第3話


 冬ごもりに入ってから、アーサーはにこにことよく笑う。

 彼は私を抱きしめながら、いろんな話をした。


「あるよ。僕にだって苦手なものは」

「本当ですか?」

「南国のフルーツは苦手なものが多いな」

「まぁ……」

「王都では人気だろう?王宮に招かれるたびに出てくるから困る」

「代わりに食べたいくらいです」

「ふふ、僕のものなら何でも君にあげるよ」

「……私もですよ」

「ん?」

「私にあげられるものならなんでも差し上げますから……」

「……」

「一人だなんて思わないでくださいね」

「幸せで死にそう」

「死なないでくださいませ」


 ずっと笑顔だったから。

 私は少し油断していたのかもしれない。

 このまま冬ごもりが、穏やかに過ぎると思っていたのだ。


 毎日笑顔で楽しそうにしていたのに。

 二週間を過ぎた頃から、笑顔が陰り出した。

 アーサーは私から離れ一人過ごす時間が増えて行き、仕事をしているときもあったけれど、無表情に窓の外を眺める時間も多かった。

 まるで心がここにないようだった。心が遠い戦地にあるような。

 話しかけるとぎこちなく笑顔を浮かべ、優しく私に語り掛ける。無理してでもそうしようと努めているように。


 一言で言うと、とてもショックだった。

 アーサーには初日から無条件で愛されてきたのだ。何もしてないのに、無償の愛を与えてくれた。それは最初から分不相応のものだったのに、愚かなことに私はそれに慣れてしまっていた。

 無意識にでも、好きになっても大丈夫だと思ったんだろう。あっという間に恋に落ちた。夫を心から愛し、大切だと思っていた。


 まさか……すっかり心を許した後で、彼の気持ちが移ろうと想像していなかった。

 私は馬鹿だ。少し考えれば分かることだったのに。だって、あまりにもまっすぐな愛情を注いでくれていたから……。


 冬ごもりの間、魔物との討伐は行われない。

 そうして、穏やかな時間の中で、お互いを知る時間を初めて持てた。

 一緒に戦うという、祈りの言葉に価値が無くなるこの時期、ありのままの、何も持たない女である私に初めて向き合ったのかもしれない。彼が求めるような伴侶ではなかったのかもしれない。それはそうだろう。強く賢く優しい、どんな人でも求められるはずの彼が選ぶのは、本来私のような女ではないはずだ。


(早合点はいけないわ……)


 心を落ち着かせて、慎重に、アーサーに話しかける。


「アーサー。話してくれませんか?どんなお話でも私は聞きます」

「ブランカ」

「ずっと様子がおかしいです。気付かれていますか?この三日、私に触れてもいません。私のことを嫌いになりましたか?」

「……え?ち、違うよ」


 アーサーは慌てたように言う。


「僕は、ただ……良く分からなくなってしまって」

「何をですか?」

「困ったな……きっと分かってはもらえない……身勝手な想いだと思う」


 アーサーは私をソファに促し、ゆっくりと語り出した。


「……ブランカ、ごめんね」

「どうして謝るのですか?」

「傷付けるような態度を取ってしまった」

「理由を聞かせてもらえますか」

「……うん」


 アーサーは語り出す。


「君と結婚して、満たされて幸せで、もう冬ごもりの時期に世界で一人きりのような気持ちにはならないと思っていたんだ。だけど……違った」

「……孤独を感じたんですね」


 アーサーは困ったように微笑んだ。


「君が笑っていて、穏やかで、毎日平和で……満たされるだけのはずなのに……どんどん、ここは僕の居場所ではない気がしてきた」


 ぎゅっと固く組んだ手に力を入れて、アーサーは語る。


「僕が居てはいけない場所に放り込まれているような気持ちになって、居た堪れなくなった。一人になるとやっとほっとした。窓の外には幼い頃から見て来た、世界に僕だけを取り残すかのように降り続ける雪景色が見えた。そこが僕の居場所に思えた。そう思うと人を好きになる気持ちすらあやふやでよく分からなくなった。愛で満たされない僕は、人を愛することをできるのか?そんな資格のある人間なのか?と」


 顔を上げ、懇願するように、アーサーは言う。


「君は何も悪くない。だけど……一人になりたかった。ごめん」

「……」


 私に思うところがあるわけじゃない……?いやまだ分からない。

 アーサーの心の根深い問題のようにも感じるけれど。


「……いいんですよ。一人になりたいときだってあります。きっと私にだって」


 今のアーサーには一人の時間が必要なんだろう。


「だから、遠慮せずに言ってくださいね。無理をしないでください。出来たらお気持ちを話してください。分からないと、誤解してしまいますから」

「……そうだね。申し訳なかった」


 二人とも黙り込んでしまうと、部屋の中はとても静かだ。暖炉の火の燃える音以外は何も聞こえない。


「私、思うんですけど」

「うん」

「寂しさってそう簡単に癒えないと思うんです」

「……」

「両親を亡くてしてから三年も経って、結婚して新しい家族が出来ても……気持ちが中々追いつかなかったですから」

「え、……え、そうなの?」


 アーサーは目をぱちぱちとさせながら私を見つめる。


「ふふ。だって、知らない土地の、初めて出会う旦那様のところに嫁いで来たんですから」

「そ、そうだね。ごめんね。僕は最初から浮かれまくっていたね」

「いいんです。とても嬉しかったですから……だから、分かるんです。きっと、寂しいぶんだけ、孤独な分だけ、とても時間が掛かるんです」

「……」

「ご家族を亡くされたのはいつですか?」

「母は四つの時……。祖父は十歳の頃、討伐で亡くなった。父も討伐で……四年前だ」


 知らなかった。四年前なら、きっと私たちが初めて出会ったころだ。


「お一人で領民を守って来たんですね」

「いや、一人ではない。皆が助けてくれた」


 それでも……心から頼れる人はもういなかったはずだ。


「私は……少しほっとしてるんです。お互いに知り合う時間もないまま受け入れてもらえて……少し信じられないような気持ちになっていたんです。だから、素直な気持ちを教えてもらえて、旦那様も同じなんだなって分かって。ゆっくりでいいんです。何年でも……時間を掛けながら、家族になって行きましょう」

「ブランカ……」


 夢みたいに愛される時間は終わってしまったかもしれないけれど、これは紛れもなく私の本心だった。






 それからも冬ごもりの期間はまだ一月ほど残っていた。

 同じベッドで眠っていたけれど、私は一人になりたいアーサーを出来るだけ尊重した。

 そんな時私は屋敷に残る使用人たちに冬の間の民の遊びをいくつか教えてもらっていた。

 子供の頃はアーサーもやっていたそうだ。いつか子供が出来たときには私が子供に教えてあげられたらいい。

 子供……出来るんだろうか。アーサーの気持ちは本当に離れてしまわないんだろうか。

 私には分からない。悩まないでもないけれど……彼の台詞を妙に納得してしまったのは、窓の外を見つめる彼の瞳を見てしまったからなんだろう。討伐から帰って来た時と同じ、独りで生きているかのようなあの瞳。


 アーサーは以前と違い、毎日私と話す時間を取ってくれた。

 お互いの話を少しずつした。生い立ち。何が好きか、どんなことを思って生きて来たか。出逢ったばかりなのだ。話すことは尽きない。彼はどんなことも楽しそうに聞いてくれる。私に興味がないようにはとても思えない。


「魔物討伐は恐ろしいですか?」

「普通ならきっとね」

「普通なら?」

「僕にはさほど恐ろしくはないんだ。どうしてだろうね。倒し方が……弱点が分かる気がするんだ」

「……」

「絵本を知っているかい?」

「剣の勇者の?」

「そうだ。我が家の者はあの勇者の血を……引いていると、そう言い伝えられている」

「そんな」

「お伽噺だ」

「ええ」

「だが……本当なのかもしれないと、思うことがある」

「……」

「他にも言い伝えはあるのだが」

「どんなことですか?」

「そうだね、少しずつ話すよ」







 そんな風に過ごしているうちに日々が過ぎて行く。


「吹雪が弱まってきましたか?」

「そうだね……もう数日かもしれないね」


 以前よりも晴れ間が増えた気がする。思っていたよりも冬ごもりの期間はあっという間だった。

 この冬の間に、アーサーとは沢山の話が出来たのだ。私としては充実していたと思う。


「ブランカには気ばかり遣わせてしまって、申し訳なかった」

「そんなことありませんよ。とても楽しかったです」

「僕の奥さんは優しすぎるよ」

「旦那様ほどじゃありませんよ」


 アーサーがそっと私を抱きしめる。以前ほどじゃないけれど、彼が私に触れる頻度が増えて来ていた。いつだって優しく宝物に触れるように接してくれる。

 大事にされていないだなんて、そんなことを思ったことはないのだ。


「たくさんの話をしましたね」

「ああ、君のことを知れて嬉しかった」

「私もですよ」


 旦那様の胸に顔を寄せて、心からそう言ってから、顔を上げる。


「……だから今なら上手く伝えられる気がするんです」

「うん?」

「私の気持ちを聞いてくれますか?」

「もちろんだ」


 不思議そうな表情で私を見下ろすアーサー。

 この冬ごもりが終わる前に伝えておきたい。まだ一度も伝えていないことを。


「旦那様」


 彼の両手を私の両手で握り締めて、精一杯彼を見上げる。


「民の為に戦ってくださるあなたの為に祈りましょう」


 アーサーが目を瞠る。


「朝も昼も夜も。あなたの健康と幸福を私は願い続けましょう」


 息を呑むようにして彼は私を見つめ続ける。


「安らかなる日も、病める日も、戦地からは遠い場所で過ごしていても。私たちのために戦ってくださるあなたのために、心は共に戦いましょう」


 心を込めて、言葉を綴る。

 握ったアーサーの手が震えている気がする。

 アーサーは一気に頬を朱に染めた。


(やっぱり……この言葉は、アーサーの心に響くのね)


 これは絵本の文言だ。


「……この言葉を、王宮で騎士様に伝えたときのことを思い出しました。父に連れられて行った初めての王宮で、私はまだ子供でした。足をくじくように転びかけて……騎士様が助けてくれて。だけどその方は鎧の下で怪我をされていた。思わずあげられたようなうめき声で分かりました。優しいその方のために私は祈りました。あれは旦那様ですよね」


 アーサーは私をじっと見つめてから、ふっと照れたように笑う。


「そうだ。よく覚えていたね。あんな一瞬の出来事だったのに」

「そうですね。兜を被られていましたから。あれでは分かりませんよ」

「あの時は討伐で父が亡くなったばかりで……僕も傷跡が多くてね。あんな晴れの舞台の席でそんな姿を晒すのは申し訳ないかと思い隠していたんだ」


 今なら、そんな優しい気遣いはアーサーらしいと思える。


「あの日……一緒にいたのは父なんです。王立騎士団に所属していて、私は両親に愛されて育った幸せな子供で……あの日言った言葉は、絵本が大好きだった私が、父に毎日言っていた言葉だったんです」

「そうなのか」


 アーサーは、続けて、なるほどと言った。


「ホワイトヒルの民から聞くことはあっても、王都であの言葉を聞いたときは驚いたよ」

「そうですね……文言を覚えている者は珍しいかもしれませんね」


 きっと子供の頃読んだきりの人が多いだろう。


「父はとても強かったけれど……母とともに、馬車の事故で亡くなりました。叔父が引き取ってくれたけれど、その家に私の居場所はなくて……私はずっと寂しくて、とても、孤独でした」

「……」

「結婚が決まったときに思いました。人の役に立ちたい。誰でもいいから必要だと言われたい。だけど、私は結婚して知りました」


 アーサーの瞳をまっすぐに見つめて私は伝える。


「ずっと一人ぼっちだと思っていたけれど、孤独に苛まれていた辛かったあの時期も、私の言葉はアーサーの中に残っていたのですね?」

「もちろんだ」


 アーサーが強く手を握り返す。


「ずっと忘れられなかった。戦うときも、日常も、心を支えてくれる言葉に思えた。けれどだからといってあの幼い少女を娶ろうとか、そういうことを考えたわけじゃなかった。ただ忘れられなかった。何年経っても心に残る少女のことを調べて、初めて両親を亡くしていることを知り、婚姻を申し込んだんだ」


 その……と、アーサーは照れるように続ける。


「経緯を話してあるから、きっと、僕の片思いの相手に嫁に来てもらえたと……皆はしゃいでいたかもしれない」


 納得だ。皆さん、最初から微笑ましく見守ってくれていた気がする。


「ふふふ」

「ブランカ?」

「私がどれだけ嬉しいか分かりますか?私は一人ぼっちじゃなかったんですよ?誰かの役に立ててたんですよ?苦しくて辛くて、息が吸えないような気持ちになっていたのに……誰かの役に立てていた!」

「ブランカ、泣いて……」

「嬉しいんです。嬉し涙です」

「ブランカ」


 アーサーの剣士の指が私の涙を拭う。優しく、心配そうに。


「もう二度と、父に伝えたようには、心から幸福を願う祈りの言葉なんて誰にも伝えられないかと思っていたのに」


 ふふふと笑う。


「あなたを好きになって……私はもう一度、心から、この言葉を紡げるんです」


 あなたに届きますように。


「私たちのために戦ってくださるあなたのために、心は共に戦いましょう」


 泣き笑いの私を見つめるあなたの心に。


「人はきっとずっと孤独です。全てを分かり合うことまでは出来ません。けれど孤独に堕ちてもいいのです。私を一緒に連れて行ってください。隣で寄り添わせてください。独りだと思わないで。隣にいること。それが私の喜びです。信じてください。私はあなたの役に立てることが、こんなにも嬉しいのだと。どんなときでも、一緒に戦いましょう」


 アーサーは呆然とした表情で聞いていた。


「一緒に……?」


 アーサーは私の台詞に、顔を歪ませて、泣きそうな表情をした。

 ぐっと噛みしめるように表情を引き締めて、それから、瞳に涙を湛えた。


「は……っ、なんだこれ……」


 拳でごしごしと目をこすっている。あふれ出る涙に、自分で驚いている。

 私も、びっくりした。アーサーが泣くと思わなかった。


 厳しく育てられたらしいアーサーは、もしかしたら、泣くことも許されなかったのかもしれない。

 泣き顔の私たちは顔を見合わてしまう。どうしようと、困ってるように。


 その顔を愛しいと思ってしまう。

 好きだわ。

 優しくしたい。愛したい。そんな気持ちでいっぱいになってしまう。


「アーサー。私は、世界で一番あなたが愛おしいのです」


 私の言葉が、彼の心に届いて良かったな。

 一人きりで生きてる彼の心を動かせて良かった。

 私はこの人と違って、本当にただの平凡な、何も持たない女だけど……。ほんの少しでも彼を救い上げられるなら、私自身にも価値があるんじゃないかと思えてくる。


 私が私であって良かった。彼が彼であって良かった。巡り合えて良かった。


「愛してます」


 まだ新婚で。出逢って数か月。夫婦としてはまだまだこれから。

 だけどとっくに、私は私の旦那様を大好きになってしまった。たくさんの愛情と優しさを与えられて。

 そうしてやっと、私も彼に愛情を伝えられた。

 もしかしたら一人で生きて生きた彼は、こんな風に当たり前に愛情を返されることも、想像していなかったのかもしれない。

 どうか、この人と寄り添える人生を歩めますように。


 今度はアーサーが泣き顔で笑う。


「僕も……愛しているよ」

「ふふ」

「やり直してもいい?」

「え?」

「蜜月を、最初から」

「も、もちろん」


 そうして冬ごもりが終わるまでの三日間。私たちは、今まで以上に仲良く過ごした。

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