第6話

下僕になれ――


 少女がその言葉を理解するのには少し時間がかかった。


「下僕ですか……?」

「そうよ、それであなた名前は?」

「シエナです……」


 伯爵から逃げ出した以上、実家の男爵家に帰るぐらいしか他の選択肢はない。

 けれど、帰れば実家に迷惑をかける可能性が非常に高い。

 

 厳格な父はそれを許してはくれないだろうとシエナは思った。


 ――姉の劣化版。


 シエナはずっとそう言われて育ってきた。

 ダンスや宮廷作法を一通りこなし、誰からも愛される花のような華やかさを持つ姉。

 一方でシエナは地味で要領が悪く、伯爵家に行儀見習いとして出されてしまった。

 

「シエナね、あなたの雇い主は今日から私よ」

「わかりました、でも私、あまり手際がよくありませんよ……?」

「あら、正直なのね。生憎、私が求めているのは優秀なことじゃなくて血が不味いことなの」


 ネクレシアはそう言うと上体だけを起こした状態のシエナに手を差し出した。

 一瞬の逡巡の後、シエナの手がそっと重なった。


 神話の吸血鬼の下僕になるしか今は道がない。


 そんな後ろ向きな理由と――

 道案内と身の回りの世話をして貰い楽をしたいという打算。

 

 それらが噛み合い、ここに吸血鬼と人間の新たな主従が誕生した。


「それでシエナ、ちょっといいかしら?」

「なんでしょうか?」


 落ち着きを取り戻し、シエナはふと我に返る。


 ――そもそもネクレシアは、ここで何をしようとしているのか?

 人殺しに手を貸すような指示を出されるのでは……


 シエナはゴクリ、と唾を飲み込んだ。


「ここから一番近い町ってどこ?」


 その質問にヒュッと息を呑む。

 吸血鬼が一番好むのが人の血だ。

 

 屋敷で悠々自適な生活を送っていると口伝されてきたネクレシアが町に出る。


 その理由は――


「目的は血ですか……?」

「ええ、食の探究の旅に出ることにしたの」


 人間の血を食い漁ることを“食の探究”だと平然と言ってのけるネクレシア。

 それにシエナが絶句する。


 ――自分は選択を間違えたんじゃないか?


 早々にそんなことが脳裏に浮かぶ。


「それで、町は何処なの?まさかあなたまで方向が分からないとか言わないでしょうね?」


 案内を拒めば殺されるに違いない。

 でも、道に迷っている厄災を町へ案内するのも抵抗がある。


 吸血鬼と人間の価値観や倫理の違い。

 それが今、二人の間に大きな壁となり立ちはだかる。


「この近くにシルヴァレンという、冒険者の町があります」


 シエナは恐怖に抗えなかった。

 ウルフに襲われて一度は死を受け入れた。


 それを目の前の吸血鬼に助けて貰い、死ぬのが怖くなってしまったのだ。

 

「冒険者の町、ね……あまり食指が動かないけどそこに行きましょう」


 神よどうかお許し下さい――

 シエナは心の中で懺悔をし、ネクレシアの前を歩き出した。


 ――瞬間。


 ぐぅ〜という音がシエナの腹から響いた。


 命の危機を脱し、緊張が解けたのかお腹の虫が空腹を訴える。

 シエナは両手で腹を押さえ、頬を赤く染めて俯いた。


「人間って面倒ね」


 ネクレシアが感情の読めない声でぽつりと呟く。

 

 ――不興を買ってしまった。


 そう思ったシエナは顔を青くして恐る恐るネクレシアの方を伺う。


「早く町に行きたいけど、まずは食事にするわ」


 その言葉にシエナはホッと胸を撫で下ろす。

 シエナの安堵の仕草を横目に見てネクレシアは眉を顰める。


 ――この子、私のことを恐れているわね。

 

 そう思い、口を開いた。


「一応言っておくけど、私は一度自分の懐に入れた者には寛大なつもりよ」

「……はい」


 それでも、シエナの畏れを払拭するには至らない。

 ――捕食者と非捕食者。


 言葉だけならば何とでも言える。

 あとで平然と裏切られても、無力な人間には抵抗する術はない。

 シエナの視線がそう訴える。


 ――これは行動で示す必要があるわね。


「まず、私の庇護下に入った証として、あなたの食事は私が用意してあげるわ」

「え……?でも……」

「遠慮しないで」

「血は飲めませんよ……」


 千年生きているのだ。

 人間の主食が血ではないことぐらいは知っている。

 吸血鬼は血さえあれば生きられるが人間はそうではない。


 本当に面倒な生き物だ。

 魔獣でも狩れば、血と肉が同時に手に入ってお互いに腹を満たせるだろう。

 

 ネクレシアはそう考えた。

 

「肉でいいんでしょ?すぐ用意してあげる」


 自信たっぷりにそう告げるネクレシア。

 そして、右手を体の前にかざすと真紅の柄に鋭角の刃を備えた一本の槍が姿を表した。


 ネクレシアは宙に浮かぶその槍に手を伸ばし指先でそっと撫でる。


「行きなさい」


 その命を受けて、槍は微かに震えると風を裂くように空へと舞い上がった。

 

 ――しばらくして。


「ぶもぉぉぉぉおおおお!」


 森の奥から魔物の絶叫が響き渡る。

 空気が振動し、木々の枝葉がざわめき、鳥たちが一斉に羽ばたく。

 その光景をシエナはただ唖然と見上げる。


 やがて、森の奥から黒い影が浮かび上がり宙を漂いながらこちらへと戻ってきた。


「フォレストベア……」


 Aランクの冒険者パーティで討伐できるかどうかの相手。

 その巨体が先ほどの槍で貫かれた状態で宙を漂いながら運ばれてきた。


「さぁ、食べましょう」


 ネクレシアはそう言うと宙吊りのままのフォレストベアの首元に顔を寄せ――

 その分厚い毛皮に牙を突き立てた。

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