鬱ぽよ勇者 ―Melancholic Hero―

坂口衣美(エミ)

第1話 異世界転移……しちゃった?

「わっ、私はあんたらを召喚するために月四十時間のサビ残を生き延びたんだからアアアアア!」


 薄いヴェールを引きむしって、その女性は叫んだ。鮮やかな金髪が広がり、淡いグリーンの瞳が油を塗ったように光る。俺の隣で草の上に体育座りをした小鳥遊さんが平静な声で言う。


「それは労基に訴えてください。私たちは午前の訓練に戻らなければ」


 俺はぐったりと寝そべったまま、そのやり取りを聞いていた。全身が重い。雨の前、よくこんな状態になる。空気の密度が上がって重力が倍増したような感覚。肩がこわばる。奥歯が痛い。


「だから! あんたなんなの⁉ 勇者だけ呼んだはずでしょ!」


「私は利用者さんの安全を守るためにここにいます」


 さすが小鳥遊さん。ピーチクパーチクとさえずる巨大なグリフォンに囲まれていても、その職業倫理は揺るがない。


「もうやだあ……。始末書……グスッ……」


 女性が泣き出した。ぶりっとした唇が震える。

 どうしてこうなったんだ。俺は今朝の出来事を思い出した。



 *****



 俺は南原優斗。二十三歳。数週間前、ヒキニートから卒業して就労支援に通い出した。

 

 もう人生ダメだと思っていた。まわりは学業に、仕事に打ち込んでいるように見えた。俺だけが社会のレールから外れて沈んでいくだけなのだと感じていた。


 それでもあきらめられなかった。なんとかしたかった。ネットで調べると、それなりの情報があった。


 ――自分のペースでできる社会参加を目指します。


 そう書かれたサイトに目が留まり、勢いで見学を申し込んだ。そしてそこで言われた。大丈夫です、一緒にやっていきましょう。




「ラジオ体操はじめまーす」


 懐かしいメロディーに合わせて体を動かす。部屋着に毛が生えただけのようなジャージ姿で、それでも髪を整えて、髭をそって。


 ――腕を前から後ろに……


 小鳥遊さんがみんなの前でお手本を見せてくれている。背中をそらすと腰がきしんだ。ほとんど自室から出ない生活が続いていたのだ。


 体操が終わると小鳥遊さんが近づいてきた。


「……南原さん、顔色が悪いみたいですけど」


「……え、ええと」


 ここ最近、通所日の前夜は眠れない。それを隠すために頓服の安定剤を飲んできたのだが、効果がなかったのだろうか。


「奥で休みますか?」


 周囲はさわさわと話し声がする。時折、断片的な独り言が響く。通常運転だ。しかし、それが俺の精神にダメージを食らわせる。


「……大丈夫です」


 椅子に腰かけようと姿勢を変えたとき、ぐらっとめまいがした。あ、倒れる。そう思った。小鳥遊さんの手が伸びて、俺の腕をつかんだ。


そこまでは意識があった。



 *****



「この世界にはあ……魔王がいて……それを倒してもらいたくてえ……グズズ」


「ハンカチ、どうぞ」


「ありがとうございますううう……」


 俺は記憶から立ち戻り、草の感触が頬にあることを思い出した。そうだ。あのとき倒れて、気づくとここにいたのだ。小鳥遊さんと二人で。そこにあの女性があらわれた。神経質な金切り声を上げながら。


「それで……勇者だけを召喚したはずなのに……」


 グリフォンが羽を鳴らして飛び立つ。俺は女性を見上げて尋ねる。


「……もしかしなくても、異世界転移しちゃった……?」


 女性はぱっと瞳を輝かせた。表情が和らぐと、キュートだった。


「そう! そうなんです! わかってくれましたか勇者よ!」


「……いや、勇者って」


 小鳥遊さんのことだろうか。確かに、勇者としての貫禄はある。しかし女性はまっすぐに俺を見ていた。


「あなたの精神のブレ! 環境圧に耐えられない繊細さ! それが必要なのです!」


「……待って、超ディスられてる?」


 俺は全力を振り絞って身を起こした。薬が効きすぎたのか、視界が回る。


「ディスってません。魔圧を感知する力を持つものの特性なのです!」


 魔圧ってなんですか。俺が言葉を発する前に小鳥遊さんが言う。


「それより、ここに水分はありませんか」


「すいぶん」


 女性が聞き返す。小鳥遊さんは当然のように、


「白湯があればぜひ。南原さんの体調が悪いようなので」


「さ、さゆ……」


「ありませんか」


 女性は戸惑ったように沈黙し、つぶやいた。


「……私が下級女神だからって、そんなこともできないと思ってるの?」


 そして宙に指先を差し伸べ、それを器の形にする。さあっと風が吹き、女性の手に湯気の立つカップが出現した。女性はそれを持って小鳥遊さんに突き出す。


「下級でも、物質召喚ぐらいできるのよ」


「そうですか。南原さん、飲めますか」


「え、空間から発生したそれ、安全なの……?」


 俺の疑問に答えてくれるものは、ここにはいないようだった。




 異世界に来た。それは事実のようだった。なぜなら小鳥遊さんがいつものように俺を見ているから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る