第2話 血に濡れた指輪

 目を開けた瞬間、天井が白い。

 ヤニでくすんだ借家の天井じゃない。新築の匂い。

 ——ここ、どこ?


 腕を起こすと、頬は腫れていなかった。

 鏡台に駆け寄る。青痣もない。

 髪をすくい上げ、耳の後ろを触る。裂けたはずの皮膚は、なめらかだ。


 テーブルの上に置かれていたスマホを手に取る。ロック画面の日付は、三年前の春。

 結婚前、入籍を控えていた頃。

 通知欄の一番上に、見覚えのある名前が光っていた。


 悠真。

 ——私の、夫になる人。


『今日は早く上がれた。駅で待ってる』


 手が震えた。

 私は死んだはずだ。あの夜、床に倒れて、白い光に飲まれて——それでも今、私はここにいる。

 過去に戻った。戻されてしまった。

 「やり直せ」

 そう言われている気がした。


 私は鏡の前で深呼吸を繰り返した。

 頬はまだ、愛せる顔をしている。

 悠真が好きだった頃の、私。


 ——今度こそ、彼を救う。

 私が、彼を変える。



 駅前のロータリーは、夕方の色に満ちていた。

 人の波の先、背の高い影が片手をあげる。

 「こっち」

 懐かしい声。笑っている。私の知っている、優しい悠真。


 近づくと、彼は紙袋を差し出した。

 「仕事先の近くで評判の店ができてさ。チーズケーキ、好きだろ?」

 嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂い。

 「ありがとう」

 うまく笑えたか自信がなくて、視線が泳いだ。


 「どうした?」

 「あ、なんでもない。ちょっと寝不足で」

 彼は心配そうに眉を寄せ、私の髪を耳にかけた。

 その手に、私は少しだけ身を引いた。

 ——怖い、って思ってしまった自分が、情けない。


 「無理すんなよ。今日は早めに帰ろう」

 優しい。やっぱり優しい。

 私はうなずき、彼の歩幅に合わせた。



 この時期の私たちは、まだ一緒には暮らしていなかった。

 週末はどちらかの部屋に泊まり、平日はそれぞれの生活。

 その「余白」が、ふたりの関係を穏やかに保っている——そんな錯覚の季節。


 夜、彼が私の台所で不器用に味噌汁をかき混ぜる。

 「こんなもんでいいのか?」

 「うん。おいしそう」

 「結婚したら、さ。俺もちゃんと家事やるから」

 その言葉、私は覚えている。

 現実の彼は、やらなかった。

 でも今、私は微笑んでしまう。

 「頼りにしてる」


 食卓に並んだ料理は、控えめに塩を減らした。

 ——塩味が原因で怒られた夜を、私は忘れていない。

 未来の地雷を一つ、事前に抜いた。

 悠真は「うまい」と言った。

 胸の奥に、かすかな安堵が灯る。


 けれど、地雷は塩味だけじゃない。



 私は予定帳を開き、予定を増やしていった。

 母と会う日。大学時代の友人とランチ。職場の飲み会。

 孤立しない。閉じ込められない。

 未来を変えるために、私にできる「準備」はそれくらいだ。


 翌週、母と喫茶店で会った。

 ホットコーヒーにミルクを一つ。母は昔から変わらない。

 「元気にしてるかい?」

 「うん。今、準備でばたばただけど」

 「結婚、焦らなくてもいいのよ」

 私は曖昧に笑った。

 言えない。「彼は将来、私を殴るようになる」なんて。

 言えるはずがない。

 私は彼を、まだ愛している。愛してしまっている。


 店を出たとき、メッセージが届いた。


『どこにいる?』

『誰と?』

 短い文が、三つ。

 胸が冷え、すぐに写真を送る。母と並んで撮った、自撮り。

『気をつけて帰れよ』

 ハートの絵文字。

 指が少し、震えた。

 ——これが「芽」だ。

 小さな監視。小さな支配。

 私は既に知っている。やがて、それが森になることを。



 指輪を受け取ったのは、その週末だった。

 商店街の小さなジュエリー店。

 ガラスケースには、可憐な銀の輪が並んでいる。

 「派手なんじゃなくて、長くつけられるやつがいい」

 そう言うと、店員が細いプラチナのリングを取り出した。

 私の指に、ぴたりとおさまる。


 「似合うよ」

 悠真が囁き、私の手を両手で包んだ。

 ——私は泣きそうになった。

 この手に、いつか拳が宿ることを私は知っている。

 けれど今、彼は笑っている。

 私は、今の彼を好きになってしまう。


 会計を済ませ、店を出る。

 商店街の端で、不意に視界がにじんだ。

 「どうした?」

 「ううん、嬉しくて」

 リングに頬を寄せるふりをして、涙を隠した。



 夜、台所で玉ねぎを刻んだ。

 涙は玉ねぎのせいにできる。

 包丁の刃が、指先をかすめた。


 「っ……」

 小さな赤がにじむ。

 咄嗟に流しに手を突っ込み、指を揉んだ。

 薬箱を取りに行こうとしたとき、リビングから足音。

 「大丈夫か?」

 悠真がタオルを持って走ってきた。

 指をとり、血を拭う。

 リングの縁に、赤が薄くついた。

 ——血に濡れた指輪。

 胸の奥で、何かが軋んだ。


 「気をつけろよ。お前が怪我したら、俺……」

 そこで言葉が途切れた。

 彼の目が、私の顔のどこかを測るように泳いだ。

 「俺、困るから」

 柔らかい声。

 なのに、困るという単語が胸にひっかかった。

 (困る——誰が? 何が?)


 私は笑ってみせた。

 「大げさだよ。ちょっと切っただけ」

 悠真は私の髪を撫で、指に絆創膏を巻いた。

 触れる手の温度は、優しい。

 私は、その優しさに縋った。

 「ありがとう」

 その瞬間だけ、世界は救われる。



 カレンダーは順調に埋まり、招待状の返信も返ってくる。

 写真屋に行く日取り、式場との打ち合わせ。

 ルーティンは、幸せの形をしていた。

 私は未来の傷を知っているから、幸せの形を必死に磨いた。


 ——けれど、ルーティンは支配にもなる。


 「式場の打ち合わせ、次の土曜、午前になった」

 「え、でもその日、友達と約束が——」

 「キャンセルしろよ。大事なのはこっちだろ」

 声色は穏やか。

 命令だけが、彼の言葉の底に横たわる。

 私は笑って受け入れた。

 「わかった。連絡しておく」


 (違う。これじゃ、変わらない)

 (今度は、譲らない約束も作るんだろう?)

 胸の内で自問しながら、私は友人にメッセージを打った。

 ごめんという文字が、あまりにも私に似合っていた。



 未来を変えるために、私は一つだけ、はっきりした線を引くことにした。

 スマホのパスコードを、教えない。

 合鍵は渡しても、パスコードは渡さない。

 息が詰まりそうな小さな抵抗。


 「パス、教えて」

 「え?」

 「式の写真とか、スケジュールまとめときたいからさ。共有しようぜ」

 笑っている。あどけない笑い。

 ——断れ。ここで断れ。

 喉が乾いた。

 「ごめん。これは、私のだし。共有は別アプリでやろ?」

 沈黙。

 短い、けれど長い沈黙。

 「……そっか。じゃ、あとで設定教えて」

 肩から重しが落ちる音がした。

 彼は怒らなかった。

 喜びと、恐怖が同時に胸を撫でる。

 (変えられる。きっと)

 (でも、怒らないのは、今だけかもしれない)



 職場の歓送会。

 部署異動になる先輩のために、小さな居酒屋に集まった。

 私は一次会で抜けるつもりだった。

 「結婚するんだってな。おめでとう」

 同期の春人が、からりと笑ってグラスを掲げた。

 昔、少しだけ好意を寄せられたことがあった人。

 私はあいまいに笑い、ウーロン茶で応じる。

 「ありがとう」


 二十二時前に店を出る。

 夜風はまだ優しく、私はまっすぐ帰るつもりだった。

 ——通知が震えた。


『今、どこ?』

 写真を撮る。店の外観と、自分の顔。

『お疲れ。もう電車』

 ほんとうのことだけを、送る。

 返事はすぐ来た。

『気をつけて』

『愛してる』

 目を閉じる。

 私は、愛してるって言葉が好きだ。

 殴られる前も、殴られた後も、変わらず。



 帰宅すると、部屋の明かりがついていた。

 「おかえり」

 悠真がソファに座り、テレビをつけたまま私を見た。

 いつもより静かな笑い。

 テーブルには、私のスマホが置かれている。

 (あれ? 玄関に入ったとき、バッグに入ってたはず——)


 「春人って、誰?」

 血の気が、足先から抜けた。

 「職場の同期。歓送会で——」

 「昔、お前に告ってきたやつだよな。俺、知ってる」

 知ってる。未来の彼は、私のすべてを知っている。

 私は、笑ってごまかそうとして、唇が震えた。

 「別に、二人きりじゃない。みんなで——」

 悠真は立ち上がり、ゆっくりと歩いてきた。

 壁際まで、私の背中が下がる。

 「謝れ」

 (あの夜と、同じ言葉だ)


 喉が、からからに乾いていた。

 ここで謝れば、彼は落ち着く。

 ここで謝らなければ、違う未来が開くかもしれない。

 私は、指輪を握りしめた。

 絆創膏の上に、冷たい輪が当たる。

 「ごめんなさい」

 絞り出した声は、思ったよりも素直だった。


 悠真は目を閉じ、深く息を吐いた。

 拳は握られない。

 ——殴られなかった。

 私は立ったまま、震えた膝を抱きしめるように両手を交差した。

 彼はソファに戻り、テレビの音量を少し上げた。

 「もう遅い。風呂入って寝ろ」

 平坦な声。

 嵐は過ぎたのだと、私は自分に言い聞かせた。


 洗面所で水を出し、顔を洗う。

 鏡の中で、女が笑っている。

 勝ったみたいな顔で。

 (違う。これは、勝ちじゃない)

 (私はまた、謝った)



 ベッドに入っても、眠れなかった。

 天井の白が、夜に溶け、音のない波紋を描く。

 隣で寝息を立てる悠真の肩が、時折ぴくりと揺れる。

 彼の手が布団の上に投げ出され、私の指に触れた。

 反射的に指を絡める。

 指輪がかすかに触れ合い、カチと鳴った。


 (変えられるのだろうか)

 (変えたいのは、彼? それとも——私?)


 私の胸の底では、二つの声が争っていた。

 彼は悪くない。私がもっと上手になればいい、という声と、

 私が悪くない。私には境界がある、という声。

 どちらも私の声だった。


 指輪を外し、枕元に置く。

 銀の輪には、もう血はついていない。

 それでも、私はそこに薄く赤を見た。

 明日になれば、見えなくなる種類の赤。


 目を閉じる。

 まぶたの裏に、未来の夜がちらつく。

 床に落ちる皿。飛び散る赤ワイン。

 「謝れ」

 ——いいえ。

 いつか私は、謝らない夜を選ぶ。

 その夜が、今日でなかったことだけが、悔しい。


 眠りの縁で、私はもう一度だけ決め直した。

 救う。

 彼を、そして私を。

 たとえ、この愛が呪いだとしても。


 朝、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。

 私はその光の中で、彼の寝顔を見つめていた。

 ——こんなにも穏やかな顔なのに、どうして。


 昨日、謝ったことで“嵐”は去った。

 けれど、私の中に残ったのは安堵じゃなく、冷たい後悔だった。

 あの瞬間、私が「ごめんなさい」と言わなければ、未来は変わっただろうか。

 それとも、あの言葉を飲み込んだ時点で、また別の暴力が芽吹いていたのだろうか。


 彼は寝返りを打ち、私の方に腕を伸ばした。

 私はその手にそっと指を絡め、目を閉じた。

 「あなたを救う」——その約束を、心の奥で繰り返した。

 それが呪いのような願いでも、今の私には、それしかなかった。



 日曜日の午後。

 彼はリビングでスマホを眺めながら、ふと顔を上げた。

 「なぁ、家計のアプリ、一緒にしない?」

 「家計……?」

 「俺の給料も、共有して管理した方がいいだろ。俺、数字弱いし」

 柔らかく笑うその声が、なぜか怖かった。

 過去の記憶が警鐘を鳴らす。

 “金を管理する”と言いながら、彼は後に、私の財布から現金を抜くようになった。

 “共有”は支配の始まりだった。


 「……別々の方がいいんじゃない?」

 「なんで?」

 「結婚したら合算してもいいけど、今はまだ貯金しておきたいし」

 彼はしばらく黙り、視線を落とした。

 「そっか。そうだよな」

 そして笑った。

 ——表情に、影はなかった。

 なのに私は、背中に冷たい汗を感じた。



 数日後、彼の態度が微妙に変わり始めた。

 夜の帰宅が早くなり、私の予定をよく聞くようになった。

 「明日、どこ行くの?」

 「友達とカフェ」

 「誰と? 女の子?」

 「うん」

 「男もいる?」

 「いないよ」

 質問は穏やかだった。

 でも、回数が増えた。

 会話の形をした確認。確認の形をした監視。

 私は微笑んで受け流しながら、心のどこかで怯えていた。



 カフェで友人と話しているとき、スマホが震えた。

 画面に「悠真」の名前。

 開くと、メッセージが三つ。


『写真送って』

『心配だから』

『ごめん、気にしすぎかな』


 (変わらない……)

 私は窓の外を見つめた。

 晴れた空の向こうに、未来の夜の光景がよぎる。

 殴られる自分。

 謝る声。

 それを、終わらせたくてここにいるのに。


 私は一度だけため息をつき、返信を打った。


『今度から、仕事中はスマホ見ないようにするね』


 柔らかい言葉で、線を引いた。

 返事は、すぐには来なかった。



 帰り道、夕暮れの影が長く伸びる。

 駅前で彼が待っていた。

 「ごめん、仕事早く終わったから」

 「……そうなんだ」

 笑っているけれど、その笑顔の奥にあるものを私は知っている。

 胸の奥で、何かが静かに軋んだ。


 家に帰ると、彼は無言でキッチンに立ち、鍋を火にかけた。

 「今日は俺が作る」

 エプロン姿の彼を見るのは久しぶりだった。

 「ありがとう」

 その言葉に、彼は小さく笑った。


 けれど、私は知っていた。

 ——これは、嵐の前の静けさだ。



 夕食の途中、彼の手が止まった。

 「……この味噌汁、しょっぱいな」

 心臓が跳ねた。

 スプーンを握る指が震える。

 「ごめん、濃かった?」

 「いや……」

 彼は一瞬、遠くを見るような目をした。

 それから、箸を置いた。

 「前も、こんなことあったよな」

 その言葉に、空気が凍る。

 前の人生——あの夜。

 ワインと皿と、血。

 私は息を呑み、微笑んだ。

 「でも、もう怒らないでしょ?」

 「……あぁ」

 短い返事のあと、彼は俯いた。

 そして、小さく笑った。

 「俺、怒りたくないんだ。お前を傷つけたくない」

 その言葉は、どこか悲しそうで、幼かった。

 ——この人もまた、何かに縛られているのかもしれない。

 私は彼の手を取った。

 「大丈夫。私がいるよ」

 その瞬間だけ、彼の表情がほどけた。

 その優しさに、私はまた溺れた。



 夜、食器を片付けながら、指輪がシンクに落ちた。

 拾い上げようとして、手が滑る。

 水と泡の中でリングが回り、指先に当たった瞬間、また血が滲んだ。

 「痛っ……」

 人差し指の先が切れていた。

 赤い雫が、白い泡の上に落ちる。

 血に濡れた指輪が、まるで何かの儀式のように光った。


 私はふと、笑ってしまった。

 何度やり直しても、私は同じ場所で傷つく。

 指輪が私を救うと思っていたのに、それが私を傷つける。

 まるで、愛そのものみたいだ。



 寝室に戻ると、彼がベッドの端に座っていた。

 「なぁ、俺、アプリ入れたんだ」

 「アプリ?」

 「『LifeLink』ってやつ。お互いの位置が分かる。防犯にもいいらしい」

 画面を見せる彼。

 そこに映る“共有許可”のボタン。

 私は笑顔のまま、心が凍るのを感じた。

 「……必要、かな?」

 「心配だからさ。お前、危なっかしいし」

 「でも……」

 彼はスマホを置き、静かに私の手を握った。

 「信じてるよ。でも、俺、不安なんだ」

 「……わかった」

 小さくうなずいた。

 “拒絶”ではなく、“理解”を選んでしまった。

 その瞬間、未来の歯車がゆっくりと動き出した音がした気がした。



 眠れぬ夜。

 彼の寝息の横で、私は指輪を外し、手のひらに置いた。

 あのリングは約束の証であり、呪いの輪でもある。

 血の跡が乾いても、赤い影は消えなかった。


 (ねぇ、悠真。私は、どこまであなたを救えばいいの?)

 (それとも、あなたを救うことで、私はまた壊れるの?)


 涙が一滴、指輪に落ちた。

 赤と透明が混ざり合い、月光の中で光る。

 ——もう一度、誓おう。

 「あなたを愛しても、私はもう、謝らない」


 その言葉を呟いた瞬間、隣で彼が寝返りを打った。

 寝言のように、掠れた声が聞こえた。


 「……次、謝らなかったら……どうなるか、分かってるよな……」


 凍りついた。

 息が止まる。

 寝言。なのに、その声はあまりにも現実的だった。

 私は指輪を握りしめ、胸の奥で祈った。

 どうか、これが夢でありますように。

 ——でも知っている。これは夢ではなく、未来の記録だ。

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