第1話 『歩かない探偵』

 ◆1 最初の現場


 朝の雲に隠れ気味の光は、十北市の古いマンションには似合わなかった。

 コンクリート打ちっぱなしの外壁は少し黒ずみ、エントランスのポストにはチラシが溢れている。


「三階の三〇五号室だ」


 柿原課長が、階段を上りながら短く言った。

 四十代半ば。眠たそうな顔つきに無精ひげ。けれど目だけは、いつも周囲を測るように鋭い。


 その少し後ろを、私は歩いていた。

 十北署刑事課の新人刑事、渡村青子わたりむらしょうこ

 初めての「死体の出た現場」に、喉の奥が乾いている。


 そして、そのさらに後ろから、杖の音がついてくる。

 コツ、コツ、と一定のリズムで。

 振り返らなくてもわかる。黒いコートに黒い眼帯――夜代真陽よしろまよう


 私が数年前、路地裏で一度だけ目撃した“異物”。

 右眼に、死者の最後の視界が残る、という噂の警察庁嘱託の探偵。


「ちっ。ここはエレベーターすらないのか」

 夜代が小さい声で呟いたのを聞き逃さなかった。


 階段を上り切ると、三階の廊下には制服警官と鑑識が待機していた。

 三〇五号室の前には、黄色い規制線。ドアの前には封印テープ。


「十北署刑事課の柿原だ。こっちは新人の渡村。それと夜代」

「ご苦労様です」

 制服警官が敬礼をし、規制線を上げた。

 封印が切られ、ドアノブが回される。

 鍵はかかっていたが、第一発見者が持っていた合鍵で開けられたらしい。


 ドアを押すと、湿った空気と鉄の匂いが、薄く鼻を刺した。

 私は息を吸い込んでから、足を踏み入れた。


 ◆


 六畳ほどのワンルームだった。

 玄関から土間のようなスペースを抜けるとすぐ、左手に簡易キッチンと小さな冷蔵庫。

 奥にはベッドとローテーブル、右側の壁に腰高の窓。突き当たり右がユニットバス。


 そのベッドとテーブルのあいだ――床に、一人の男が倒れている。


「被害者は、北佐悠人きたさゆうと、二十五歳」


 鑑識が手帳を見ながら言った。


「IT系の会社員。ひとり暮らし。通報は今朝八時十二分、元交際相手の女性から。現場到着時、玄関は施錠、チェーンなし。窓も内側から施錠済み。争った形跡は、ほとんどありません」


 私はうなずき、被害者に近づいた。


 仰向け。

 Tシャツ越しに、心臓の少し上を一突きされた傷。

 血は胸から床に流れ、すでに黒ずみ始めている。


「寝てるとこを刺された、って見立てか?」

 柿原係長が、ベッドを一瞥して言った。


「現時点ではそういう仮説で現場保存されてます」

 鑑識が答える。


 私は、ベッドとテーブルと床……一つずつ見ていった。


 ベッド。

 掛け布団は半分ほど折り返されている。

 ただ、シーツの皺は、思っていたほど深くない。

 枕も、頭の重みで潰れた形ではなく、表面だけが少し波打っている。


 ローテーブル。

 テレビのリモコン、雑誌、二つ折りのチラシ、それから――ガラスのコップが一つ。


 コップの内側には、乾きかけた水滴が細かく貼りついている。

 完全には蒸発していないが、縁から垂れて線になるほどの量は残っていない。


 床。

 被害者の右手から少し離れた場所に、スマートフォンが画面を下にして落ちている。

 裏面の左側の端だけが、蜘蛛の巣状に割れていた。


(……寝ていた、か)


 私は、ベッドの縁に腰掛けるようにしゃがみ込み、自分の視界をテーブルへ合わせてみる。

 目の前にコップ。手元にはスマホ。視界の隅にはテレビと、キッチン。


「……違います」

 気づけば、声に出していた。


「寝ていたなら、こんな痕跡は残らない」


 背後で、誰かの視線が動く気配がした。


「理由を聞こうか」

 夜代真陽の声だった。

 試されている、という感じではなかった。

 ただ純粋に知りたいと言うような、静かな声音。


「まず、ベッドです」

 私はシーツの皺に指先を滑らせる。


「寝返りを打って数時間過ごした人の皺じゃありません。沈み方も不自然に浅い。腰掛けたときの沈み方に近いです」

「なるほど」

「それから――コップの水滴。水を入れてすぐなら、内側全体に均一に水の膜が残ってるはずです。でも、これはいちど口をつけて飲んで……少し時間が経ってからの乾き方です。“寝落ちする直前に慌てて一口飲んだ”っていうより、“起きて喉が渇いて飲んだ”感じです」


 自分で言いながら、頭の中でタイムラインを組み立てていく。


「スマホもそうです。ベッドの横に置いて寝るなら、枕元か机の上に置くはずですが……これは、立つか腰掛けるかしている途中で手から滑り落ちた角度です。画面を下にして、裏側の端だけが割れている。寝ている姿勢より、起きている姿勢での落下に近い」


 私は床に落ちたスマホとベッドとの距離を測る。


「だから――少なくとも、“ぐっすり寝ていた状態”では刺されていません。被害者は起きていて、コップの水を飲み、スマホで時間を見ていた。その状態で、何かに驚いて……倒れた」


 しん、と部屋の空気が静まった。


 夜代と一緒に私の推理を訊いていた柿原係長が低く「ふうん」と鼻を鳴らす。

 鑑識の一人が、手帳に何かメモする音が聞こえる。

 夜代は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「いい観察だよ、渡村君」

 それだけ言って、彼はベッドとテーブルのあいだに杖をついた。


「夜代さん」

 私は、胸の奥の不安ごと、思い切って口を開いた。

「その……右眼のこと、伺ってもいいですか。“死者の最後の視界が見える”っていう噂……本当なんですか」


 鑑識の手が、一瞬だけ止まった気がした。

 すぐにまた作業に戻る。

 この署では既に知られていることなのだろう。


 夜代は、眼帯の端に軽く触れた。

「噂はいつも、実物より派手になるものだ。僕の右眼が視るのは、“死ぬ直前の数秒間の視界の一部”だけだよ」

「一部……?」

「そう。音も匂いもない。色も輪郭も、ざらついていて、はっきりとはしない。それに、視えるのはいつも“視野の中央”とは限らない。視線を向けていた先か、意識の端で捉えていたものか。その断片が、フラッシュバックのようにこちら側に流れ込んでくる」


 彼は淡々と説明を続ける。


「時間も制限がある。死後二十四時間を越えると、映像は崩れて意味をなさない。それに――」

 眼帯の下に触れた指先が、わずかに震えた。

「長く覗けば、俺のほうが壊れる。一度に耐えられるのは、せいぜい三秒から五秒程度。それ以上は、頭痛と吐き気と、昔の記憶が一緒に押し寄せてくる」

「昔の……記憶」

 それについて詳しく聞きたかったが、聞いてはいけない気がして、言葉が続かなかった。


「だから、これは“便利な能力”なんかじゃない。ただの、厄介な現象だよ。それでも、君は使ってみたいかい?」

 夜代の視線が、まっすぐこちらを見る。

 白い眼帯と、露出した左目の黒さ。その両方が私を映していた。

 私は、唾を飲み込み、うなずいた。


「……お願いします。少しでも……この人が、最後に見たものを知りたいです」

「君に、というより、この場に、だね」

 夜代は小さく笑ってから、眼帯に指をかけた。


 黒布が持ち上げられ、右目が露わになる。

 一瞬、瞳の奥に光が走った気がした。


 その直後、彼の肩がぎゅっと強張る。

「……っ」


 喉の奥で押し殺した息。

 杖を握る左手に、血が通ったみたいに力がこもる。

 彼の右目は、床に倒れた北佐悠人の顔のあたりを見ているようでいて、その実、まったく別の場所――死の直前の視点から見た世界をなぞっているのだと、直感した。

 数秒。

 それ以上は耐えない、と決めているかのように、夜代は眼帯をぱたんと戻した。


「……ふう」

 深く息を吐き、壁に片手をついて立て直す。


「大丈夫ですか」

「これくらいならね。……毎日やりたいものではないけれど」


 額にはうっすら油汗が浮かんでいた。


「視えたものを教えていただけますか?」

「わかった。まず、“視えていなかったもの”から」


 夜代は口角をわずかに上げた。

「彼の視界には、玄関ドアの輪郭が一切入っていなかった。最後の瞬間、彼は玄関方向を見ていない」


 私は、ベッドから玄関までの距離と角度を頭の中で描く。


「代わりに視えていたのは、ローテーブルの端と、その向こう……キッチンとを区切るあたりだ。テーブルの上にはコップ。右手にはスマホ。その視界の端で――」


 夜代の目が、今度はキッチンのほうへ向いた。


「一瞬だけ、強い反射光が走った」


「反射光?」


「白い照明の光が、刃物のような細い何かに反射した。鋭い光の筋として視界の隅を横切って、すぐに途切れた。それが胸元に向かってくる感覚と一緒にね」


 私は、胸のあたりがきゅっと冷たくなるのを感じた。

「つまり――」


「刃物による刺突だ、と彼自身が認識した瞬間だろう」


 夜代は静かに言う。


「鈍器で殴られたのなら、あんな光の走り方はしない。反射の角度からして、刃は胸の正面から、僅かに斜め下から上へ向かってきていた。つまり、犯人は彼とほぼ同じか、少し背の低い人物だ」


 私は無意識のうちに、自分の身長と、倒れている北佐悠人の体格を見比べていた。


「それと――」


 夜代は床を杖で軽く突く。


「視界の中心に、玄関はなかった。最後の瞬間、彼は“部屋の中”にいた誰かを見ていた。外から入ってきた不審者ではなく、すでにその空間にいた人間を」


 喉の奥に、小さな塊ができた。


(――犯人は、あの部屋に“前からいた人”)


 玄関から突然入ってきた見知らぬ襲撃者ではない。

 ベッドとテーブルとキッチン。

 その生活の風景の中に、最初から紛れ込んでいた誰か。


 ◆


 ユニットバスのドアを開けると、ひやりとした湿気が顔にまとわりついた。


 床にはまだ水滴が残っている。

 ただ、ぽたぽたと落ちたままの丸い形のものと、途中で乾いて輪郭だけが残ったものとが混在していた。


 しゃがみ込んで目線を床すれすれにすると、水滴の輪郭がよく見える。


「……シャワーを止めてから、そこそこ時間が経ってますね」


 私は言った。


「どれくらいだと思う?」


 ドアの外から、夜代の声。


「換気扇は止まっていて、窓もないので……体感ですけど、二、三十分以上は経ってる感じです。すぐに倒れたなら、もっと“流れた跡”がくっきり残ってます」


 浴室のドアノブには、濡れた手で触ったような跡。

 そのまま部屋に戻れば、床にも足跡の形の水が残るはずだが、そこまで派手には残っていない。


(シャワーを浴びて、タオルでざっと拭いて……少し時間を置いてから部屋に戻って、水を飲んで、スマホで時間を見て……)


 私は、現場の空気と頭の中のタイムラインとを重ね合わせた。


 鍵のことも気になった。

 玄関の内側のサムターンは、確かに施錠の位置を向いていた。

 だがそれは、「内部から鍵をかけた」ことしか意味しない。

 外から鍵を使えば、同じ状態になる。


 第一発見者の女性――元交際相手の女は、合鍵を持っていた。

 そして今朝、施錠されたドアをその鍵で開けて、北佐悠人の遺体を見つけた。


(“密室”は……この瞬間に壊れている)


 私は、玄関のドアをもう一度見た。

 内側にチェーンも補助錠もない。

 「玄関は鍵がかかっていた」という事実だけで、「内側からしか閉められない」と思い込むのは、ただの早とちりだ。


「密室は?」


 背後で、柿原係長が訊ねる。


「“見かけ上の密室”ですね。

 鍵の性質上、外からも閉められます。

 問題は“いつ、誰が”閉めたか、です」


「だろうな」


 係長は腕を組み、鼻を鳴らした。


「じゃあ、鍵を閉められる人間――合鍵を持ってる元交際相手の女から、話を聞こうか」


 ◆


 取調室の椅子に座った女性は、両手で紙コップを握りしめていた。

 髪は肩までのボブ。ノーメイクに近い顔は、泣きすぎて赤くなっている。


「……柚木亜沙美ゆずきあさみさん。二十四歳」


 私は手帳を確認する。


「雑貨店でアルバイト。北佐さんとは、一年半ほど交際していた。で、最近はうまくいってなかった、と」


「……はい」


 かすれた声が返ってくる。


 柿原係長が、できるだけ柔らかい声音で問いかける。


「昨日の夜、彼の部屋には?」


「行きました。……十九時半くらい、だったと思います」


「目的は?」


「別れ話……というか……距離を置こうとか言われてて、それがずっとモヤモヤしてて……ちゃんと話したくて」


 紙コップが、彼女の指の中でくしゃりと音を立てる。


「部屋に着いたとき、鍵は?」


「悠人が開けてくれてました。インターホン押したら、『今開ける』って……中に入ったときは、もう鍵のことなんて気にしてなくて……ごめんなさい……」


「そのあと、何があったか教えてください」


「いつものみたいに、他愛のない話をするつもりだったんですけど……悠人が、『しばらく距離を置こう』って。『仕事も忙しいし、お互い冷静になったほうがいい』って……」


 亜沙美は、かすかに笑おうとして、うまく笑えずに顔を歪めた。


「でも、それがもう“別れよう”って意味なんだってすぐわかって……『はっきり言えばいいじゃん』って、私、怒っちゃって……『じゃあ鍵返すね』って。ポケットから合鍵出して、テーブルの上に置いて……そのまま出てきちゃって……」


「そのとき、北佐さんは?」


「ベッドに座ってました。うつむいたまま……私が玄関のほうから振り向いたら、スマホ見てて……時間を確認してた……と思います」


 私は、現場で夜代の《残響》が告げた情景と照らし合わせる。

 テーブル。コップ。スマホ。


「それから?」


「ドアを閉めて、そのまま階段で降りました。それが最後です。今朝ニュースで、『十北市のマンションで刺殺体が』って見て……住所が見覚えあって、もしかしてって思って……それで、部屋まで行って……」


 そこで、彼女は涙で言葉を詰まらせた。


「玄関、鍵は?」

「閉まってました。合鍵、まだ持ってたから……開けて、中に入ったら……悠人が……」

 嗚咽。

 私はペンを握る手に力を込めた。


「昨日の夜、あなたは一度だけ彼の部屋に行った。そうおっしゃいましたね」

「……はい」

「本当に“一度だけ”ですか?」


 亜沙美が、はっとして私を見る。

 その反応の速さが、むしろ違和感を強くする。


 夜代が、隣で静かに息を吸った。


「柚木さん」

 彼は穏やかな声で言った。

「いくつか、事実を確認させてほしい」

 夜代は、指を一本一本折るように、淡々と並べていく。

「ひとつ。司法解剖の結果、北佐悠人の死亡推定時刻は、昨夜二十一時から二十三時のあいだと出た。今朝八時ではない」


 亜沙美の肩が、小さく震える。


「ふたつ。浴室の水滴の状態から、彼はシャワーを浴びたあと、すぐに倒れたわけではない。少し時間を置いてから、水を飲み、スマホで時間を確認していた」


 私は、コップとスマホとシーツの皺を思い出す。


「みっつ。『残響』によれば、最期の瞬間、彼は玄関ではなく――テーブルとキッチンのあいだを見ていた。その視界の端を、刃物の反射光が横切っていた」


 夜代の声は変わらない。感情を乗せすぎず、ただ事実だけを置いていく。


「最後に。マンションの防犯カメラの映像には、昨夜二十一時二十分頃、三〇五号室の前にもう一度立つあなたの姿が映っている」


 亜沙美は、紙コップを握る手をぎゅっと閉じた。

 薄い紙が、しわになってよれる。


「あなたは、本当に“一度だけ”だったと言えますか」

「……っ……」


 しばらくの沈黙のあと、彼女は小さく首を振った。

「ごめんなさい……」

 絞り出すような声だった。


「一回、降りたんです。階段を下りて、外まで出て……でも、どうしても、あのまま帰れなくて……また上がって……」

「鍵は?」

「閉めてません。悠人が閉めるだろうって思って……ごめんなさい……ちゃんと覚えてなくて……」

「二度目に行ったとき、玄関は?」

「開いてました……」


 彼女の頬を、また新しい涙が伝う。


「中に入って……部屋、暗くて……でも浴室のほうから、シャワーの音がして……“まだ話せるかも”って思って……浴室の前まで行って……扉を、少し開けたら……」

 言葉が途切れる。

「悠人が、驚いた顔でこっちを見て……『なんでまだいるんだよ』って、怒ったみたいに言って……私も、カッとなって……」

 彼女は両手で顔を覆った。

「キッチンの横にあった包丁、掴んじゃって……『ちゃんと私のほう見て話してよ』って……冗談のつもりで、脅かすつもりで……胸を、ちょっと押しただけのつもりだったんです……」


 私の脳裏に、夜代の言葉がよみがえる。

 ――斜め下から上へ向かう刃。

 同じか、少し低い身長。


「包丁の柄、滑り止めもなくて……私の手、シャワーの湿気で少し濡れてて……力を入れたくなくても、滑って……思った以上に押し込んじゃって……」


 亜沙美の涙声が強くなっていき、呼吸が乱れていく。


「そしたら……悠人が、思ったより強くよろけて……足、濡れてて……バランス崩して……包丁が……深く入って……血が、いっぱい出て……」


 取調室の空気が重く沈む。


「私、パニックになって……包丁、抜いて……どうしたらいいかわからなくて……シンクで、必死に洗って……自分のバッグに突っ込んで…………そのまま、逃げました……」


 包丁の行方は、すでに確認されている。

 彼女の自宅のシンク下から、血液反応の残るステンレスの包丁が押収されていた。

 拭き残された血痕と、北佐悠人の血液型が一致したことも、鑑識から報告を受けている。


「鍵は?」

 柿原課長が静かに訊く。


「出るとき……震えながら鍵閉めて……“もうここには来ない”って、自分に言い聞かせるみたいに……階段降りて……マンションを出るときに、合鍵を側溝に捨てました……」

 彼女の声は、完全に消え入りそうだった。

「今朝、ニュースで……“会社員刺殺”って見て……やっぱり悠人だってわかって……どうしていいかわからなくて……でも放っておけなくて……もう鍵はないから、管理人さんに事情話して……部屋まで行って……」


 そこから先は、通報の記録と合致している。

 鑑識から合鍵がマンション近くの側溝から見つかったとの連絡も入った。


 夜代が、深く息を吐いた。

「殺すつもりは、なかったんだろうね」

「……はい……」

「でも、結果として彼は死んだ。そしてあなたは、その事実から目を背けて、包丁を持ち帰り、鍵をかけて逃げた。そこから先は、事故ではなく、あんた自身の選択だ」


 亜沙美は、もう何も言えなかった。


「……詳しいことは、これからゆっくり聞かせてもらう」

 柿原課長が立ち上がる。

 その目には、責めるだけではない、疲労と哀しみが混ざっていた。


 ◆


 取調室を出た廊下で、私は一度深く息を吐いた。

 足の裏が少し重い。

 事件は、一つひとつが誰かの人生を変えてしまう重さを持っていて、そこに立ち会った自分の足も、自分の意思で動かしている気がしなくなる瞬間がある。


 そんな私の横を、杖の音が通り過ぎた。

「……立っていられるかい」

 顔を上げると、夜代が少し先で振り返っていた。

「はい。大丈夫です」

 自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。

「さっきの現場で……夜代さんの右眼が視たのは、“反射光”と“視線の向き”だけでしたよね」

「そうだね」

「でも、それだけで“玄関からじゃない”ってわかるのは、大きいです。浴室の水滴、コップの乾き方、スマホの位置、シーツの皺……それと『残響』を組み合わせれば、“外から襲ってきた誰か”っていう可能性は、ほとんど消えます」

 私は自分の胸に手をあてた。


「特殊能力が全部を解決してるわけじゃない。でも、現場の違和感をちゃんと見ていれば、『残響』が“入口”を一つ増やしてくれる」

 夜代は少しだけ目を細めた。

「君は、最初からよく見ていたよ。コップ。スマホ。シーツ。浴室の水滴。僕の右眼が拾えるのは、最後の一瞬だけだ。君の目は……現場に残った全部の時間を拾える」

「……そんな大層なものじゃありません」

「充分だよ」

 夜代は、今度ははっきりと笑った。

「ただ――」

 そこで、彼はふと視線を落とした。

「僕は、あまり歩くのが得意じゃない」


 冗談めかした口調だった。

 けれど、その奥に、軽くないものが混じっているのを感じる。

「歩くことそのものが、過去から離れる行為だからね。置いてきた人がいると、前に足を出すのが……少し、怖くなる」


 そして、急に声を低く冗談めいた口調から一転して、

「……置いてきた人がいるからね」

 その一言は、驚くほど簡潔で、驚くほど重かった。


 柿原課長から聞いた話。

 銃撃事件、殉職した相棒。

 右足の傷と、心因性の歩行障害。

 右目が見せる、死の最期の瞬間。

 話で聞いた断片が、頭の中でつながっていく。


 私は一度目を閉じてから、言葉を選んだ。


「前に進むことって、忘れることじゃないと思います」


 夜代が、わずかに首を傾げた。


「置いてきた人がいるなら……その人の分まで、ちゃんと覚えて進んでいくことも、きっとできるはずです。その場に立ち止まることだけが“誠実”じゃないと思います」

 自分で言いながら、手のひらに汗を感じた。

 それでも、言葉を引っ込めたいとは思わなかった。


「もし、一歩だけでも進みたいと思ったときは……そのときは、私が隣にいます」


 夜代の左目が、少しだけ見開かれた。

「……ずいぶん頼もしいことを言うね、新米刑事くん」

「“歩かない探偵”の横に立つには、それくらい言わないと」


 自分で言っておいて、顔が熱くなる。

 でも、夜代は、ふっと目を細めた。


「じゃあさっそく、試してみようか」

 彼は杖に手を添え、いつもよりわずかにゆっくりと、一歩を踏み出した。

 その歩幅に合わせるように、私も隣に並んで歩く。


 杖をついた少し歪んだ影と、その横に重なる私の影。

 廊下の窓から差し込む光が、床に二人分の影を落とした。


 夜代の黒い眼帯の下で、なにかが蠢いた気がした。

「──次の現場は、たぶん、もっと厄介だな」と彼は言った。

 私は覚悟をして頷いた。

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