第2話 待って
02
「す、すみません。ヴェルデーナ・サイフォニックさんはご在宅でしょうか」
緊張から声が少し上ずって間の抜けた声が静かで湿気た路地に響く。
返事はない。
「留守、かな」
家からは人のいるような気配は感じられない。流石に寝入るにはまだ早い時間だから、いれば返事があるとは思うのだが。
もう一度ノッカーを鳴らして声をかける。が、やはり返事はなかった。
仕事に出ていて不在なのか。いや、家の場所を聞いたときに、町人はヴェルデーナは仕事をしているのかわからないと言っていたから、その可能性は低いか。
となると、どこかの酒場で酒盛りでもしているのだろうか。その場合、帰ってくるのを手持ち無沙汰に玄関先で待ち続けるか、広い町を駆けずり回って探さなければいけないことになる。
どちらにせよ、気の重い話だ。だが、それ以外に選択肢はない。だったら、まだ酒場を巡る方が精神的にはましだと言える。
仕方ない。重い足を引きずりながら体の空気が全て抜けてしまうような溜息を零して踵を返した瞬間、金属的な音がしてドアの開く音がした。
「あ、サイフォニックさんですか?」
ライカは慌てて振り向いて少しだけ開けられたドアの隙に向かって声をかける。
「あの俺、あ、いや、私はダレン村のライカ・シャーリックといいます。突然の訪問をお許しください。実はサイフォニックさんに──」
と、自己紹介と要件を伝える途中でライカは違和感を覚えた。
人の気配を感じないのだ。不審に思って、開いたドアの隙間から室内の様子を伺うも、その先は通ってきた路地に負けず劣らずの得体のしれない薄気味悪さの漂う空間が広がっているだけだ。
どうしてドアが開いたのかとか、そもそも鍵かかってなかったのかとか、思うところはあるものの家人がいないのならここは引き返すしかない。
諦めて出直そう。そう決めてドアを閉めようとした瞬間、二階の方からなにかが落ちる音がした。そして、その後に──。
「人のうめき声……?」
正面に見える階段を伝って苦しそうに喘ぐ声が聞こえた。
誰かがいるのか?
「どなたか……」
と、言いかけて、ライカははっと口を噤んだ。
「まさか、物取りか……?」
その可能性に思い至ったのは、フォルゲンスタリアに向かう道中で立ち寄った教会で近頃押し込み強盗が増えているという話を聞いていたからだった。
まさか、鍵がかかっていなかったのは強盗が入った後だったから?
一度そんな想像をしてしまえば、体の筋肉が氷漬けになってしまったかのように固まってしまう。
脇や額から汗が吹き出し、体の芯が震え始める。
「う……ご……」
また聞こえた。聞き間違いではない。確実にこの家には誰かがいる。そして苦しんでいる。
額の脂汗が頬を伝って顎から流れ落ちる。背中もじっとりとし始め、汗の粒が伝う感覚があった。
逃げたいという思いが真っ先に頭のなかを支配する。しかし、少し遅れてこんな考えもなだれ込んでくる。
それは、もし今この瞬間に家人が襲われていて、助けを求めているとしたら、というものだった。
誰か人を呼ばなければ。いや、そんなことをしている暇があるのか。仮に二階に家人と強盗がいたとして、ライカが助けを呼びに行けば確実に強盗は逃走するだろう。それはそれでいい。危険が自ら遠ざかってくれるのなら願ったり叶ったりだ。だが、恐らく強盗たちは身元の判明を恐れて逃走する際に家人を手にかけるだろう。
唯一の目撃者をそのまま生かしておく馬鹿はいない。人を殺せば更に犯を背負うことになるが、そもそも犯罪に拒絶感を覚えていれば物取りなどしない。
それでも普通なら、人を呼びに行くのが最適解だろう。ただ、ライカにとってその選択は最悪の結果をもたらす可能性を大いに秘めたものだ。
もし殺された人がサイフォニック氏だった場合、頼る先がいなくなってしまうからだ。
震える足が自然と前に出た。引き返すという選択肢などなかった。
二階に続く階段は途中で右に折れて更に上に続いている。上がりきると右手に廊下が続いており、途中に二部屋と更に廊下を突き当たって右に曲がると、左手に一部屋がある。
声が聞こえてきたのは恐らく一番奥の部屋だろう。わずかにだが部屋のドアが開いていて、多分そこから声が漏れてきたのだと思う。
軋む音がうるさい廊下を進む。ドンドンと誰かが壁を殴りつけるような音が聞こえた気がしたが、それが自分の心臓の音だと気がつくと何故だか笑えてきた。
ようやく部屋の前にたどり着くと、息を殺して耳を潜める。
聞こえた。くぐもった声で苦しそうに喘いでいる声だ。やはりここで間違いない。
まずはなかで起こっていることを把握しなければならない。
ライカはなるべく気取られないようにそっとドアの隙間から顔を覗かせた。
そして、飛び込んできた光景に息を呑んだ。
室内はとても乱雑としていた。
窓から差し込む夕日を浴びるベッドの両端にはいくつもの本が山のように積まれており、床には脱ぎ散らかした服が何着もあり、ベッドのフットボードにも何着も放り出したようにかけられていた。
整理整頓という概念の欠けた部屋だが、唯一綺麗に整えられているベッドの上は恐らく聖域なのだろう。そして、その聖域で横たわる人物にライカは目を奪われた。
丈の短い純白の肌着から伸びる細く長い脚。差し込む夕日を浴びて夜空を彩る幾千の星々の如き輝きを放つ白銀色の髪はベッドのうえで無造作に広がっていた。
室内には女性以外誰もいない。もしかして手遅れだったのだろうかと、膝の力が抜けそうになった瞬間。
「う、ん……」
不意に女性が身じろぎをし、上半身を起こしたのだ。
「あ、れ……?」
開いかれた猫のような大きな瞳はわずかにたれ気味で、目の下に濃い隈が浮いていた。女性の目が部屋の天井からベッドへ移り、そして入口で室内を覗いているライカへと移る。
ヘーゼル色の瞳がすっと細められた。
「あ、あの……」
なんと声をかければいいのだろうか。強盗に入られたんじゃないんですか、怪我はしていませんか、誰か人を呼びましょうか。
本来であればこの辺りを聞くべきなのだろう。しかし、女性の瞳は男を誘うように濡れていて年頃のライカには猛毒でしかない。
まるで酸欠に喘ぐ魚のように口をパクパクとさせるくらいがライカの精一杯だった。
女性が少しだけ身じろぎする。そのせいで、ただでさえ煽情的な肌着から伸びる太ももの奥が見えそうになる。
「あっ、違うんです! 何度もお声がけしたんですけど返事がなくて……でも、確かに無断で人の家にあがるのはいけないんですけど、でももしかしたら強盗に襲われているんだったら助けなきゃって思ったりして、俺、あ、私はダレン村のライカと言って、サイフォニックさんにお願いがあって!」
始めて女性のきわどい肌を見たとか、大人の女性の魅力半端ないとか、ともかくそんなことで顔と頭に熱があがったライカは思いついた言葉を捲し立てるが、上手く言葉まとまらずに脈絡がない。
このままではまずいと思えば思うほどに頭のなかが混乱していく。
「えっと、とても素敵な服ですね!?」
もう目の前がぐるぐる回り始めてしまうほどに混乱を極めたライカは、不適切な発言をしている自覚はない。
全くみっともないことこの上ないが、女性経験のないライカにはこの辺が限界だった。
「し、し、し、失礼しましたぁ!」
駄目だ。これ以上ここにいると、取り返しのつかないことをしてしまいそうだ。
最後の理性でそう確信したライカが裏返った声で叫び、逃げ出そうとした瞬間。
「待って」
女性はライカに手を伸ばすような素振りをして、それから胸に手を当てた。
上目ずかいの潤んだ瞳は、ライカの心の枯れた大地に潤いをもたらす。さっきから心臓の鼓動がやかましいくらいに激しいのだが、女性の瞳を目の当たりにした瞬間に途端に鼓動が途絶えて、代わりに小鳥の囁きのようにか細くなった。
綺麗だ。ライカは生まれて初めて女性を心から綺麗だと思った。
なにかが始まるような予感。それはきっと勘違いではなく定められた未来。
逃げようとしていた足の向きを変えて一歩部屋に踏み出す。
女性は白い顔を上げてライカを見つめる。向けられる視線に熱があるような気がするのは、経験のないライカでもはっきりと伝わった。
「んっ、もう……駄目」
艶のある吐息に包まれた声が、そっとライカの耳に届く。そして──。
「おげえええええええええええ」
「……oh」
女性はベッドの脇に置いてあった桶をさっと取ると、そのなかに盛大に吐いたのである。
それはそれは見事な滝ゲロでした。
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