かくして一歩近づいた
黒瀬さんはその後迎えに来たお母さんの運転する車に乗り込み、山道を下って行った。ご丁寧にわざわざ車から降りて挨拶に来てくれたお母さんは彼女にそっくりで、そのまま大人にしたようなきれいな人だった。違うとすれば、娘の「黒瀬さん」の方が少しばかりアクティブな印象を受けるくらいだろうか。
去り際、わざわざ窓を開けて手を振ってくれた黒瀬さんは、とてもとても、可愛かった。おっかなびっくりに振り返したけれど、果たして遠目に気づいてくれたかどうかなんて具合で。
彼女は不安で怖くて、まったくもって不本意な状況だったんだから、こういう言い方はよくないんだろうけど――夢のような時間だった。
夜の天下で二人きり、焚火の前で隣に座った黒瀬さんが、僕が淹れたコーヒーを飲んでいる。「おいしい」と言って笑ってくれた。
彼女がこっちに越してきて一年と少し、こんなにも長くしっかり話したのは初めてだ。誰にでも気さくで朗らかな彼女は、その印象通りの爽やかなさっぱりとした人だった。表情がころころ変わって、それにつられてこっちの感情までも動かされているような。
空になった紙コップをゴミ袋にしまい込み、金串を洗って片付けて、彼女がそこにいた痕跡はあっという間になくなってしまった。でも、不思議と今日はしばらく眠れそうにない。
彼女の座っていたローチェアに座る時、「この為に貸したわけじゃない」なんて無意味な言い訳を頭に浮かべたりして。片付けの間にすっかり冷めきったそれも、ブランケットも、僕の物なのにどうしてか使うのに罪悪感を覚えた。
僕は思い出したようにスマホを取り出し、義母さんにメッセージを送った。「黒瀬さん帰ったよ」というそれに、親指を立てた「サムズアップ」だけで応える義母さんに笑ってしまう。
諸々の道具と焚火を片付け、ランタンを持ってテントに入る。そう広くはないテントだけど、一人で寝るのに不足はない。折り畳みのマットレスの上に敷いた寝袋に包まり、自然の音に耳を澄ませる。
だっていうのに、黒瀬さんのことが頭から離れない。これは相当に重症だなぁ、なんて自嘲してみるけれど、それくらいに強烈なイベントだったんだ。それこそ、色んな意味で。
多少の繋がりはあっても、それでも僕らは縁遠い関係だった。キャラクター的には、それこそ交わることのないタイプだ。
――だから、これっきりかもな、なんて悲観も頭を過ぎる。
それでちょっと落ち込んで、それでも彼女を助けられたことに安堵して。そうしてネガポジがぐるぐると頭を掻きまわして……そうしているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
キャンプから帰った翌日はバイトに明け暮れた。
何しろゴールデンウィーク、訪れた観光客でカフェはごった返しの様相だ。八時間近く、ほとんどフルタイムっていうくらいに働いた。これを連休と呼んでいいのか、なんて疑問も頭に浮かんだりはしたけれど。
黒瀬さん親子がお礼にと家を訪れるイベントもあった……らしいけど、バイトに出ていた僕は遭遇することなく通り過ぎた。もらったお菓子はおいしく頂いた。コーヒーによく合う、テレビでよく見る人気店のフィナンシェだ。バターが良く香る、ホロホロと口の中でほどける食感が心地良い。
お礼すべきかな、なんて言ったら義母さんに笑われた。お礼にお礼してどうするの、ってさ。
そんなわけで今回の連休もいつもと大差ない平凡な日々でした、ということで。ゴールデンウィーク明けの火曜日、僕はいつもと変わらないまま学校に向かった。
あの日のことはやっぱり夢で、僕と黒瀬さんはやっぱり交わることなく――
なんてことを思いながら読書にふける昼休み。
ところがこの日は様子が違った。肩をトントンと叩かれ振り返ると、身体ごと僕の方に向いた黒瀬さんが、叩いたであろう手をそのままに「や」と爽やかに言うのだ。女子出席番号二番、ぐるみの席で食事をしていた彼女は、どうやらそれが終わるなり僕に声をかけてきたらしい。
やばい。本を広げつつも彼女らの会話に耳を傾けていたのがバレたのかな。背を向けてるからと油断してた。ビクビクと怯えながら身体の向きを変える僕に、椅子の背に腕を乗せた彼女が微笑む。教室中を駆け回った白い陽が、まるでそこが終点かのようにその頬を染めた。
見慣れた紺のセーラー服。きちっと着こなす黒瀬さんは、それだけで不思議なくらい様になっていて。
見惚れる僕を咎めるでもなく、黒瀬さんは小さく口を開く。
「何読んでるの?」
「え?」
「それ」
指差す先、僕の読んでいる本。無地のブックカバーに覆われたそれは、なるほど確かに一見してわからない。だから僕は手に取って中身を提示してみせた。
中表紙に書かれているタイトルはこうだ――『世界のコーヒー図鑑』。
「……おぉ」
驚いたような、感心したような、あるいは呆れたような。なんとも複雑な表情の黒瀬さんは、その本を受け取るとページをめくった。ぱらり、ぱらり、読めているのか怪しい速度で、そのまま数ページ。
何しろ僕はコーヒーが好きで、コーヒーに関する資格もいくつか持っていたりする。まだまだ履歴書に書けます、っていうほどのものではないけれど、それでもそんじょそこらのコーヒー好きには負けない自信がある。
目の前の彼女もまたコーヒー好き……とはいうものの、それはもっぱら飲む専門で。
「めっちゃあるんだね、コーヒー豆」
「それは、まぁ」
「セルジュのブレンドは?」
「えっと……企業秘密?」
「だよねー」
相槌とも言えない相槌。会話とも言えない会話。それでもどうしてか黒瀬さんは楽しそうで、だから僕も頬が緩んでしまう。
ぱたんと図鑑を閉じた彼女は、じぃとまっすぐに僕を見た。思わず目を逸らす僕を、けれど彼女は笑ったりしない。
「お礼しに行ったけど、いなかったから」
「ああ……バイトに」
「うん、聞いた。朝から夕方まで」
「うん。……だからフィナンシェ、ありがたかった」
「やっぱ疲れたら甘いものだよねー。
「へー。確かに、おいしかった」
会話は楽しい。憧れの人と、まるで対等の日常会話。弾む胸が鼓動になって現れるくらいの、ころころと移り変わる心情が泳ぐ視線に現れるくらいの。
でも、わからない。
日常会話をするのに目的も何もない、なんてのはわかってるつもりだ。でも、彼女の目的がわからない。
助けを求めるように視線をさまよわせるものの、学校では基本ぼっちの僕である。自然、その目は近しい人へと吸い込まれるように向かっていく。
その視線を受けた二人の女子生徒、あやとぐるみ。黒瀬さんが僕に話しかけてきてからこちら、身体と視線を僕の方に向けていた二人。片やため息混じりに、片やほんわかと温かな笑顔で。
あや――綾瀬
ぐるみ――
二人とも疎遠になって久しい。けれど大きく変わってはいないことを僕は知っている。
「ギブだってよ」
「えー。楽しくおしゃべりしてたのになー」
「唐突過ぎんだろ。お前、人の目見過ぎで怖いんだよ」
「目を見て話すの、ふつーじゃない?」
「よかったな
「違うじゃん。よくないなあーや、そういうのよくないなー」
まったくもって事実だから別に気にしてはいないんだけど……いや、気にするべきなのはわかってる。
でもそこじゃなく、単純に驚いてしまった。
「……あや」
「まー、いい機会だろ」
「そう、だね」
あやとは仲が悪いわけでも良いわけでもない。必要最低限のやり取りはするし、食事だって一緒にとっている。けれどやっぱり仲良くもない僕らは、たとえ二人きりの食事であっても会話すらなく、目一つ合わない。
それがここ数年続いていた。だから驚いてしまったんだ。思ってたより、普通で。
位置としてはいつもと変わりないのに、そうして女の子三人に囲まれた僕は、「あれ、状況悪くなってないか」とつい周りと見渡してしまう。当然ながらクラスの注目を
けれどそんな僕に構うことなく会話は続く。状況は進む。
「そういや沙織、どうなったか教えてやれよ」
「あ、そっか。あのね、私を置き去りにしたの、テニス部のOBでね。私の荷物部屋に持ち帰ってたみたいで、色々話し合った結果示談ということになりました」
ちらりと黒瀬さんの顔を窺えば、少なくとも悲しそう・辛そうなんて雰囲気じゃないように思える。視線を戻し、ぽつりと呟く。どうしてだろう、僕の声を周りに聞かれたくなかった。
「そっか。よかった……じゃ、ないのか」
「ううん、まー、よかったでいいと思うよ。私物全部買い替えてもお釣りがくるくらいはもらえるっぽいし」
勇気を出して顔を上げれば、優しく微笑む黒瀬さんの顔。慌てて落ちそうになる頭を、あやの小さな右手が止めた。
「ビビりが。顔見ろ顔」
「顔見ろー」
「見ろぉ」
とても仲の良い三人組は、いじりがいのある
この三人組は、そこに黒瀬さんがいるってだけでもそうなのだから、そりゃあもう学内でも有名なトリオだ。正統派美人の黒瀬さん、幼い顔立ちで可愛らしいのにヤンキーファッションなあや、おっとりと包容力に溢れるぐるみ。整った容姿にテニスの実力、そしてバランスの取れたキャラクター。
とにかく目を引く存在なのは間違いない。けれどだからこそ、真正面から向き合って目を合わせるというのは、実にハードルが高いことなのだ。
あやの言う通りだ。黒瀬さんは、こっちがたじろぐくらいに真っ直ぐに、そして強い視線で僕を見る。光を受けるととろりと濡れたように輝いているのがまた、きれいで。
「……なーんか、目元が似てるなー」
「あ、さーちゃん気づいたぁ」
「久々だな、言われるの」
そんな風に僕を見るから、やっぱり細かいことにも気づくんだろうか。
僕とあやは実の姉弟ではないけれど、かといって全く血が繋がっていないわけじゃない。元々僕らは従姉弟同士で、母親同士が姉妹だった。だからどこかしら母親から受け継いだものが一緒なら、そこが似通うのも当たり前のこと。
勝気な釣り目、けれどきつくは見えないのは円らな瞳のおかげだろう。僕のそれは彼女のように大きくはないし強い印象もないけれど。
そこに親近感を覚えたのか、黒瀬さんの瞳は逸れることなく楽しげに歪む。
「きれいな瞳。あーやと一緒の、アンバーだ」
「そうなんだよな。こいつぼっち過ぎて誰も気づかねーでやんの」
「あーや、やめなよ」
「ぐるみ、その気遣いが一番つらい」
「え、ごめんね」
ぼっち過ぎる僕でも、この二人にはある程度遠慮しない物言いもできる。目を見て話すことも。
この瞳は、実は自分でも結構気に入っている。珍しいのもあるけれど、やっぱりお母さんから受け継いだものの一つでもあるから。
ともあれ黒瀬さんにはもう一つ気づいたことがあるようだ。ぐるみの方を見て、ちょっとだけ不満そうに。
「ぐるみ呼び私だけかと思ってた。あーやは「ぬい」だし」
「あ、最初にそれ呼び始めたのがりょーちゃんでね」
「二人で呼んだ時ぬいぐるみだったらウケるよなって、保育園くらいだったか?」
「確か。ぐるみ、嫌がるどころか喜んでたし」
「可愛いから。わたし、結構自分の名前、好きだよ?」
ぐるみとはセルジュで少し言葉を交わしたりするけれど、それでもやっぱり「交流がある」とは言い難い。はっきり言えば、もう交わることのない場所に行ってしまった――なんて、思っていたのはたぶん僕だけ。
ぐるみは相変わらず優しい笑顔で僕を見るし、あやだって思ったよりも普通に接してくれる。何より黒瀬さんが、僕らの幼馴染トークを受けて興味津々を体現したような前のめりで僕を見るから。
注目を浴びるのは慣れないし、何なら少し距離を置きたい気持ちもやっぱりあるけれど。
視線を落とすのを許してくれないのなら、せめて見慣れた姿で心を落ち着けよう。そう思って顔を向けた先のあやは、そんな僕の膝をぐいぐいと押した。足で。
こっち見んな――と、言葉よりもはっきりと聞こえた。
「足癖悪いな」
「うるせぇ。カフェやりたいってヤツが人怖がってるから矯正してやってんだよ」
「……あーやも知ってんじゃん」
「むしろウチが知らなきゃおかしいだろがよ。てかなんでお前が知ってんだ」
「聞いたの。そっか、でもそうだよね」
あやの言葉を受けた黒瀬さんの、その思案顔もわずかばかり。その唇が楽しげに、実に面白そうに弧を描くのを見て、何となく嫌な予感に襲われる。
キャンプの時と今この時、ほんの少しではあるけれど、黒瀬さんの人となりが少しだけわかった。
色んな意味で人をよく見ている。感情表現がとても豊かだ。物怖じせず、興味の対象に向けて積極的で――
行動力に溢れている。
「ねねね、私、綾人君に連れてって欲しいところあるんだよね」
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