最終話 白い部屋の外で
朝。
風の音で目が覚めた。
カーテンの隙間から、柔らかな光が射し込む。
この光の粒を、私は知っている。
——“現実”の光だ。
あの日からどれだけの時間が経ったのか分からない。
時計は止まっている。
でも、秒針が動かなくても、心臓はちゃんと刻んでいる。
それで十分だと思えた。
◇
鏡の前に立つ。
頬に傷はない。
唇の端も、もう裂けていない。
鏡の中の私は、穏やかに笑っていた。
「おはよう。」
口に出してみる。
久しぶりに、誰に聞かせるでもない挨拶。
返事はない。
でも、鏡の中の私は確かに頷いた。
部屋の隅に置かれた段ボール箱を開ける。
中には、以前の生活の残骸——
焦げた鍋、欠けたカップ、破れたエプロン。
その底に、一枚の古い写真。
結婚式の日。
白いドレスの私と、隣に立つ男。
その顔は、ぼやけて見えない。
私は写真を手に取り、微笑んだ。
「もう、いいの。誰でも。」
◇
外に出ると、風が頬を撫でた。
朝の空気は、少し冷たくて、少しだけ懐かしい匂いがした。
どこかでパンを焼く匂い。
どこかで子供の笑い声。
人の生活の音が、遠くから流れてくる。
あの“白い部屋”の静寂とは、まるで違う。
音がある世界。
ノイズも混じっているけれど、それが“生きている証拠”だ。
私は歩き出した。
誰かの視線を感じることは、もうない。
鍵穴も、カメラも、輪も、存在しない。
ただ、私の目だけが世界を“見る”。
◇
信号待ちで立ち止まったとき、スマホが震えた。
見知らぬ番号。
迷いながら出ると、電子的なノイズ混じりの声がした。
> 「……マナミ?」
鼓動が一瞬止まった。
「……悠真?」
沈黙。
風の音だけが入る。
> 「君の“記録”を、見てた。まだ残ってる。
> でも、君の今の顔は、もう俺のデータにはない。」
涙が、頬を伝った。
「それでいい。もう見なくていいの。」
> 「……最後に聞かせて。君は今、幸せ?」
私は空を見上げた。
青と白が混じり合って、遠くに鳥が飛んでいる。
「ええ、きっと。」
返事を終えた瞬間、ノイズが消えた。
通話終了。
画面に「記録の終了」とだけ表示された。
◇
その夜。
私はノートを開いた。
白紙のページに、ペンを走らせる。
> これは、誰かに見せるための記録じゃない。
> これは、私が“生きている”ことを確かめるための記録。
> もう、誰にも見られなくていい。
> でも、私は見る。
> 世界を、自分を、愛を。
書き終えて、ペンを置いた。
その瞬間、窓の外で雷が光った。
少しだけ笑って、私は呟いた。
「見てていいよ、悠真。……でも、今度は私が見る番だから。」
鏡の中の自分が、柔らかく微笑んだ。
風がカーテンを揺らす。
世界が、静かに動き出す音がした。
◇
夜明け。
私は窓を開け、深呼吸をした。
空気が冷たくて、心が透明になっていく。
遠くの街が、朝の光に染まる。
世界は、思っていたより優しかった。
そして、思っていたより痛みを許してくれた。
——たとえ愛が幻でも、
その痛みを覚えているかぎり、私は“本物”になれる。
私は微笑んだ。
「おはよう、私。」
世界のノイズが戻ってくる。
風。車。鳥。
どれも、誰かの“監視”ではなく、ただの生の音だった。
その音の中で、私は小さく囁いた。
> 「愛してる。
> でも、もう誰にも縛られない。」
光が差し込み、影ができた。
その影の形は、私だけのものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます