最終話 白い部屋の外で

 朝。

 風の音で目が覚めた。

 カーテンの隙間から、柔らかな光が射し込む。

 この光の粒を、私は知っている。

 ——“現実”の光だ。


 あの日からどれだけの時間が経ったのか分からない。

 時計は止まっている。

 でも、秒針が動かなくても、心臓はちゃんと刻んでいる。

 それで十分だと思えた。



 鏡の前に立つ。

 頬に傷はない。

 唇の端も、もう裂けていない。

 鏡の中の私は、穏やかに笑っていた。


 「おはよう。」

 口に出してみる。

 久しぶりに、誰に聞かせるでもない挨拶。

 返事はない。

 でも、鏡の中の私は確かに頷いた。


 部屋の隅に置かれた段ボール箱を開ける。

 中には、以前の生活の残骸——

 焦げた鍋、欠けたカップ、破れたエプロン。

 その底に、一枚の古い写真。

 結婚式の日。

 白いドレスの私と、隣に立つ男。

 その顔は、ぼやけて見えない。


 私は写真を手に取り、微笑んだ。

 「もう、いいの。誰でも。」



 外に出ると、風が頬を撫でた。

 朝の空気は、少し冷たくて、少しだけ懐かしい匂いがした。

 どこかでパンを焼く匂い。

 どこかで子供の笑い声。

 人の生活の音が、遠くから流れてくる。


 あの“白い部屋”の静寂とは、まるで違う。

 音がある世界。

 ノイズも混じっているけれど、それが“生きている証拠”だ。


 私は歩き出した。

 誰かの視線を感じることは、もうない。

 鍵穴も、カメラも、輪も、存在しない。

 ただ、私の目だけが世界を“見る”。



 信号待ちで立ち止まったとき、スマホが震えた。

 見知らぬ番号。

 迷いながら出ると、電子的なノイズ混じりの声がした。


 > 「……マナミ?」


 鼓動が一瞬止まった。

 「……悠真?」

 沈黙。

 風の音だけが入る。


 > 「君の“記録”を、見てた。まだ残ってる。

 > でも、君の今の顔は、もう俺のデータにはない。」


 涙が、頬を伝った。

 「それでいい。もう見なくていいの。」


 > 「……最後に聞かせて。君は今、幸せ?」


 私は空を見上げた。

 青と白が混じり合って、遠くに鳥が飛んでいる。

 「ええ、きっと。」

 返事を終えた瞬間、ノイズが消えた。

 通話終了。

 画面に「記録の終了」とだけ表示された。



 その夜。

 私はノートを開いた。

 白紙のページに、ペンを走らせる。

 > これは、誰かに見せるための記録じゃない。

 > これは、私が“生きている”ことを確かめるための記録。

 > もう、誰にも見られなくていい。

 > でも、私は見る。

 > 世界を、自分を、愛を。


 書き終えて、ペンを置いた。

 その瞬間、窓の外で雷が光った。

 少しだけ笑って、私は呟いた。

 「見てていいよ、悠真。……でも、今度は私が見る番だから。」


 鏡の中の自分が、柔らかく微笑んだ。

 風がカーテンを揺らす。

 世界が、静かに動き出す音がした。



 夜明け。

 私は窓を開け、深呼吸をした。

 空気が冷たくて、心が透明になっていく。

 遠くの街が、朝の光に染まる。


 世界は、思っていたより優しかった。

 そして、思っていたより痛みを許してくれた。


 ——たとえ愛が幻でも、

  その痛みを覚えているかぎり、私は“本物”になれる。


 私は微笑んだ。

 「おはよう、私。」


 世界のノイズが戻ってくる。

 風。車。鳥。

 どれも、誰かの“監視”ではなく、ただの生の音だった。


 その音の中で、私は小さく囁いた。


 > 「愛してる。

 > でも、もう誰にも縛られない。」


 光が差し込み、影ができた。

 その影の形は、私だけのものだった。

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