第11話 ハルトヴィヒとティータイム
「こちらは書庫です」
「こちらは庭園です」
「こちらは温室です」
ベルタがテキパキと案内してくれる。
さすがは歴史あるアルベルト公爵邸だ。広いだけでなく、内装にもこだわりを感じる。
静かな回廊には、深みのある深紅の絨毯がまっすぐに伸び、両脇には金の燭台が柔らかく炎を揺らめかせていた。高い石の天井が音を吸い込み、静寂の中に格式と温もりを共存させていた。
書庫には、大きな窓から春の日差しが柔らかく差し込み、整然と並ぶ書物の背表紙を照らしていた。
古い羊皮紙の装丁から、最新の書籍まで、多種多様な本が重厚な書棚にぎっしりと詰め込まれている。壁際の窓辺には、コンパクトながらも居心地の良い読書スペースが設けられ、小さなクッションを敷いた長椅子が静かに佇んでいた。
庭園には、薄紫のライラックと空色に近いネモフィラが風にそよぎ、白く美しいガゼボが静かに佇んでいた。
ライラックの甘い香りが空気を満たし、足元にはネモフィラが鮮やかな絨毯のように広がっている。
白いガゼボの中には、優雅な曲線を描く木製のベンチが置かれており、そこに腰かければ色鮮やかな花々を眺めながらゆったりと過ごすことができそうだ。
温室には、陽光をたっぷりと受けたガラスの屋根の下に、みずみずしい緑と花の香りがやさしく漂っていた。ガラスと白い石でできた建物は、暖かな陽射しをたっぷりと取り込み、内部は緑と花の香りに満ちていた。
色とりどりの花が静かに咲き誇り、特に一角には本でしか見たことのない異国の草花が並んでいる。小さな噴水が中央にあり、水のささやきが心地いい。
まるで小さな楽園のようだとエリシアは思った。
「他にも、庭園はあるのですが、ご興味があれば坊ちゃまに仰ってみてください」
ベルタはそう言うと、屋敷のある部屋の前で足を止めた。
「ベルタです。エリシア様をお連れしました」
最後に案内されたのは、ハルトヴィヒの執務室だった。
別に入らなくてもよかったのだが、エリシアが言うよりも先にベルタが扉を叩いてしまった。
「やあ、エリシア」
「……ごきげんよう」
窓を背にして座っているハルトヴィヒは、エリシアの目を見て微笑みを浮かべた。
ハルトヴィヒの執務机の上、エリシアから見て左側には書類が几帳面に積み重なっているが、右側はそれほど多くはない。
机の左右には壁一面を覆うようにずらりと並んだ書棚が並んでおり、正面には客用のテーブルと長椅子が置いてある。
「ここくらい僕が案内したかったなあ……」
ハルトヴィヒはまだ言っている。
別に屋敷の案内など誰がしたとて同じだろう、とエリシアは思う。
「ベルタが案内してくれたので大丈夫です。では、失礼いたします」
山積みの書類も見える。何しろ今日、屋敷の案内ができなかったのはハルトヴィヒが多忙だからだ。ゆえに、早々に辞そうと思ったのだが――。
「え?」
「……何でしょうか?」
「もう行くの? 早くない?」
「お仕事が溜まっていらっしゃると聞きましたので、お邪魔しない内に辞そうかと」
「手厳しい……」
見るからにしょんぼりとする。ハルトヴィヒに獣の耳が生えていたのなら、間違いなく垂れ下がっているだろう。ハルトヴィヒが愛玩動物だったなら、ちょっとだけ、ほんの少しだけ、撫でてみたい気もする。
すると、静観していたベルタが口を開いた。
「エリシア様、そろそろお疲れなのではありませんか?」
「問題ないけれど……?」
確かに移動ばかりだったが、そこまで疲れてはいない。
けれど、ベルタの瞳の奥に鋭いものを感じた。
「いいえ! ご自分に自覚はなくともお疲れのようなので、少し休憩されたほうがいいです。坊ちゃまも根を詰めては効率が悪くなりますし、お時間もちょうどいいので、ご一緒に休憩されてはいかがですか?」
「坊ちゃまはやめろ……。だが、そうだな。エリシアさえ良ければ、ここで休憩しないか?」
ベルタの提案に、ハルトヴィヒが乗ってきた。
なんだかベルタに謀られた気がする。助けを求めるようにチェルシーを見たものの、また含みのあるにやにやした顔をしていた。シェリーがいれば間違いなく叱られていただろう。
「……わかりました」
エリシアは諦めて、ここで休憩することにした。
*
やわらかな香りを湯気にのせて、金の縁取りが施された磁器のティーカップが静かに机の上に置かれる。紅茶をひと口含んだ公爵が、カップを手にしながらふと視線を上げた。
「――それで。エリシアが気に入った場所はあった?」
ハルトヴィヒが紅茶を片手に訊ねてきた。
「書庫と庭園でしょうか」
部屋の窓から見た時も思ったが、手入れの行き届いた美しい庭園とそこにあったガゼボが忘れられない。
木々が揺れ、爽やかな風が吹き、花が舞う。甘い香りに包まれながら、あそこでお気に入りの本を読めたなら……。
「そうだと思ったよ。エリシアなら好きに出入りしてくれて構わないよ。書庫から本を持ってきて、庭園のガゼボで読書も良いだろう」
ハルトヴィヒはまた、エリシアの心を読んだかのように言った。
エリシアは目を見開きかけて、それを隠すようにそっと手元のカップを持ち上げた。紅茶は香り高く、ひと口ふくむと、爽やかな柑橘の香りが舌の奥に広がる。
「……そう、ですね」
何を考えているかわからないのがエリシアの定評なのに、どうしてハルトヴィヒはわかるのだろう。
なんだか何もかもが見透かされているようで、話を変えるように無難な質問をなげかける。
「お仕事は……終わりそうなのですか?」
「あぁ、おかげさまでね。最近急ぎの案件が多くて、書類仕事を後回しにしてたから……。でもあと少しで終わりそうだよ」
そう言うと、ハルトヴィヒは少ない方の書類を指さした。
なるほど。山積みの書類はもう済んだものだったらしい。さすがは完全無欠の公爵だ。仕事が早い。エリシアは素直に感心してしまう。
「そうそう。君を連れていきたい場所があるんだ」
「そうですか。ですが今日のように、仕事を後回しにしようとはしないでください」
仕事が滞って困るのはハルトヴィヒだ。
そう伝えたかったのだが、素っ気ない言い方になってしまう。
「……エリシアはやっぱり優しいな」
今の言い方のどこに優しさがあっただろうか。思わず目を見開いてしまう。
ハルトヴィヒは完全無欠と持て囃されているが、エリシアの印象はここ数日でガラリと変わった。
”眉目秀麗で優秀な変人”である。
「じゃあ、
「そうしてください」
含みのある言い方に引っかかりを覚えたが、きっと一段落したらという意味だろう。
エリシアは再びカップを手に取り、口を付けた。傾けられた白磁の器の内側には、わずかに紅茶の底が見えていた。
*
それからの日々は、エリシアにとって戸惑いの連続だった。
ハルトヴィヒはあの日から欠かすことなく、毎朝小さな花束をプレゼントしてくれた。
聞けば、ハルトヴィヒ自ら選んでいるのだという。早朝から仕事で外出することもあったが、そんな時は必ず侍女に花の種類を託して行っていたらしい。
それから、多忙を極めているにも関わらず、夕食だけは共に取ることが多かった。
少しでも時間ができればエリシアに会いにくるし、顔を合わせれば毎回のように、「美しい」だの「かわいい」だの「綺麗」だのと、まるで息をするように褒めてくれた。
最初の頃こそ、美辞麗句にすぎないと思っていた。
貴族の男が、婚約者に向けて義務で述べる、よくある社交辞令。そう思えば、すぐに忘れられるはずだった。
けれど、同じ言葉が繰り返されるたび、エリシアの中に何かが静かに積もっていった。
慣れなくて、むず痒いような、そんな日々が続いたある日のことだった。
エリシアに会うべく、アルベルト公爵家の門をくぐった者がいた。
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