「憧れ」の現状





 ローチェアに座った黒瀬さんの隣に、僕はパンツが汚れるのも気にせずに座り込んだ。元々汚れてもいいアウトドア用のパンツだからと説明すれば、申し訳なさそうにしながらもなんとか納得してくれた。


 ブランケットから小さく手を出し、紙コップに淹れられたコーヒーをゆっくりとすする。


 マグカップをなくした時の為に、紙コップをいくつか持ってくるようにしていた自分を褒めてやりたい。おかげで今、憧れの黒瀬さんのこの表情・・・・を引き出せた。


 ほっとしたような、隙間からこぼれるような小さな笑顔。爽やかな彼女の、穏やかな一面。


「おいしい」

「よかった」

「でもこれ……」


 日常を取り戻したような顔で、まじまじと紙コップの中を見つめる黒瀬さん。言いたいことは、なんとなくわかった。ブレンドだのラテだの、他にも色々と淹れ方はあるものの、喫茶セルジュでは、コーヒーを豆の形では販売していない。


「バイト特権?」

「まぁ、そんな感じ」

「いいなぁ。私もやろっかな」

「その為だけに?」

「やってみたいのもあるし、お金だって欲しいよ?」

「……とはいえ、今はちょっと難しいかも」

「そっかぁ」


 残念そうなのは少しだけ。


 セルジュは本来、店長夫婦だけで十分回る。そもそも僕がいない間はそうしてるんだから当たり前だ。そこをなんとかと無理を言って雇ってもらってるわけだけど、それにだって色々と複雑な事情があってのこと。


 それもあまり大っぴらに話すことでもない。口ごもる僕に気を悪くするでもなく、黒瀬さんは紙コップを再び口元にやった。二口、三口とコーヒーを飲み、その度にため息をこぼす彼女に、思わず口元が緩むのを自覚する。


 けれどその緩みも、すぐに驚きにかき消えた。


 突然。そう、本当に突然だった。さっきまで普通に、笑顔まで交えて話していたというのに。


 眉をひそめて、口元を震わせて、やがて雫が一つ、カップの中に波紋を広げた。


「うっ……うぅ」


 ああ――ぎゅぅ、と音のしそうなほどに胸が、心臓が引き絞られるのを感じた。それくらいに切ない、悲痛な声だ。


 どうしてか? 決まってる。暗くて寒くて、不安で、怖くて仕方がなかったんだ。疑問に思うまでもないじゃないか。当然のことだ。たった一人夜の山中に放り出されて、スマホの一つも持っていなかった。それが彼女の現状だ。


 灯りを見つけた。人を見つけた。知り合いで、ブランケットとコーヒーと、連絡手段も手に入れた。


 気が抜ければ緊張が抜けて、今まで堪えていたものが噴き出すのもわかる。当たり前のことじゃないか。


 どれくらいそうしていただろう。時折涙をこらえるようにコーヒーを飲むけれど、それでもなかなか止まってくれない。僕の方を気にしているみたいだったから、僕はあえて視線を逸らして鞄を漁り、中から一つの小袋を取り出した。


 どうしていいかわからないから、これは言うならただの苦し紛れ。


 小袋から取り出す、小さな白いふわふわ。マシュマロを金串に通し、僕は焚き火のそばにそれをかざした。泣いている黒瀬さんの興味は、どうやらそっちに移ってくれたみたいだ。相変わらずぐずぐずと鼻を鳴らしてはいるけれど、少しだけきょとんとした顔でそれを見ている。


「……えっと、焼きマシュマロ……知ってる?」


 何言ってんだろ、僕。


「ん」


 震える声で返事をする彼女に、僕はこんがり焼けたそれを差し出した。


 串ごと受け取って、と差し出したそれに、彼女は迷わず口を開いて顔を近づけた。ぎょっとする僕に構うことなく、一口にそれを頬張ると、可愛らしくむぐむぐと口を動かし、頬を揺らす。


「あまい」

「……だよね」


 そりゃそうだ、マシュマロなんだから。でもやっぱり焼きマシュマロとなると少し違って、外はカリっと中はトロっと、食感もさることながら、甘さが際立つ。それは少し好き嫌いが分かれるほどで、どうやら黒瀬さんはそれを気に入ってくれたらしい。


 好きなコーヒーも、マシュマロの好みも同じ。ず、と鼻をすする彼女は、どうやら少し落ち着いてくれたようだった。頬が緩む。


「私も、やってみたい」

「じゃあ、はい」


 マシュマロを刺した金串を手渡すと、見様見真似に焚火にかざす。


 慣れないと溶かして落とすことも多いけれど、一度見ればそんなに難しいものでもない。こんがりときつね色に仕上がったマシュマロにご満悦の黒瀬さんは、ためらうことなくそれにかじりついた。


 何より熱々なのが、この時期嬉しいんだよね。


 コーヒーを含んで甘さを飲み下した彼女は、差し出された僕の手に、空になった紙コップと金串を重ねて載せた。


 折り畳みのローテーブルにそれを置いて、僕らは焚き火に向き直る。


「ごめんね、びっくりさせちゃった」

「しょうがない」

「うん。あ、電話だけ」

「あ、そっか」


 ポケットから出したスマホのロックを解除して、黒瀬さんに手渡す。連絡先に登録された人数はそれはもう少ないけれど、だからこそ「母さん・・・」の表示はすぐに見つかったらしい。


 義母さん、びっくりしないかな。今更ながら僕からかけるべきだったかなと思ったけれど、それこそ本当に今更だ。


 話す声を努めて聞かないように焚火を眺め、それでも耳に入る言葉に何となく意識が向いてしまう。


 置き去りにされた。綾人くん――僕に保護されてスマホを借りている。親に連絡を繋げて欲しい。予想を出ない話だけど、それでも、それを募る黒瀬さんの声は切実だ。


 そして通話がひと段落すると、スマホがそっと差し出された。受け取り、一言二言義母さんと言葉を交わし通話を切る。


「ありがとね。お母さん……あ、私のね? が、迎えに来てくれるって」

「そっか。よかった」

「うん。ほんと、やばかった」


 これでようやく、本当の意味で安心したようだ。最初の頃よりずいぶん表情が和らいだ。


「って言っても、もう少し……一キロ半くらい歩けば、ちゃんとしたキャンプ場もあるんだけどね。管理棟もあるし」

「うーん……まぁ、でも、ここに綾人くんいてくれてよかったよ。この状況で一キロ半は割とつらいかも」

「そっか。そうだよね」

「そうだよ」


 何しろ暗いし寒いし、そもそもここがどこなのかもわかってないみたいだった。目の前に灯りがあれば飛びつきたくなるのが人の性だ。だから僕も、ここにいてよかったなぁと思う。


「セルジュのコーヒー、タダで飲めちゃったし」

「あはは。まぁ、ちっちゃい紙コップだけどね」

「でもおいしーね、キャンプでコーヒー。来たくなるのわかるなー」

「ね。まぁ、セルジュならいつでも歓迎だから」

「……ここには来ちゃダメなの?」

「え」

「なんて、じょーだん、じょーだん」

「あぁ……びっくりした」


 心臓に悪い冗談はちょっと控えてもらいたい。


 でも、そんな空想を浮かべる時も、たまにはあったりなかったり。そりゃ楽しいだろうな、憧れの人とキャンプだなんて。泊まるまではいかないまでも、こうして焚火を囲んで一緒にコーヒーを飲んで。


 そう考えると、なんだかこの現状もそれに近しいものがあって、妙にこう、意識してしまう。


 だから、心臓に悪い冗談は控えてもらえるとありがたい。


 目の前に黒瀬さんがいるだけで、五感で味わう僕の「好物たち」が、全部意識から外れてしまうんだ。彼女の移り変わる表情に、爽やかな声色に、語られる言葉に、目と耳を奪われる。


「キャンプって、難しい?」

「どうだろ。初期費用は、まぁかかるけど」

「だよねー。バイトもしたことないし、貯金でなんとかなるかなー」

「……え、やるの?」

「興味出てきたよね。たのしそー」


 だからこそ、彼女と話した印象は、「想像と少し違う」というものだった。もちろんそれでがっかりしたとかいうことはないし、そもそも評価するほど僕は彼女を知らない。


 あるいは知らないからこそ、なんだろうか。全国大会に出場するほどの実力を持ち、部活中もあんなに楽しそうにプレイしている黒瀬さんは、もっとずっと、テニスに一筋なものと思っていたから。


「ちなみに綾人くんの道具だと、総額は?」

「えっと……十万ちょい、だったような?」

「うそぉ。え、うそぉ?」

「なんで二回?」


 張られたテントやその周囲の道具を見渡し、驚いた表情の黒瀬さん。可愛い。


 思っていたよりずっとフランクに接してくれるのは、ちょっと嬉しい。いやもちろん、彼女が元来そういう話し方なのは知ってるけれど、それこそ僕なんて「親友の弟」くらいのものだ。親友と話している時とはまるで違うものと思っていた。


 誰にでもそうなら、そこにきっと特別な意味はないんだろうけど。


「まぁ、でも、買えなくはない?」

「親にびっくりされない?」

「される! けど、反対はされないかなー」


 それにしても、思った以上にキャンプに対して前のめりな姿にちょっとびっくりしてしまう。


 キャンプってのは、まぁ時間も金もそれなりに使う。初期費用が高い分一回一回は大した額にはならない、なんてのは、経済的に余裕のある大人のお話で。キャンプ場の利用料に必要なら食材費、薪代やら炭代やら、学生にはそれなりに金額がかさむものである。


 何よりも時間。準備も含めれば、やろうと決めて丸々二日は最低限だ。となれば当然――


「……部活は?」

「あー。やっぱ聞いちゃう?」

「いや、そりゃあ、まぁ」

「なんてったって、エースだかんね」

「うん、うん」


 どや顔も可愛い。ずるいと思う。


「もっとテニスに……なんていうか、一途なのかなと」

「うーん」


 それからしばらく黙ってしまった黒瀬さんは、おもむろに空を見上げる。森の中、口を開いたようにぽっかりと開かれたこの場所から見える夜空は、大きな天窓のようで。さわさわと葉擦れが鳴ると、なんとはなしにため息をつきたくなる。


 そうして彼女に倣った僕の視界の外、ぽつりと聞こえた。


「私もそう思ってた」


 その声色にはっとして、僕は黒瀬さんに向き直る。けれど彼女は変わらず空を眺めていて、表情はどこか陶然としたまま変わらない。


 沈黙に耐えかねてなのか、そんな彼女を見ていられなかったからなのか。理由は自分でも判然としないけれど、僕は空になった紙コップを再び手に取り、彼女に尋ねた。


「……コーヒーおかわり、いる?」

「お? いいの? いる!」


 その変わり身の早さときたら。さっきのは気のせいだったかな、空耳だったかな――そんな風にさえ思わせる。


 とはいえ花咲くような快活な笑顔に、それ以上何も聞けるはずもない。大人しくコーヒーを淹れ、にこにこと何が楽しいのか、それを眺める黒瀬さんに紙コップを手渡した。


 焚火の方へ向き直り、風にさらさらとなびく髪を気にするでもなく、ゆっくりとそれを傾ける。目を閉じ、それだけに集中するように。


 風の音、焚火の音、夜の静寂の中、黒瀬さんの吐息がやけに大きく聞こえた。


「やっぱりおいしいね、セルジュのコーヒー」

「……ありがとう」

「こっちのセリフだよー。前の街でもカフェは色々行ったけど、三本の指には入るなー」

「それはさすがに」

「いやいや、まー好みはあるかもだけど? でも、やっぱり私が淹れてもこうはならないもんなぁ」

「そりゃ、経験の違いっていうか」

「バイト、なんかすごい入ってるみたいだもんね。何か買いたいものでもあるのかな?」


 前の街、というように、黒瀬さんは高校入学時にこの町に越してきた。成績もテニスもその時から優秀で、あっという間に校内の有名人になった彼女。だからこそ僕とは交わることのない人種だろうと思っていた。


 同じ部ということもあり、あやとは親友と呼べるほど仲良くなったけれど。それ・・は僕の事情であってあやのじゃない。そして僕が話していないことを、あやはわざわざ話したりしない。


 だから、知らない。


「……あれ、なんか言いにくいこと?」

「ああ、ううん、じゃなくて」


 僕自身もう「吹っ切れた」と断言できる。でも、周囲の空気を重くしてしまう。そういう意味では確かに「言いにくいこと」ではあるけれど――


 僕は「窓」を見る。その中に見える面影は、やっぱりどこか微笑んでいるようで。



「セルジュは、お母さん・・・・が始めた店なんだ」





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