北署刑事課の朝は、コーヒーとコピー紙の匂いがする。

 古い蛍光灯がじりじりと鳴り、誰かのタイピング音と、誰かの欠伸と、誰かの電話の声が重なって、雑然とした一日が始まっていく。

 その一角。窓際から二つ目のデスク――そこが私、渡村青子わたりむら・しょうこの席だ。


「……ふあぁ」


 小さく伸びをして、モニターに今日の案件メモを開く。

 まだ配属から三ヶ月。慣れてきたような、慣れてないような、そんな位置。


「おはよう、わたり……」

 背後から、乾いた声が落ちてきた。


「……あおこ君」


「だからしょうこです! 渡村わたりむらって言おうとしてわざとあおこ呼びするために言い換えたでしょ!」


 条件反射で振り返ると、そこには黒いコートに黒い眼帯の男――夜代真陽よしろ・まようが立っていた。


 杖を一本、片手に持って。

「三文字は覚えたんだけどね」

「惜しいんですよね、いつも! “わたりむら・しょうこ”です。渡る村の青い子です」

「村は渡れるけど、君は渡らないね」

「は?」

「――いや、なんでもない」


 目の下にうっすらと隈を浮かべた夜代は、いつものように空いている椅子を引き寄せて、私のデスクの横に腰掛けた。

 元刑事。今は警察庁の嘱託捜査官であり、弁護士でもある。右眼に“死者の最後の視界”を映す、厄介な能力を持った探偵。

 そして、十北署刑事課にとっては、時々現れては事件に首を突っ込む、異物のような存在。


「今日も杖、ですね」

 口から出てから、しまった、と思った。

 でももう遅い。


 夜代は、手にしていた杖をちらと見下ろした。


「歩くには、便利だからね」

「……本当に、必要なんですか」

「医師の診断書には、“心因性歩行障害に伴う補助具使用を推奨”とある」

「それ、ほぼ自分の意思ですよね」

「そうとも言う」


 会話はそこで、一度切れた。


 聞きたいことは、山ほどある。

 銃撃事件のこと。殉職した相棒のこと。右足の傷。右眼に宿った“残響”。


 でも、そのどれもが、軽々しく踏み込んではいけない領域にも思えた。


「……夜代さん」

「うん?」

「夜代さんは――」


 “歩けるのに、歩かないんですよね”と続けようとして、喉の奥で言葉が固まる。

 かわりに、全然別の言葉が滑り出た。


「――今日、何か予定あるんですか?」

「ない。だからここにいる」

「ですよね。暇人ですもんね」

「ひどい評価だ」


 夜代が、ほんの少しだけ肩をすくめた、そのとき――

 刑事課の電話が、甲高く鳴った。

 近くにいた柿原係長が、受話器を掴む。


「十北署刑事課、柿原――はい……ああ、北辰不動産? ……モデルルームで……? 死体? ……カメラには誰も映ってない?」


 空気が、薄皮一枚分だけ緊張したような感覚になる。


 係長は短く相槌を打ち、受話器を置くなり、こちらを振り返った。


「渡村。夜代くん。出るぞ」

「はい!」

「わかった」

 返事をしたときにはもう、心臓の鼓動が一段階跳ね上がっていた。



 署を出る前、エレベーターの前で、私は夜代の横に並んだ。

「さっきの話、続きは?」

「続き?」

「“歩くには便利だから”って。……本当は?」

 夜代は、少しだけ視線を落とした。

「……歩くと、思い出すからね」

「思い出す?」

「置いてきた人のことをさ」

 黒い眼帯の下に隠れている右眼の奥で、何かが一瞬だけ揺れた気がした。

 エレベーターが、軽い音を立てて開く。


「続きは、後にしようか」

 乾いた声だった。

 聞こえないふりではなく。ただ、その先をまだ語りたくないという、ささやかな拒絶の温度。


 私は、それ以上踏み込むのをやめた。

「……わかりました。じゃあ今は、目の前の死体から」

「そうだね。死人は待ってくれない」


 杖の音が、エレベーターの床に、コツ、と落ちた。

 私たちは、事件の現場へ向かった。 



◆2 死角のない部屋



 北辰不動産・十北支店のショールームは、思っていた以上にきれいだった。


 白いタイル張りの床。天井にはダウンライトが規則正しく並び、壁には新築マンションの広告パネルがずらりと並んでいる。


『SkyLuxe TOWER 十北 ――空に近い暮らしを、あなたに』


 大きなポスターに、夕日を背にした高層マンションのCGが印刷されている。


 その奥が、問題のモデルルームだった。


 透明ガラスの扉の前には、黄色い規制線。

 中は、ラグジュアリーホテルの一室のようなリビングが、そのまま切り取られたように見える。


 その中心で、一人の男が倒れていた。


「被害者、朝峰俊あさみね・しゅん四十二歳」


 鑑識が手帳を読み上げる。


「北辰不動産・十北支店の営業部長。独身。今朝九時三十分頃、部下の宮沢仁美みやざわひとみがモデルルームの掃除に来て発見。すでに死亡していたとのことです」

「死因は?」

「現場検視では、左胸部刺創による失血死。凶器は現場に見当たらず。司法解剖待ちですが、死亡推定時刻は昨夜二十一時から二十二時頃と見られます」

「昨夜?」


 私は、モデルルームのガラス越しに、中を見た。


 被害者の朝峰は、リビングの中央、ソファとローテーブルの間で仰向けになっていた。

 シャツの胸元には、赤黒い血の花。

 周囲には大きな血溜まりが出来ている。


 モデルルーム自体は一見、何の乱れもなかった。


 白いソファ。ガラスのローテーブル。壁一面を占める、大きな飾り棚兼収納。その背後には窓のように見せた大型スクリーンがあり、外の夜景映像がスライドショーで流れている。


「ここ、“死角ゼロのモデルルーム”って売り文句なんだよね」


 鑑識の一人が、天井を指さした。

 見上げると、四隅と中央に、小さなドームカメラが計五台、黒い目玉のようにこちらを見下ろしていた。


「全部で五台。リビングに三台、玄関スペースと廊下にそれぞれ一台。どこに誰が入っても、必ずどこかのカメラに映る。営業のウリにしてたらしい」


 私は、思わず唾を飲み込んだ。

「じゃあ、昨夜ここで朝峰さんが殺された瞬間も……」

「全部、録画されてるはずなんだけどね」


 別の鑑識が、苦い顔をした。

「問題は、“犯人らしき人間が、一度も映ってない”ことですよ」

「……映ってない?」

「監視システムのログから、朝峰の入室時刻は二十時五十五分。その後、二十三時までのあいだに、モデルルームの扉を開けた記録はありません。映像をざっと確認しましたが、途中で誰かが入ってきた形跡もない。にもかかわらず、二十一時過ぎの映像で、彼は胸を押さえて倒れました。凶器も映っていない。まさに“カメラの目が見ていない殺人”です」


 死角ゼロの部屋で、誰にも見られずに行われた殺人。

 胸の奥が、ぞわりと冷えた。


「合鍵とか、裏口とかは?」

 私が訊くと、鑑識は首を振った。

「モデルルームの鍵は、このスマートロック一種類。解錠履歴はすべてサーバーに記録されてる。昨夜二十時五十五分に朝峰のカードを認証、その後翌朝九時まで記録なし。今朝九時〇七分に、部下の宮沢のカードで解錠。裏口はなし。搬入口もセキュリティゲート付きで、履歴に怪しいものはないですね」


「つまり――」

 私は言った。

「犯人は“カメラに映らずに殺す方法”を使ったか、あるいは“すでに中にいた誰か”ってことですね」

「そういうことだ」

 背後から、柿原係長の低い声がした。


 その横で、夜代がガラス越しにじっと中を見ていた。

 黒い眼帯の下の右眼は見えない。

 左の瞳は、鏡のように静かだった。


「夜代さん。どう見えます?」

 私が尋ねると、彼は短く答えた。

「――“見えすぎて、見えない”部屋だ」

 どういう意味ですか、と訊ねる前に、

「中に入るぞ」

 と係長が言い、規制線の隙間をくぐった。



◆3 モデルルームの違和感



 ビニールのシューズカバーをつけ、私たちはモデルルームの中に入った。


 空気が、外よりわずかに冷たい。空調が一定に保たれているせいだろう。

 新築の内装材と、わずかな血と鉄の匂いが混じり合っていた。


 まず目に入るのは、例の大きな飾り棚だ。


 白い木目調のパネルで作られた、壁一面の収納。

 四角く区切られた棚には、本や観葉植物、オブジェのようなガラスの球体、インテリア雑誌が、さも自然に置かれている。


 私は、棚に近づいてみた。


(……なんか、変だ)


 正面から見ると、きれいに壁にぴったりくっついているように見える。

 でも、横に回り込もうとすると――


「ん?」


 棚の右側側面と、その隣の壁とのあいだに、薄い影が見えた。


 指を伸ばしてみる。

 ギリギリ一本、入るか入らないかくらいの隙間。


「……壁にべったりくっついてるわけじゃない」


 私は呟いた。


「数センチ、浮いてる」


 棚の側面の下のほうには、小さなキャスターのような金属部品が、床との境目に覗いていた。

 パッと見ではわからないが、よく見ると、これは“可動式の収納”だ。


「この棚、動くんですね」


「展示の時、レイアウトを変えられるようにしてあるそうだ」


 後ろから、スーツ姿の男が答えた。


 四十代前半。営業スマイルが板についた顔。

 北辰不動産・十北支店の支店長、小松原啓こまつばらけいだ。


「ただし、動かすときは、必ず営業担当か設計担当の立ち会いが必要です。下手に動かすと、床の配線を傷めてしまうので」


「配線?」


 夜代が、棚の下を覗き込む。


「はい。この棚の裏には、LEDの間接照明と大型スクリーンの配線が全部通っているんです。だから、本来は勝手に動かしちゃいけない。清掃スタッフにも、”棚の裏には触らないように”って言ってあります」


 ふうん、と私は棚の前にしゃがんだ。


 床には、肉眼ではほとんどわからない程度の細い傷が、棚と平行に伸びていた。

 何度か動かされた痕だろう。


 ふと、棚の中のガラスのオブジェに目が行く。


 透明な球体の中に、小さな街の模型が閉じ込められているようなインテリア。

 その表面に、天井のカメラが逆さまに映っていた。


(ガラス。反射)


 モデルルームのコンセプトどおり、部屋のあちこちに“映るもの”が配置されている。

 観葉植物の鉢の横には、縁が金属の写真立て。ローテーブルの上には、雑誌と一緒に、小さな鏡面トレー。


 “映されること”を前提に設計された部屋。


 そんな場所で、『カメラには映っていない殺人』が起きた。


 胸の奥が、もう一度ひやりと冷えた。

「青子」

 背後から、課長に名前を呼ばれた。

「はい」

「被害者の状態、見ておけ」

「了解です」


 私は手袋を確認しながら、朝峰の遺体のそばにしゃがみ込んだ。


 シャツのボタンが途中まで外れ、胸元の刺創が露出している。

 ナイフか、細身の刃物で一突き。

 刺し傷はやや斜め下から斜め上に向かっている。


(……前の事件と同じだ。角度)


 思わず、心の中で苦笑する。


 胸からローテーブルにかけて、血が飛び散っている。

 床の血溜まりの形状から、倒れた方向もおおよそわかる。


 周囲に転がった物はない。

 スマホは、ローテーブルの上。画面は暗いが、通知ランプが小さく点滅している。グラスには、ワインのような赤い液体が数センチ残っていた。


(争った痕は……ほとんど、ない)


 私は、そっとシーツ――ではなく、ラグの皺に指を滑らせた。


 ローテーブルの角と、ソファとのあいだの部分。


 そこには、妙な“引きずり跡”があった。


「……ここだけ、擦れてる」


 ラグの毛足が、一方向にだけやや寝ている。

 人が倒れた勢いで出来た皺というより、何かを引きずったような筋。


「青子君」

 背後から、夜代の乾いた声がした。

「床はどうだい」

「血の広がり方は、倒れた位置からほぼそのままですね。……ただ、ラグのこの部分、何か重いものを横に引いたみたいな跡があるのが気になります」


 夜代は、杖をつきながらこちらに近づいてきた。

 右眼の眼帯は、まだ閉じられたままだ。

「なるほど。君の目は、よく見ている」

 彼はラグをじっと見て、それから顔を上げた。

「――青子君。君の仮説を、まず先に聞こうか」

「仮説、ですか」

「“寝ていたところを刺されたのか”“立っていたのか”“座っていたのか”――どう思う?」


 私は一度深く息を吸って、現場の全体を見渡した。

 ソファ。ローテーブル。ラグ。飾り棚。

 グラス。スマホ。営業資料のファイル。


「……少なくとも、“完全にくつろいでいた”感じではないですね」

「というと?」

「グラスは飲みかけ。スマホはテーブルの端に置いたまま。営業資料が開きっぱなし。ラグには引きずったような跡……。ベッドがないぶん、第1話のときと状況は違いますけど、ここでも“姿勢の変化”がありそうです」

「いいね」

 夜代が、口元だけで笑った。


「じゃあ、“最後に何を見ていたのか”も、あとで確認してみよう」

 眼帯に触れる仕草。

 私は、喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。


 右眼の“残響”。

 死んだ人間の、最後の視界。

 それは便利な能力なんかじゃない。

 頭痛と吐き気と、古傷を伴う、厄介な現象。


「……本当に、やるんですか」


 思わず口にしていた。

「視たくないなら、やらなくていいです。私たちは、物理証拠からでも――」

「やるよ」

 夜代は、あっさりと言った。

「何度も言うけど、僕の右眼は“証拠の裏取り”にしかならない。主役は、君たちの目と頭だ。そのうえで、足りないところを少しだけ補う。それが、せいぜいだ」

 そう言うと、彼はゆっくりと眼帯に指をかけた。

 


◆4 残響と、映らない影



 黒い布が持ち上げられる。


 露わになった右目は、一瞬、光を反射してぎらりと光った。

 次の瞬間、その瞳に何かが流れ込んでいく。


 夜代の身体が、ぎゅっと強張る。


「……っ」


 喉の奥で押し殺したような息が漏れる。

 左手が、ラグの端を掴んだ。指先に血の気が戻っていくのが、外から見てもわかる。


 私は、何もできずに見ているしかなかった。


(三秒。……前回も、三秒くらい)


 一度に耐えられるのは、その程度だと、彼自身が言っていた。


 右目の“残響”は、死んだ人間の最後の視界を、断片的に、ざらついた映像として写し取る。

 音も匂いも温度もない。ただ、狭い視野の揺れだけ。


 やがて。


「……ふぅ」


 夜代は、大きく息を吐き、眼帯をぱたりと戻した。


 額には、うっすらと汗。

 左手はまだ、ラグを掴んだままだった。


「大丈夫ですか?」

「ああ。これくらいなら。……あまり、やりたくはないけどね」


 冗談めかした声の奥に、薄く震えが混じっている。


「視えたものを、教えてください」


 私が言うと、夜代はうなずいた。


「まず、“視えていなかったもの”から」


 その台詞に、少し救われる思いがした。


「彼の視界には、入口のガラス扉も、廊下も、一切入っていなかった。最後の瞬間、彼は“外”を見ていない。モデルルームの内部だけだ」

「じゃあ、“外から襲撃者が入ってきた”可能性は?」

「かなり低いだろうね。扉越しに誰かが飛び込んできたなら、反射的にそちらを向くはずだ」


 夜代は、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。


「視界の中央にあったのは、ローテーブルと、その向こうにそびえる飾り棚だ。ガラスの天板。赤い液体の入ったグラス。資料のファイル。その全部が、彼の“眼前”にあった」


 私は、現場の光景と頭の中で重ね合わせる。


「それと……視野の端に、“二つ”の影があった」

「二つ?」

「うん。一つは、彼自身の影だ。飾り棚の間接照明で、ソファの背凭れのあたりに薄く落ちていた。もう一つは、そのすぐ横に、少しだけ濃い影。人影だと気づくほどの輪郭はなかったが、“揺れ方”が違った」

「揺れ方?」

「彼の影は、倒れ込む動きとともに、ゆっくりと伸びていった。もう一つの影は、それとは別のリズムで、前に出て、引いた。……まるで、刺すような動きに合わせて」


 喉の奥が、ぞくり、とした。


「つまり――そこに、もう一人“いた”」

「そうだね。ただし」


 夜代は、飾り棚の上に置かれたガラス球を見た。


「その影は、“人間の形としては、うまく映っていなかった”。輪郭が歪んでいた。伸びたり縮んだり。まるで、水面に映った像のように」


 私は、ガラス球の中の逆さまのカメラの像を思い出す。

(……映ってるのに、ちゃんと映ってないもの)


「それから、強い光の筋が、一瞬だけ視界を横切った」


 夜代は、自分の胸の前に手をやった。


「ここから、ここまで。斜め下から斜め上へ。白い光が、細い線になって走った。刺創の角度と一致している。刃物だろう。鏡面仕上げのステンレスか、よく研がれた包丁だ」

「音や匂いは?」

「視えない。右眼が拾うのは、あくまで像だけだ」


 彼は軽く首を振った。


「まとめると――」

 私は言った。

「被害者は、部屋の中にいる誰かに向き合っていて、その人の影が、自分の影の隣に揺れていた。刃物が光り、その直後に倒れた。玄関方向は一切見ていない。だから、“すでに中にいた人物”による犯行である可能性が高い」

「そういうことになるね」

 夜代は、杖のグリップを握り直した。

「問題は、“どうしてカメラにはその人物が映っていないのか”だ」

 死角ゼロのはずの部屋。

 カメラには、朝峰の入室と、その後の一連の動きしか映っていない。


 なのに、“影”は二つあった。


 私は、飾り棚と天井のカメラを交互に見上げた。


(――どこかに、目の盲点がある)

 


◆5 監視映像と、二つの時間



 ショールームの奥、バックヤードの小さな会議室。

 そこで、私たちは監視映像を確認することになった。


 壁掛けのモニターには、五分割された映像。

 左上がモデルルームのリビング全体。右上が玄関スペース。左下が廊下。右下が、入口付近のカメラ。中央が、リビングの反対側からの補助カメラ。


「これが昨夜二十時五十五分。朝峰部長が入室した時刻です」


 説明しているのは、北辰不動産のシステム担当、梅津拓海うめづたくみだった。


 三十代半ば。細身のスーツに、少し長めの前髪。いかにも“IT系”という雰囲気の男性だ。


「このICカード認証ログと、映像のタイムスタンプはすべて同期されています」


 画面には、スーツ姿の男が入口のガラス扉から入ってくる様子が映っていた。

 社員証をかざし、扉を開け、リビングへ。


 その顔は、遺体のものと一致する。


「ここから先、早送りします」


 梅津がリモコンを操作する。


 映像の中の朝峰は、ソファに腰掛け、グラスを手に、資料をめくり、ときどきスマホを見ていた。


 どのカメラを見ても、“一人”だ。


 玄関カメラにも、廊下カメラにも、他の人物は映り込まない。


「二十一時十四分」


 梅津が言った瞬間――


 リビングのカメラ映像で、朝峰が胸を押さえた。


 眉をひそめ、椅子から半ば立ち上がるような姿勢で、よろめき、前のめりに倒れる。


 グラスが床に落ち、赤い液体が飛び散る。


 ……それだけだ。


 誰も、近づいてこない。

 誰の手も、画面に入らない。


「ここから先は、彼が動かなくなった映像だけです。二十三時ちょうどに、自動消灯。今朝九時までは真っ暗です」


 説明どおり、しばらくすると部屋の照明が徐々に暗くなり、画面はほぼ真っ黒になる。


 私は、唇を噛んだ。


(――“誰もいないのに死んだ”ようにしか見えない)


 でも、そんなはずはない。


 右眼の残響は、二つの影を視たと言っている。

 刃物の光も、刺す動きも。


 カメラの目には映っていない、誰か。


「もう一度、さっきの倒れる直前のところ、コマ送りで見せてもらえますか」


 私は言った。


「わかりました」


 梅津が再生位置を巻き戻し、スローに切り替える。


 朝峰がグラスを持ち、立ち上がろうとした、まさにその瞬間。


「ここ」


 私は画面を指さした。


「飾り棚のこちら側――一番右端あたり。光の反射、さっきと違いません?」


 天井のダウンライトが、棚の縁や飾られたガラス球に反射している。

 その中で、ほんの一瞬だけ、右端のほうが、妙な“揺れ方”をした。


 光が、歪んだ鏡に映ったように、波打つ。


「……たしかに」


 課長が、腕を組んだ。


「このタイミングでだけ、右端の反射が変だな。ほかのところはブレてないのに」


「カメラ側のノイズって可能性は?」


 私が訊ねると、梅津は首を振った。


「他のカットには出ていませんし、この瞬間だけです。カメラの故障なら、もっと長く乱れます」

「飾り棚の裏には?」

「配線スペースが十センチほど。配線と、LEDのコントローラーが通っています。人が入れるほどの幅じゃないはずですが……」


 梅津の言葉の最後に、かすかな逡巡が混じった。


 私は、その揺れた反射を頭の中でなぞり直した。


(光。歪み。影が二つ。人の姿は映ってない――)


「青子君」

 夜代が、隣で静かに言った。

「君がさっき言った“ラグの引きずり跡”、もう一度、思い出してみて」

「え?」

「飾り棚の前。ラグの毛足の向き」

 私は、現場の光景を思い浮かべる。


 棚の前のラグは、横方向――つまり収納に平行な方向に、帯状の擦れ跡があった。

 ちょうど、人が立てる幅くらいの。


(……棚の前に、何かがあった?)


 人一人が立てるくらいの細い空間。

 カメラから見れば、“棚の一部”に見える場所。


「――鏡、ですね」


 口が、勝手に動いていた。


「鏡?」


 柿原課長が、眉を上げる。


「飾り棚の裏側に、人一人分の幅の立て鏡を仕込んでおけば、カメラからは“棚”しか見えません。でも、実際には、棚の手前に人が立っている。その人の姿は鏡に映って、棚と同化する。だから、映像には“彼一人”にしか見えない」

「鏡面トリック、か」


 夜代が、乾いた声で言った。

「“死角ゼロの部屋”で、“映像に犯人が映らない”ようにするには、カメラの目を騙すしかない。棚の裏に鏡を立てて、そこに自分を溶け込ませる。カメラには、反射した棚の像しか映らない」


 私は、さっき見た光の揺れを思い出した。


「でも、完璧ではなかった。倒れる瞬間、影の揺れで反射が乱れた。その一瞬の歪みが、映像に残っている」


「だとしたら――」

 課長が、モニターの中の飾り棚を睨んだ。

「殺したあと、その鏡をどうやって消した?」

「そのヒントは、きっと現場に残ってるはずです」


 私は立ち上がった。


「もう一度、飾り棚の裏を、きちんと見てみたいです」

 


◆6 棚の裏と、清掃スタッフ



 飾り棚の右端。


 壁との隙間に体をねじ込み、私は懐中電灯の光を滑らせた。


「埃、少ないですね」

「毎日清掃入ってますから」


 返事をしたのは、先ほどから入口付近で所在なさげに立っていた、中年の女性だった。


桜庭靖子さくらばやすこ。ここの清掃を委託されている会社のスタッフです」


 小松原支店長が紹介する。


「今朝も、いつものように開館前に一通り掃除してもらいました。この部屋に入ったとき、異変に気づいて、いったん外に出て、宮沢に連絡を――」


「――すみません。あのときは、私のほうが先に部長を見つけてしまって……」


 声を割り込ませたのは、二十代後半くらいの女性だった。


 ボブカットの髪。スーツのスカート。目元には、泣き腫らした痕。


 北辰不動産営業部副主任、宮沢仁美みやざわひとみ


 今朝九時七分に、ICカードでモデルルームの扉を開けた人物であり、第一通報者。


 彼女は、少し唇を噛みながら続けた。


「桜庭さんから、“モデルルームの中で部長が倒れている”って電話が来て……急いで来たんです。鍵は……私のカードで開けて……」

「すみませんね、あたしじゃどうしたらいいか、わかんなくって」


 桜庭が、手をぎゅっと握りしめた。


「いつものように清掃に来たら、リビングに誰か倒れてて。最初はお客さんかと思って声をかけたんだけど、返事がなくて……怖くなって、一回外に出て、宮沢さんに電話したんです。あたしのカードじゃ、鍵開けられないから」


「清掃の方も、入退室記録残るんですか?」


 私が訊くと、梅津がうなずいた。


「スタッフ用の共通カードがあります。今朝は、八時四十五分に桜庭さんの入室、八時四十八分に退室記録が残っています。その後、九時七分に宮沢さん。昨夜の閉館後から今朝まで、他の入室記録はありません」


(……じゃあ、犯人は“昨夜のうち”に仕掛けと犯行を終えて、どこかから出ていった)


 私は、再び棚の裏側に注意を向けた。


 飾り棚は、幅三メートル、高さ二メートル半。

 壁とほぼ同じ高さで、天井とのあいだはわずかな隙間しかない。


 裏側には、縦方向にケーブルダクトが走っていた。

 その横――床から九十センチほどの高さのところに、妙な“枠”がある。


「これ……なんですか?」

 指で触れると、四角く囲われた部分の木目調シートの感触が、ほんの少し違った。

 周囲よりわずかにざらついている。


「そこは……あれ?」

 梅津が首をかしげて近づいてきた。

「そんなところに、枠なんて……」

「設計図には、何か記載されていませんか?」

「後で確認してみます」


 彼の額に、汗がにじむのが見えた。


 私は、その四角い枠と、床の擦れ跡の位置を見比べる。


 枠の幅は、およそ五十センチ。

 人が真正面に立つには、ぎりぎりの幅。


 枠の下の床には、ラグとは違う、直線的な擦り傷があった。

 何度か重いものを出し入れしたような。


(――ここに、何か“板状のもの”がはめ込まれていた)


 鏡だ。

 その仮説は、頭の中でほぼ確実な形になりつつあった。


「桜庭さん」

 私は、清掃スタッフの女性に声をかけた。

「はい?」

「今朝、いつものように掃除されたとき、この棚の裏側は?」

「裏は、あんまり……。危ないから、無理に入らないでくれって言われてますからね。表の棚は、上のほうはハンディモップで、下のほうは布で拭いてますけど」

「脚立、使いますか?」

「使いますよ。ほら、あそこに」


 指さした先には、折りたたみの小さな脚立が置かれていた。


 アルミ製の二段の踏み台。

 脚の一つには、白い塗料のようなものが薄く付着していた。


「それ、いつからそこに?」

「さあ……。少なくとも、先週の金曜日にはありましたよ。あたし、天井の照明拭くのに使いましたから」

「そのとき、この棚、動かしました?」

「いいえ。棚は動かしちゃダメって言われてますし。動かすときは、必ず営業の人と、さっきの……」


 桜庭の視線が、梅津に向く。


「設計の人が立ち会って、床の配線とか見ながらやるって聞いたもんで」


(棚を動かせるのは、営業か設計。清掃スタッフは、基本的には裏に触れない)


 私は、心の中で整理する。


 桜庭靖子。

 清掃スタッフ。

 定期的にこの部屋に出入りするが、棚の裏側を触る権限はない。

 今朝の入室時間は八時四十五分。死亡推定時刻の二十一〜二十二時には、ここにいなかった。


(――でも、“鏡の存在”に気づかなかったのは、十分ありえる)


 もし昨日まで、この枠に鏡がはまっていたとしても、清掃スタッフの目線からは“ただの棚の裏板”にしか見えなかっただろう。


 鏡面は、カメラのほうに向いていたのだから。



◆7 副主任・宮沢仁美という可能性



 事情聴取のため、宮沢仁美は、ショールーム内の小さな打ち合わせスペースに座らされていた。


 テーブルの上には、未開封のペットボトル。

 彼女は両手を膝の上で組み、視線を落としている。


「宮沢さん」

 私は向かいに座り、小さく会釈した。

「十北署刑事課の渡村です。いくつか、お話を聞かせてください」

「……はい」


 かすれた声。

 目元は赤く、疲れの色が濃い。


「朝峰部長とのご関係を、改めて確認させてください」


「直属の上司です。営業部で、私は副主任で……モデルルームの担当も兼任してます。部長が全体の方針を決めて、私が現場を回す、みたいな感じで」

「仲は?」


 彼女の指が、膝の上でぎゅっと組まれる。

「仕事上では……尊敬してました。売上も実績もある人でしたし。ただ……」

「ただ?」

「……いいところは、全部自分の手柄にする人でした」


 一瞬だけ、目に鋭い光が宿った。


「今回の“死角ゼロのモデルルーム”の企画も、元は私が考えたんです。でも、社内プレゼンになると、いつのまにか“部長の発案”になってて。スポンサーとの打ち合わせも、取材も、全部部長が前に出る」

「なるほど」

「仕方ないって、思ってました。会社って、そういうものだからって。でも――」


 宮沢は、唇を噛んだ。


「今月の人事で、部長だけが昇進候補に名前が載ってて……。私は、“補佐としてよく頑張っている”ってコメントだけ。正直、悔しかったです。部長に直接聞きました。“私の評価はそれだけですか”って」

「なんて返されました?」

「“実績は上司に付くもんだ”って。笑いながら、“君はまだ若いから、これからいくらでもチャンスはある”って」


 テーブルの下で、彼女の膝が震えていた。


「昨日、部長と会ったのは、何時ですか?」

「十八時半くらいです。ここじゃなくて、支店の会議室で。モデルルームの今後の方針について話しました。……売れ行きが思ったほど伸びなくて、“もっと攻めた企画を出せ”って」

「そのあと?」

「十九時過ぎに、一旦解散しました。部長は“残業して少し資料をまとめる”って言ってました。私は、同僚と軽く食事して、自宅に帰りました」

「モデルルームには?」

「……昨日の夕方、一度来てます」


 宮沢は、視線を落としたまま言った。


「十七時頃。お客さんの下見に付き添って、その後、ちょっとレイアウトを変えて……。そのとき、飾り棚の前のラグを少し引っ張って、位置を直したのは私です」


 ラグの擦り跡。


「昨日のそのあとには?」


「入ってません。出入りの記録を見てもらえば、わかると思います」


 実際、監視ログでも、十七時の入室記録のあと、宮沢のカードは使われていない。


(――動機は、十分すぎる。機会もある。でも、“決定的なタイミング”にはいない)


 死亡推定時刻は二十一〜二十二時。

 監視映像でも、その時間帯に宮沢は現れていない。


「部長とは、プライベートでのトラブルは?」

「付き合ってたのかって意味ですか?」


 宮沢は、少しきつい目でこちらを見た。


「噂になったことはあります。でも、事実ではありません。私は彼のそういうところ――部下に手を出したり、“可愛い子”だけえこひいきするところも、嫌いでした」

「それも、動機になり得ます」

「……はい。自覚してます」


 彼女は、うつむいた。


「正直、昨夜ニュースで“モデルルームで殺人”って見たとき、最初に頭に浮かんだのは、“ざまあみろ”って言葉でした。……そのあと、すぐに自己嫌悪で気持ち悪くなりましたけど」


 胸の奥が、少し痛んだ。


「それだけ憎んでいたのなら、なおさら、“やってない”ってことをはっきりさせなきゃいけませんね」

 私が言うと、宮沢はかすかに頷いた。

「……はい」

「最後にもう一つ。飾り棚について、何か不審なことは?」

「不審なこと?」

「いつもと違う、とか。動かされてた、とか」

「昨日の時点では……特に。LEDの光も普通でしたし。強いて言うなら、一昨日、設計の梅津さんが、“棚の裏の配線を触るから”って、私に立ち会いを頼んできました。脚立を使って、上のほうのケーブルを点検してました」

 梅津。

 私は、頭の中で名前に印をつけた。



◆8 鏡の行方



 午後。

 北辰不動産から設計図のコピーが届き、私たちは刑事課の会議スペースにそれを広げていた。


「ここだ」

 夜代が、一本の赤い線に指を置いた。

「“リビング壁面収納 背面メンテナンスパネル(取り外し可)”」


 飾り棚の背面図に、小さく四角く囲われた部分があった。

 サイズは五十センチ×百八十センチ。


 注釈には、「配線点検および演出用反射パネル挿入可」とある。


「演出用反射パネル?」


 柿原課長が眉を上げた。


「モデルルームのオプションらしいです。必要に応じて、“鏡パネル”や“ガラスパネル”を差し込んで、空間を広く見せる演出をするって」


 説明してくれたのは、書類を届けてきた北辰の事務の女性だった。


「今回は、コストの都合で使ってないって聞いてましたけど……」

「使ってないはずの“枠”に、擦り傷とラグの引きずり跡」


 私は、飾り棚の裏で見た四角い枠を思い出す。


「誰かが、“勝手に鏡を入れて、勝手に抜いた”んですね」

「その鏡パネル、本来どこに保管されている?」


 夜代が訊ねると、事務の女性は少し言いよどんだ。


「えっと……正式には、“本社倉庫に保管”となってます。ただ、今回のモデルルームに使う予定だった分は、一度ここに持ち込んで、採寸やフィッティングをしたと聞いてます。その後、使わないって決まって……どこに保管したかまでは」

「倉庫を全部、洗ったほうがよさそうだな」


 課長が、ため息混じりに言った。


「梅津さんにも、もう一度詳しく話を聞きましょう」


 私は立ち上がった。




 北辰不動産・設備管理室。


 配線図やサーバーラックが並ぶ一角で、梅津拓海は椅子に腰据え、端末に何か入力していた。


「――鏡パネル?」


 私たちが話を切り出すと、彼は一瞬だけ目を泳がせた。


「設計図には、そういうオプションが書いてありますね」

「実物は?」

「本社から送られてきた分は、最初のフィッティングのときに使って……その後、倉庫のほうに――」

「倉庫のどこです?」

「……詳しくは覚えてません。施工業者さんが片づけたので」


 声の端に、わずかな硬さが混じる。


「梅津さん」


 私は机の上のマウスに目をやった。


「昨夜、二十一時から二十二時のあいだ、どこにいました?」

「ここですよ。サーバーのログを見ればわかるはずです。監視カメラもありますし」

「たしかに、設備管理室に出入りするあなたは、映像にもログにも残っています」


 夜代が、淡々と言葉を重ねた。


「ただ――」

「ただ?」

「“サーバーの時計は、いじれる”」


 梅津の指が、マウスの上で止まった。


「監視システムのログだって、設計者ならいくらでも“メンテナンス”という名目で、書き換えることができる。特に、“自分の出入り履歴”ならね」

「何が言いたいんですか」

「君は、昨日の十七時頃、宮沢副主任をモデルルームに呼んで、“棚の裏の配線点検”を名目に、メンテナンスパネルの存在を確認した」


 夜代の左目が、じっと梅津を射抜く。


「そのとき、鏡パネルを使えば、“カメラの死角ゼロの部屋に、自分だけの死角を作れる”と気づいただろう」

「……」

「君には、動機もある」


 今度は、柿原課長が口を開いた。

「内部監査部から、ここのシステム費用について問い合わせが来ている。横領の疑いだ。朝峰部長の指示で、架空請求や水増し請求に協力させられていた、という話もある」

 梅津の顔色が、わずかに変わった。

「部長は、君に責任を擦り付けようとしていた。横領の証拠となるデータは、ほとんど君の操作ログで残されている。君のほうに、矢面に立たされる危険が迫っていた」

「だからって――」

「“だから殺した”とは言ってない」


 夜代は、乾いた声で遮った。

「ただ、“殺す理由としては十分だ”と言っているだけだ」

「……」

「昨夜二十時五十五分。朝峰部長のカードで、モデルルームの扉が開いた。彼は一人で中に入って行ったように見える」


 夜代は、机の端に手をつき、ゆっくり歩きながら言葉を紡いだ。


「でも実際には、その少し前――二十時四十五分頃、君は、清掃用のサービス口からモデルルームの裏手に回り、鍵のかかっていない非常用メンテナンス扉から、棚の裏の配線スペースに入った」


 設備管理者用のメンテナンス扉。

 図面に、小さくそう記載されていた。


「君はそこで、以前倉庫から持ち出しておいた“鏡パネル”を、飾り棚の背面枠に差し込んだ。鏡面は、カメラのほうを向いている。君はその鏡の前、棚の陰の中に立つ」

「……映像には、僕なんて映ってませんよ」

「映っていないように見えるだけだ」


 夜代は、端末のモニターではなく、部屋の蛍光灯をじっと見上げた。


「リビングのカメラは、飾り棚の“表面”を見ている。そこに鏡を仕込めば、“鏡に映った棚”も“本物の棚”も、同じに見える。君の姿は、その裏側に隠れる。カメラには、“棚しか映っていない”」

 私は、さっきのラグの擦り傷と、光の歪みを思い出した。


「朝峰部長が入ってきたとき、君はすでに棚の陰にいた。彼は、一人だと思っていた部屋で、普通にくつろぎ出す。ソファに腰掛け、グラスを手に、資料を読みながら、君が出てくるのを待っている」

「なんで僕が出てくる?」

「横領の話を、“なかったことにしてくれ”と頼みに来たからだ」


 係長が、静かに言った。

「監査が入る前に、ログを書き換えろ。自分に不利なデータを消せ。今まで通り、“お互いのため”だ――そう言って」

「…………」


 梅津の喉が、ごくり、と鳴った。


「君はそれに、耐えられなかった。自分の人生が、このまま“誰かの不正のための道具”として終わることに。だから、棚の裏で待ち構え、彼がテーブルのグラスに手を伸ばした瞬間、鏡の陰から一歩踏み出して、胸を刺した」


 夜代の右手が、目の前で刺す動作をする。


「右眼が視た、“二つの影”。一つは部長自身。もう一つは、“鏡の陰から出てきた君の影”だ」


 梅津は、額に浮かんだ汗を、乱暴に拭った。


「――証拠は?」

「物理的な?」


 夜代は、わざとらしく首を傾げて見せた。


「証拠なら、すでに見つかってる。ねえ、渡村君」

「はい」


 私は、一枚の写真を取り出した。


「倉庫の奥のサービスハッチから、“長さ百八十センチ、幅五十センチの鏡パネル”が見つかっています。枠の四辺には、昨日付けられたような新しい擦り傷。裏のフレームには、モデルルームの壁紙と同じ白い塗料が、薄く付着していました」

「さらに」


 課長が、別の写真を机に置いた。

「鏡の側面からは、微量だけど、被害者の血液が検出されている。刺したとき、刃先の血が飛んだんだろう。君が必死に拭ったんだろうが、全部は消せなかった」

「サーバーのログも、見直したよ」


 私が言った。

「“昨夜二十一時二十分頃に実行されたログのメンテナンス”。表向きは“バックアップ処理”って表示されていましたけど、実際は“二十一時〜二十三時の監視ログの一部を書き換える”作業だった。……痕跡が残ってました」

 夜代が、ゆっくりと補足する。

「部長が倒れた21:14の直後、廊下カメラの映像に、棚の近くで一瞬だけ影が動くのが映っている。君が棚から鏡パネルを外して、廊下に面したサービスハッチへ運んだときのものだろう。あとからそれを消そうと、ログごといじった」

「でも、“いじる前のログ”は、別のバックアップサーバーにも保存されていた」


 私は、小さく息を吐いた。

「だから、あなたが“映像の神様”になれる時間は、ほんの少しだけだったんです」


 梅津は、椅子の背もたれに身体を預けた。


 長い沈黙。


 やがて。


「……あいつが、全部悪いんだ」


 ぽつり、と言った。


「あいつが、最初に“こういうのはどこでもやってる”って言った。“君ならログをいじれるだろう? なぁに、バレやしないさ”って。俺は、ただ……」

「“従っただけ”ですか?」


 夜代の声は、驚くほど冷静だった。

「なら、なんで、鏡まで使って完璧なトリックを組んだ?」

「…………」


「君は、自分の技術を誇っていたんだろう。監視カメラの死角をなくすシステム。その完成度。その設計を、部長に“横取り”された。今回のモデルルームも、評価も、すべて」


 夜代は、梅津をまっすぐ見据えた。


「君は“部長を殺した”だけじゃない。自分の技術を、“自分の人生ごと”殺した」


 梅津の肩が、かすかに震えた。


 その震えが、罪悪感によるものか、悔しさによるものかは、私にはわからなかった。


 ただ一つだけ確かなのは――

 “死角のない部屋”にも、“盲点がある”こと。

 そして、“自分の人生を守るための技術”は、その使い方次第では、人を殺すための刃にもなるということだった。


 


◆9 歩くことと、見えること



 その日の夕方。


 事件現場だったモデルルームは、すでに鑑識のテープも外され、普段の静けさを取り戻しつつあった。


 もちろん、当面は“営業中止”の札が掛かることになるのだろうが。


 私は、玄関のガラス扉の前に立ち、リビングを見渡した。


 ソファ。ローテーブル。飾り棚。


 もう、血の跡はない。

 ラグも交換されている。


 鏡パネルは、倉庫から押収済み。

 飾り棚の背面の枠は、空っぽだ。


「――死角ゼロ、か」


 背後から、静かな声がした。


 振り返ると、夜代が杖をついて立っていた。


「実際には、どれだけカメラを増やしても、どこかに“見えない部分”は残る。この世界の真理だね」

「でも、“見ようとする人間”がいれば、その死角はだいぶ小さくできます」


 私は、ほんの少し胸を張って言った。

「ラグの擦り跡とか、棚の枠とか、鏡の光とか。夜代さんの右眼が視たものと、私たちの目で見たもの。両方合わせれば、“見えなかった犯人”も、ちゃんと見えました」

「そうだね」


 夜代は、飾り棚の前まで杖を進めた。


「君の目が、“現場に残った時間”を見てくれるから、僕の右眼は、“最後の数秒”だけ視ていればいい」

「便利な言い方ですね」

「便利な能力ではないと言ったのは、誰だったかな」


 私は、苦笑した。

「……夜代さん」

「うん?」

「さっき、“歩くと、置いてきた人を思い出す”って言ってましたよね」

「言ったね」

「それって、“歩かないほうが、楽だ”ってことですよね」

「……そうだね」


 彼は、廊下の先を見た。


 モデルルームの廊下は、実際のマンションの廊下より少し広く作られている。

 まっすぐ伸びた先に、偽物の玄関があり、その手前に姿見の鏡が掛かっていた。


「でも、“歩かないこと”って、本当に楽なんでしょうか」


 私の声は、自分でも少し驚くくらい、はっきりしていた。


「歩かなかったら、その場の風景しか見えません。鏡に映るのも、自分だけ。死体も、事件も、過去も、ずっと同じ場所に留まる」

「………………」

「歩けば、“見たくないもの”も見ちゃいますけど。そのぶん、“見える景色”も増えるはずです。さっきの鏡だってそうです。棚の前に立った人間は、自分の姿しか見えない。でも、カメラの位置を変えれば、“映ってない犯人”も見える」


 夜代は、少しだけ眉を寄せた。


「何が言いたい?」

「歩くことって、“視点を変えること”なんじゃないかなって」


 私は、足元の床を見下ろした。

「同じ場所に立っていたら、ずっと同じようにしか見えない。でも、一歩進めば、景色が少し変わる。過去の記憶を引きずりながらでも、一緒に歩く誰かがいれば――」


 言いながら、手のひらに汗が滲んでくる。

 それでも、言葉を止めなかった。


「――夜代さんの“死角”の一部くらい、私が埋められるかもしれません」


 彼は、しばらく何も言わなかった。


 飾り棚の前で立ち止まり、杖の先でそっとラグを突いた。


「……ずいぶんと、大きなことを言うね、新米刑事」

「先日よりは、成長してるつもりです」

「自覚があるのは、悪くない」


 夜代は、ふっと口元を緩めた。


「じゃあ――」

 彼は、杖を軽く持ち上げた。普段よりも、ほんの少しだけ重心を前に傾けて。


「“視点を変える練習”でも、してみようか」

「え?」

「この廊下を、一周歩く。君のペースで。……僕は、君の影についていく」


 心臓が、どくん、と鳴った。


「……いいんですか」

「君が“死角”を埋めてくれると言うなら、少しくらいは信用してみよう」


 彼の声は、いつものように乾いていた。

 けれど、その奥に、微かな期待のようなものが混じっているのを、私は感じ取った。


「じゃあ――」

 私は、一歩、前に出た。

 モデルルームの廊下。

 足音が、静かな空間に小さく響く。


 すぐ後ろで、杖の音がついてくる。


 コツ。コツ。コツ。


 振り返らなくてもわかる。

 黒いコートに、黒い眼帯。


 右眼に、死者の最後の視界を宿した、歩かない探偵。


 ――夜代真陽。


 廊下の曲がり角を曲がると、姿見の鏡に、こちらの姿が映った。


 私の影と、その少し後ろに重なる、夜代の影。


 モデルルームの照明が、その影を床に長く伸ばす。


「死角、なくなりました?」

 振り返ってそう言うと、夜代はほんの少しだけ目を細めた。


「さあね」

 乾いた声。


「でも――」

 彼は、杖を持っていないほうの手を、ほんの少しだけ前に出した。


「今、僕の視界には、“二つの影”が見えてる」

 その言い方が、どこか救いのある冗談に聞こえて、私は思わず笑ってしまった。


「じゃあ、これからも、“二つ”で行きましょう」

「そうだね。“一つ”でいた時よりは、少しはマシかもしれない」


 鏡の中で、二つの影が並んでいた。


 右眼の残響探偵・夜代真陽。

 十北署刑事課の新人刑事・渡村青子。


 死角のない部屋と、死角だらけの心。

 それでも、少しずつ視点を変えながら、私たちの共同捜査は続いていく。


 ――次の、“見えない何か”を見つけるために。

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右眼の残響探偵・夜代真陽 古木しき @furukishiki

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