第12話 マルコ・サルバドル
マルコ・サルバドルがエリシアと初めて会ったのは、マルコが八歳、エリシアが五歳の時だった。
第一印象は実に不愉快――その一言に尽きた。
ついさっきまでエリシアは芝生の上にしゃがみこみ、小さな指先で名もなき草花を摘んでは、傍らに立つエドワードににこにこと嬉しそうに差し出していた。それなのにマルコと顔を合わせた途端、エリシアはエドワードの後ろに隠れ、顔から笑みが消えた。
笑顔とは、誰にでも向けて良いものではない。あの顔は、あの感情は――王家にも認められているサルバドル侯爵家のマルコにだけ許されるべきものだ。
マルコに見せることなく他人にあの笑顔を向けることが、どれほど“醜い”行為なのか、エリシアはまるで分かっていなかった。
誤った感情に囚われたエリシアを導いてやれるのは、自分だけしかいない――――マルコは確信していた。
ゆえにマルコは、エリシアのために色々な話をしてやった。
自分があまりにも成績優秀で、家庭教師を泣かせたこと。
どうしてもと泣いて縋る下級貴族の令息たちを、取り巻きにしてやったこと。
マルコの妹――アマステラが誰よりも美しく可憐であり、そんなアマステラの所作をエリシアは見習うべきだと助言したこともあった。
それなのに、エリシアはマルコに微笑むことはなかった。マルコがわざわざ時間を割いて屋敷を訪れ、話しかけてやっているというのに、エリシアはいつだって不快そうな顔をするばかりだった。
だから、ある日教えてやった。
「お前はおれの前でだけ笑ってろ。おれ以外の他人に笑うのも、泣くのもゆるさない」
エリシアの視線は、マルコの手に注がれていた。
それは恐怖か悲しみか――――どこか遠い場所を見つめるような、深い絶望にも似た虚ろな目をしていた。
薄く開いた唇の先に、微かに震える呼吸だけが残る。
マルコはその揺らぎを見逃さなかった。
むしろ、心の奥底から冷たい快感が這い上がるのを感じた。自分だけに見せる、この“壊れかけた”表情は、他の誰にも与えられない、マルコだけの特権だと確信した。
――これで、エリシアが自分以外に笑いかけることはないだろう。
その思いが、マルコの胸を満たしていった。
マルコの手には小さなウサギがいた。
もう、息はしていない。
エリシアの目の前で、その小さな首筋を強く括りあげた。
そしてエリシアは、誰に対しても笑わず、涙さえ見せなくなった。
自分の言葉を守り、余計な感情を捨て、あるべき形に近づいてきていた。
そのはずだった――――。
それが崩れたのは、エリシアの六歳の誕生日パーティーの時。
年頃の貴族の子どもたちが集められ、見栄えだけは整えられたエリシアを、マルコは“望ましい姿になった”と評価した。エスコート役として相応しいのは当然、自分だと考えていた。そうでなければ筋が通らないとすら思っていた。
だが、エスコート役に選ばれたのはエドワードだった。
自分が当然選ばれるべきはずだった。それなのに、そうならなかったことにマルコの胸に苛立ちが芽生えた。それは正当な怒りであり、マルコはそれをわからせるため、エリシアを鋭く見据えた。目が合った途端、エリシアの瞳が僅かに揺れた。
しばらくして、エリシアはその場からいなくなっていた。ほんの少し、アマステラと話している隙だった。
いなくなった理由はわからなかったが、エリシアの父やエドワードが探し回っている様子は見られなかったため、勝手に抜け出したわけではないのだろう。
――仕方ない。連れ戻してやるか。
マルコはエリシアを探すことにした。
大広間からリヴェール伯爵邸の庭園を何度も行き来し、廊下も隅々まで目を凝らしたが、エリシアはどこにも見当たらなかった。
廊下から階段を登り、二階へ向かおうとした。その時、小さな声が聞こえた気がした。
そうっと足音を忍ばせ、声がした方を見る。
マルコの視線が捕らえたのは、薄暗い踊り場の太い石柱の陰に寄り添うように並ぶ二つの小さな影。
そこにはいつものエリシアとは違う、穏やかな笑みを浮かべた少女がいた。その隣には、見知らぬ栗皮色の頭をした少年がいて、二人は楽しげに顔を合わせていた。
頭の奥が一瞬、真っ白になった。
胸の奥で何かがはじけるような音がして、感情が一気に噴き上がる。怒りか、期待を踏みにじられた痛みか、それとも――エリシアに対する失望か。
心臓の鼓動が耳の内側に鳴り響き、血が逆流するような感覚がして、言いようのない不快感が静かに全身を支配していく。
自分以外に笑みを浮かべるな、と約束したにも関わらず、エリシアは自分との約束を反故にした。なんという仕打ちだろう。正しくあることを教えてやったにも関わらず、恩を仇で返すような真似をする裏切者め。
そもそもこの男は誰なのか。この辺の下級貴族ならほとんどマルコの取り巻きだ。マルコに逆らえばどうなるのか、知らないはずはない。大方未来の嫁探しに、田舎から出てきた辺境の身の程を知らない名ばかりの貴族なのだろう。その証拠に、身なりは平民が背伸びをして着飾った程度で、洗練の欠片もない。よく見れば栗皮色の頭はまだらで、どこか田舎臭いみすぼらしさを感じる。よくそんな格好でエリシアに会おうなどと思ったものだ。厚かましいにも程がある。いや、もしかすると下級貴族ですらないのかもしれない。
誰のものに手を出したか、わからせてやらなければならない。
マルコは一歩、また一歩と歩みを進める。
「エリシア」
エリシアの瞳がマルコを捕らえた。
その顔に浮かべていた笑みは一瞬にして凍りつき、子ウサギを括ったときのような深い絶望が顔を覆った。まるでこれまでの安らぎが一瞬で崩れ落ちるように、肩が細かく揺れた。
「こんなところにいたのか」
マルコは笑みを浮かべた。
誰にでも失敗はある。マルコは狭量じゃあない。王家が認めるサルバドル侯爵家の跡取りなのだ。寛大でなければならない。
また、正せばいい。それなりの対応をもってすればいい。それだけのことだ。
そして――――エリシアは
転げ落ちたエリシアは泣くことも、喚き散らすこともしなかった。
一瞬顔を歪ませたが、マルコと目が合うとその顔は違うと気づいたらしい。きちんと正しい表情に戻していた。
冷たく、まるで感情という概念すら忘れてしまったかのようなその顔を見て、マルコは胸の奥底で静かな満足を覚えた。
――これでいい。ようやく、正しくなった。
他人の前で無様に笑うこともなく、感情を乱して恥を晒すこともない。
まるで完璧に仕上げられた人形のように、静かで、何者にも感情を渡さない令嬢となった。
ようやくマルコが望んだ通りに、形作られたのだ。
マルコはそれからもエリシアのもとを訪れ、手紙も送り続けた。だが、会うことも、返事が返ってくることもなかった。訪問のたびに、つり目の使用人が「エリシア様は、淑女教育のため多忙を極めており、面会のお時間を取ることができません」と言い、屋敷に入ることすら叶わなかった。
確かにエリシアと同い年のアマステラも淑女教育が始まっている。もっとも、アマステラはマルコと同じく優秀で、何事も卒なくこなしているようだが。
愚図で同じ過ちを繰り返してしまうエリシアには難しいことだろう、とマルコはしぶしぶ納得した。
それでも、エリシアは伯爵家の令嬢だ。義務としてどうしても参加せざるを得ないパーティーには、顔を見せていた。
エリシアはどんなときも、何があったとしても、何の表情も浮かべなかった。
噴水に落ちてびしょ濡れになっても、躓いた拍子にドレスが破れても、頭から派手に飲み物がかかっても――――ぴくりとも表情を動かさなかった。
その姿を見るたびに、胸の奥が愉悦で満ちていく。
そんなエリシアの変化を、アマステラは気味が悪いと感じたらしい。
「……まるで、鉄仮面のようね」
マルコはアマステラの呟きに、唇の端をゆっくりと引き上げた。
何と完璧な響きだろう。鉄仮面であれば、誰もエリシアに近づこうとする者はいないだろう。
エリシアも近づく者がいなければ、感情を他人に向けることなどしない。
エリシアの価値は、エリシア自身の意志で決まるものではない。
――エリシアの価値を決めるのは、自分だ。
マルコはその言葉を気に入り、アマステラと共に広めた。
顔が広いマルコにとって、「鉄仮面令嬢」の名を馴染ませるのは、何よりも簡単なことだった。
その名は瞬く間に社交界を包み込み、エリシアは孤立していった。
その後は何もかもが順調に過ぎていった。
あとはエリシアが自分で気づくだけだった。すべてはエリシアのためにやってきたことだと。エリシアが心を向けるべき相手は、マルコであると。それなのに――。
――これはどういうことだ?
マルコは手に持った新聞をぐしゃっと力一杯握り締めた。
新聞の一面には、見慣れた名がまるで胸に剣を突き立てるように並んでいた。
――〈完全無欠の公爵ハルトヴィヒ・アルベルトと、鉄仮面令嬢エリシア・リヴェール、婚約を発表〉。
マルコは思わず目を疑った。
いや、見間違えではない。何度読み返しても、そこには確かに“鉄仮面令嬢エリシア・リヴェール”の名があった。
あの舞踏会の夜、マルコは求婚劇目の当たりにした。だからわかっている。エリシアは返事もせずに逃げ出したではないか。
マルコはあの後すぐにエリシアのもとへ駆けつけた。だが、夜も遅かったからか門の中にすら入ることは許されなかった。以来、何通も手紙を送ったが、返事は一度たりとも返ってこなかった。
――にもかかわらず、だ。
エリシアは何も言わず、まるでマルコの存在などなかったかのように、別の男と婚約した。そんな穢れた契約を、自分以外の誰かとするなんて許されざる背信行為だ。
話を進めたリヴェール家の一族もまた、見過ごせない。
アルベルト公爵家とサルバドル侯爵家を天秤にかけ、爵位が高い方を選んだだけに違いない。その浅ましさが、腹の底から忌まわしい。
マルコは潰れた新聞を思い切り壁に投げつけた。
控えていた侍女がびくりと肩を揺らしたが、鋭い目で彼女を睨みつける。
「今すぐ馬車を出すよう、執事に伝えろ!」
侍女は怯えながらも小さく頷くと、急いで部屋を出て行った。
サルバドル侯爵家の紋章の入った馬車に乗り込んだマルコは、窓の外に流れる景色など見もせず、ただ目的地だけを見据えていた。
――また、わからせてやらなければならない。
子ウサギでは効果がなかった。エリシアが大怪我を負っただけでは無意味だった。ならば今度は――――。
マルコは嗜虐的な笑みを浮かべた。
やがて重厚な鉄門が視界に入る。
御者が合図を送り、門番が軋む門をゆっくりと開けた。
馬車は静かにその門をくぐり抜けていった。
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