第2話 その戦いのあと、俺は思った――異世界にはアロマディフューザーが必要であると。
「……というわけで……女神なんですけど下級で。雑用係みたいで」
「わかります。大変ですよね」
「なんか罪悪感……」
草むらで、俺たちは話し込んでいた。あれから女性――いや、女神は俺たちにこの世界の設定を――いや、プロットを――いや、とにかく俺を勇者として召喚した理由を語った。
*****
「魔圧、というものがあるのです」
俺はぐらぐらする頭を草に預けてそれを聞いていた。横になったほうがいいと小鳥遊さんに言われたのだ。
「それは魔力のもとです。自然界に存在するのですが、感知できる人間は限られています。そして、それができるものは……」
女神は言葉を切り、口ごもった。小鳥遊さんが言う。
「精神が不安定になると?」
いつもの、穏やかで冷静な声だ。俺は胃がきゅっと締まるのを感じる。
「南原さんは繊細です。ですが、短絡的に勇者とするのは無理があるのでは?」
その通り。俺の精神はガラス細工よりもろい。勇者なんてできるタイプではない。
「でも……。魔王を倒すには勇者がいないと……だから召喚を」
女神は小鳥遊さんにプレッシャーを感じているようだった。よく見るとまだ若い。見た目は高校生くらいだ。
そのとき、俺は頭を締め付けられるような感覚を覚えた。指先がしびれる。
「た、小鳥遊さん。めっちゃしんどいです」
「落ち着いて。息を吐いて……吸って……」
「はあ……すうう……」
「どうです」
「あんま変わんない……」
言葉を絞り出した瞬間、大気が濃くなったような気がした。寝そべっているのに体が揺らぐ感覚が生まれる。女神の叫び。
「ちょっとあんたらうしろうしろ‼」
女神の声。同時にザクっと音を立て、顔のすぐそばになにかが突き立った。視線を向ける。黒い矢のような物体だ。
「魔王軍……!」
女神が押し殺した声で言う。そして俺たちの前で両手を広げる。淡い緑の光が広がった。次の瞬間、漆黒の稲妻が走り、空間を切り裂いた。女神の周囲の光がそれをさえぎる。
「小鳥遊さん……。俺、幻覚見えて来たかも……」
「大丈夫です。私も見えています」
「よかった……」
「よくなあい‼」
怒鳴り声とともに、緑の閃光が走る。爆発音。うわあ、脳に響く。もう帰りたい。
「ふ……。無駄だ、アップロディ―テ」
「その声は……。ナルシファー‼」
俺は重い体を動かしてうつぶせになり、肘をついて頭を上げた。視界に女神が映る。背の高い人影と対峙している。
「よくものうのうとあらわれたわね! 私たちがあんたの残務整理で死にかけたの知らないわけ⁉」
女神はキンキン声で言い募る。アップロディ―テという名前らしい。人影は低く笑い、
「知っているとも。魔界から見ていたよ……君たちのてんてこ舞いを」
俺はゆっくりと上体を起こす。小鳥遊さんが肩を支えてくれた。
「無理しないでください」
「寝ててもしんどくて……」
「ストレッチしましょう。まず手を握って、開いて」
「ぐー、ぱー」
「末端の血行促進です」
「にぎにぎ」
「それから首を回して」
「うーん、こわばってる」
「お前らこっちに気い遣えよおおおお‼」
がなり立てる声に目をやれば、ナルシファーと呼ばれた人影が髪をかきむしっている。よく見るとかなりのイケメン。モデルかな。
「俺に注目しろ! 俺に‼ なんでストレッチなんだよ⁉」
「ストレッチは心身の安定に効果があります」
淡々と小鳥遊さんが答える。小鳥遊さん、強いな。アップロディ―テは緑の光を広げたまま立っている。黒い稲妻も相変わらず空間を走っていた。
「心身の安定とか知らんし! だから下界は嫌なんだよ‼」
ダンダンダン、と地団太を踏んでナルシファーが声を張る。
やめてえ。俺の精神が溶解するう。こういうタイプ、本当に苦手だ。就労支援でも突然、大きな声を出す利用者さんがいてつらかったんだっけ。本人に悪意はないんだよなあ。でもなあ。
「落ち着いてください。まずは呼吸を整えましょう。吐いて……吸って……」
「はあ……すうう……」
「いかがです」
「あ、うん…………………いやいやいや!」
深呼吸したナルシファーは、切れ長の目をカッと見開いた。深紅のマントをひるがえす。
「落ち着いてどうする俺! アップロディ―テ!」
バチイ。緑の光と稲妻がぶつかり合う。
「これが勇者か⁉ 羽虫のような男ではないか!」
ごめんなさい。その通りかも。ちょっと心が折れかけた俺に、小鳥遊さんのフォローが入る。
「南原さんは価値のある人間です。こうして私が支えているのがその証拠です」
「ありがとう小鳥遊さん……」
「フハハ! 魔王軍の勝利は見えた‼」
ナルシファー、なんでそんなに自信があるんだ。俺はその姿を羨望を込めて眺める。あれ、だけど様子がおかしい。
「魔王軍は最強……向かうところ敵なし……。俺たちは安全……」
その声がだんだん小さくなっていく。しょぼんと肩が落ちる。宝石のはまったブレスレットに向けて、
「……あ、魔王さま。帰っていいですか? この通信球、通じてます?」
アップロディ―テが俺たちに近づいてきて、そっと耳打ちした。
「あいつは天界のブラックさに耐えきれず魔界堕ちしたの。メンタルは綿あめよ」
「ふわふわなんですね」
小鳥遊さんはキリッとした支援員の目でナルシファーを見ている。
「……そ、そうですか。じゃあ帰ります。大丈夫です……ビビらせたんで……」
えっ、それでいいの? もっとバトルとかしないんだ?
俺の疑問をよそに、ナルシファーはマントを体に巻き付けた。ちょっと震えているように見えるのは気のせいかな。
「きょ、今日はこのへんにしておいてやろう! アップロディ―テ、覚えていろ!」
次の瞬間、黒い稲光が空から落ちてきた。目がくらむ。しばらくして轟音の残滓が消えたあとには、誰の姿もなかった。
「忘れられるわけないでしょーが。あのデスマーチで何人倒れたか……」
悔しげにつぶやくアップロディ―テの声が、俺の鼓膜を揺らした。
「あのかた、専門家の対応が必要かもしれませんね」
小鳥遊さんが腕を組んで冷静につぶやく。俺は痛む頭を抱えてふたたび草の上でスライム化した。
「……もう無理ぽよ……」
だが、これはほんの序章に過ぎなかった。このときの俺はそれを知らなかった。草のにおいがアロマ効果で心を癒す。
そして俺の伝説が始まる。
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