第2話 血に濡れた指輪
目を開けた瞬間、天井が白い。
ヤニでくすんだ借家の天井じゃない。新築の匂い。
——ここ、どこ?
腕を起こすと、頬は腫れていなかった。
鏡台に駆け寄る。青痣もない。
髪をすくい上げ、耳の後ろを触る。裂けたはずの皮膚は、なめらかだ。
テーブルの上に置かれていたスマホを手に取る。ロック画面の日付は、三年前の春。
結婚前、入籍を控えていた頃。
通知欄の一番上に、見覚えのある名前が光っていた。
悠真。
——私の、夫になる人。
『今日は早く上がれた。駅で待ってる』
手が震えた。
私は死んだはずだ。あの夜、床に倒れて、白い光に飲まれて——それでも今、私はここにいる。
過去に戻った。戻されてしまった。
「やり直せ」
そう言われている気がした。
私は鏡の前で深呼吸を繰り返した。
頬はまだ、愛せる顔をしている。
悠真が好きだった頃の、私。
——今度こそ、彼を救う。
私が、彼を変える。
◇
駅前のロータリーは、夕方の色に満ちていた。
人の波の先、背の高い影が片手をあげる。
「こっち」
懐かしい声。笑っている。私の知っている、優しい悠真。
近づくと、彼は紙袋を差し出した。
「仕事先の近くで評判の店ができてさ。チーズケーキ、好きだろ?」
嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂い。
「ありがとう」
うまく笑えたか自信がなくて、視線が泳いだ。
「どうした?」
「あ、なんでもない。ちょっと寝不足で」
彼は心配そうに眉を寄せ、私の髪を耳にかけた。
その手に、私は少しだけ身を引いた。
——怖い、って思ってしまった自分が、情けない。
「無理すんなよ。今日は早めに帰ろう」
優しい。やっぱり優しい。
私はうなずき、彼の歩幅に合わせた。
◇
この時期の私たちは、まだ一緒には暮らしていなかった。
週末はどちらかの部屋に泊まり、平日はそれぞれの生活。
その「余白」が、ふたりの関係を穏やかに保っている——そんな錯覚の季節。
夜、彼が私の台所で不器用に味噌汁をかき混ぜる。
「こんなもんでいいのか?」
「うん。おいしそう」
「結婚したら、さ。俺もちゃんと家事やるから」
その言葉、私は覚えている。
現実の彼は、やらなかった。
でも今、私は微笑んでしまう。
「頼りにしてる」
食卓に並んだ料理は、控えめに塩を減らした。
——塩味が原因で怒られた夜を、私は忘れていない。
未来の地雷を一つ、事前に抜いた。
悠真は「うまい」と言った。
胸の奥に、かすかな安堵が灯る。
けれど、地雷は塩味だけじゃない。
◇
私は予定帳を開き、予定を増やしていった。
母と会う日。大学時代の友人とランチ。職場の飲み会。
孤立しない。閉じ込められない。
未来を変えるために、私にできる「準備」はそれくらいだ。
翌週、母と喫茶店で会った。
ホットコーヒーにミルクを一つ。母は昔から変わらない。
「元気にしてるかい?」
「うん。今、準備でばたばただけど」
「結婚、焦らなくてもいいのよ」
私は曖昧に笑った。
言えない。「彼は将来、私を殴るようになる」なんて。
言えるはずがない。
私は彼を、まだ愛している。愛してしまっている。
店を出たとき、メッセージが届いた。
『どこにいる?』
『誰と?』
短い文が、三つ。
胸が冷え、すぐに写真を送る。母と並んで撮った、自撮り。
『気をつけて帰れよ』
ハートの絵文字。
指が少し、震えた。
——これが「芽」だ。
小さな監視。小さな支配。
私は既に知っている。やがて、それが森になることを。
◇
指輪を受け取ったのは、その週末だった。
商店街の小さなジュエリー店。
ガラスケースには、可憐な銀の輪が並んでいる。
「派手なんじゃなくて、長くつけられるやつがいい」
そう言うと、店員が細いプラチナのリングを取り出した。
私の指に、ぴたりとおさまる。
「似合うよ」
悠真が囁き、私の手を両手で包んだ。
——私は泣きそうになった。
この手に、いつか拳が宿ることを私は知っている。
けれど今、彼は笑っている。
私は、今の彼を好きになってしまう。
会計を済ませ、店を出る。
商店街の端で、不意に視界がにじんだ。
「どうした?」
「ううん、嬉しくて」
リングに頬を寄せるふりをして、涙を隠した。
◇
夜、台所で玉ねぎを刻んだ。
涙は玉ねぎのせいにできる。
包丁の刃が、指先をかすめた。
「っ……」
小さな赤がにじむ。
咄嗟に流しに手を突っ込み、指を揉んだ。
薬箱を取りに行こうとしたとき、リビングから足音。
「大丈夫か?」
悠真がタオルを持って走ってきた。
指をとり、血を拭う。
リングの縁に、赤が薄くついた。
——血に濡れた指輪。
胸の奥で、何かが軋んだ。
「気をつけろよ。お前が怪我したら、俺……」
そこで言葉が途切れた。
彼の目が、私の顔のどこかを測るように泳いだ。
「俺、困るから」
柔らかい声。
なのに、困るという単語が胸にひっかかった。
(困る——誰が? 何が?)
私は笑ってみせた。
「大げさだよ。ちょっと切っただけ」
悠真は私の髪を撫で、指に絆創膏を巻いた。
触れる手の温度は、優しい。
私は、その優しさに縋った。
「ありがとう」
その瞬間だけ、世界は救われる。
◇
カレンダーは順調に埋まり、招待状の返信も返ってくる。
写真屋に行く日取り、式場との打ち合わせ。
ルーティンは、幸せの形をしていた。
私は未来の傷を知っているから、幸せの形を必死に磨いた。
——けれど、ルーティンは支配にもなる。
「式場の打ち合わせ、次の土曜、午前になった」
「え、でもその日、友達と約束が——」
「キャンセルしろよ。大事なのはこっちだろ」
声色は穏やか。
命令だけが、彼の言葉の底に横たわる。
私は笑って受け入れた。
「わかった。連絡しておく」
(違う。これじゃ、変わらない)
(今度は、譲らない約束も作るんだろう?)
胸の内で自問しながら、私は友人にメッセージを打った。
ごめんという文字が、あまりにも私に似合っていた。
◇
未来を変えるために、私は一つだけ、はっきりした線を引くことにした。
スマホのパスコードを、教えない。
合鍵は渡しても、パスコードは渡さない。
息が詰まりそうな小さな抵抗。
「パス、教えて」
「え?」
「式の写真とか、スケジュールまとめときたいからさ。共有しようぜ」
笑っている。あどけない笑い。
——断れ。ここで断れ。
喉が乾いた。
「ごめん。これは、私のだし。共有は別アプリでやろ?」
沈黙。
短い、けれど長い沈黙。
「……そっか。じゃ、あとで設定教えて」
肩から重しが落ちる音がした。
彼は怒らなかった。
喜びと、恐怖が同時に胸を撫でる。
(変えられる。きっと)
(でも、怒らないのは、今だけかもしれない)
◇
職場の歓送会。
部署異動になる先輩のために、小さな居酒屋に集まった。
私は一次会で抜けるつもりだった。
「結婚するんだってな。おめでとう」
同期の春人が、からりと笑ってグラスを掲げた。
昔、少しだけ好意を寄せられたことがあった人。
私はあいまいに笑い、ウーロン茶で応じる。
「ありがとう」
二十二時前に店を出る。
夜風はまだ優しく、私はまっすぐ帰るつもりだった。
——通知が震えた。
『今、どこ?』
写真を撮る。店の外観と、自分の顔。
『お疲れ。もう電車』
ほんとうのことだけを、送る。
返事はすぐ来た。
『気をつけて』
『愛してる』
目を閉じる。
私は、愛してるって言葉が好きだ。
殴られる前も、殴られた後も、変わらず。
◇
帰宅すると、部屋の明かりがついていた。
「おかえり」
悠真がソファに座り、テレビをつけたまま私を見た。
いつもより静かな笑い。
テーブルには、私のスマホが置かれている。
(あれ? 玄関に入ったとき、バッグに入ってたはず——)
「春人って、誰?」
血の気が、足先から抜けた。
「職場の同期。歓送会で——」
「昔、お前に告ってきたやつだよな。俺、知ってる」
知ってる。未来の彼は、私のすべてを知っている。
私は、笑ってごまかそうとして、唇が震えた。
「別に、二人きりじゃない。みんなで——」
悠真は立ち上がり、ゆっくりと歩いてきた。
壁際まで、私の背中が下がる。
「謝れ」
(あの夜と、同じ言葉だ)
喉が、からからに乾いていた。
ここで謝れば、彼は落ち着く。
ここで謝らなければ、違う未来が開くかもしれない。
私は、指輪を握りしめた。
絆創膏の上に、冷たい輪が当たる。
「ごめんなさい」
絞り出した声は、思ったよりも素直だった。
悠真は目を閉じ、深く息を吐いた。
拳は握られない。
——殴られなかった。
私は立ったまま、震えた膝を抱きしめるように両手を交差した。
彼はソファに戻り、テレビの音量を少し上げた。
「もう遅い。風呂入って寝ろ」
平坦な声。
嵐は過ぎたのだと、私は自分に言い聞かせた。
洗面所で水を出し、顔を洗う。
鏡の中で、女が笑っている。
勝ったみたいな顔で。
(違う。これは、勝ちじゃない)
(私はまた、謝った)
◇
ベッドに入っても、眠れなかった。
天井の白が、夜に溶け、音のない波紋を描く。
隣で寝息を立てる悠真の肩が、時折ぴくりと揺れる。
彼の手が布団の上に投げ出され、私の指に触れた。
反射的に指を絡める。
指輪がかすかに触れ合い、カチと鳴った。
(変えられるのだろうか)
(変えたいのは、彼? それとも——私?)
私の胸の底では、二つの声が争っていた。
彼は悪くない。私がもっと上手になればいい、という声と、
私が悪くない。私には境界がある、という声。
どちらも私の声だった。
指輪を外し、枕元に置く。
銀の輪には、もう血はついていない。
それでも、私はそこに薄く赤を見た。
明日になれば、見えなくなる種類の赤。
目を閉じる。
まぶたの裏に、未来の夜がちらつく。
床に落ちる皿。飛び散る赤ワイン。
「謝れ」
——いいえ。
いつか私は、謝らない夜を選ぶ。
その夜が、今日でなかったことだけが、悔しい。
眠りの縁で、私はもう一度だけ決め直した。
救う。
彼を、そして私を。
たとえ、この愛が呪いだとしても。
朝、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
私はその光の中で、彼の寝顔を見つめていた。
——こんなにも穏やかな顔なのに、どうして。
昨日、謝ったことで“嵐”は去った。
けれど、私の中に残ったのは安堵じゃなく、冷たい後悔だった。
あの瞬間、私が「ごめんなさい」と言わなければ、未来は変わっただろうか。
それとも、あの言葉を飲み込んだ時点で、また別の暴力が芽吹いていたのだろうか。
彼は寝返りを打ち、私の方に腕を伸ばした。
私はその手にそっと指を絡め、目を閉じた。
「あなたを救う」——その約束を、心の奥で繰り返した。
それが呪いのような願いでも、今の私には、それしかなかった。
◇
日曜日の午後。
彼はリビングでスマホを眺めながら、ふと顔を上げた。
「なぁ、家計のアプリ、一緒にしない?」
「家計……?」
「俺の給料も、共有して管理した方がいいだろ。俺、数字弱いし」
柔らかく笑うその声が、なぜか怖かった。
過去の記憶が警鐘を鳴らす。
“金を管理する”と言いながら、彼は後に、私の財布から現金を抜くようになった。
“共有”は支配の始まりだった。
「……別々の方がいいんじゃない?」
「なんで?」
「結婚したら合算してもいいけど、今はまだ貯金しておきたいし」
彼はしばらく黙り、視線を落とした。
「そっか。そうだよな」
そして笑った。
——表情に、影はなかった。
なのに私は、背中に冷たい汗を感じた。
◇
数日後、彼の態度が微妙に変わり始めた。
夜の帰宅が早くなり、私の予定をよく聞くようになった。
「明日、どこ行くの?」
「友達とカフェ」
「誰と? 女の子?」
「うん」
「男もいる?」
「いないよ」
質問は穏やかだった。
でも、回数が増えた。
会話の形をした確認。確認の形をした監視。
私は微笑んで受け流しながら、心のどこかで怯えていた。
◇
カフェで友人と話しているとき、スマホが震えた。
画面に「悠真」の名前。
開くと、メッセージが三つ。
『写真送って』
『心配だから』
『ごめん、気にしすぎかな』
(変わらない……)
私は窓の外を見つめた。
晴れた空の向こうに、未来の夜の光景がよぎる。
殴られる自分。
謝る声。
それを、終わらせたくてここにいるのに。
私は一度だけため息をつき、返信を打った。
『今度から、仕事中はスマホ見ないようにするね』
柔らかい言葉で、線を引いた。
返事は、すぐには来なかった。
◇
帰り道、夕暮れの影が長く伸びる。
駅前で彼が待っていた。
「ごめん、仕事早く終わったから」
「……そうなんだ」
笑っているけれど、その笑顔の奥にあるものを私は知っている。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
家に帰ると、彼は無言でキッチンに立ち、鍋を火にかけた。
「今日は俺が作る」
エプロン姿の彼を見るのは久しぶりだった。
「ありがとう」
その言葉に、彼は小さく笑った。
けれど、私は知っていた。
——これは、嵐の前の静けさだ。
◇
夕食の途中、彼の手が止まった。
「……この味噌汁、しょっぱいな」
心臓が跳ねた。
スプーンを握る指が震える。
「ごめん、濃かった?」
「いや……」
彼は一瞬、遠くを見るような目をした。
それから、箸を置いた。
「前も、こんなことあったよな」
その言葉に、空気が凍る。
前の人生——あの夜。
ワインと皿と、血。
私は息を呑み、微笑んだ。
「でも、もう怒らないでしょ?」
「……あぁ」
短い返事のあと、彼は俯いた。
そして、小さく笑った。
「俺、怒りたくないんだ。お前を傷つけたくない」
その言葉は、どこか悲しそうで、幼かった。
——この人もまた、何かに縛られているのかもしれない。
私は彼の手を取った。
「大丈夫。私がいるよ」
その瞬間だけ、彼の表情がほどけた。
その優しさに、私はまた溺れた。
◇
夜、食器を片付けながら、指輪がシンクに落ちた。
拾い上げようとして、手が滑る。
水と泡の中でリングが回り、指先に当たった瞬間、また血が滲んだ。
「痛っ……」
人差し指の先が切れていた。
赤い雫が、白い泡の上に落ちる。
血に濡れた指輪が、まるで何かの儀式のように光った。
私はふと、笑ってしまった。
何度やり直しても、私は同じ場所で傷つく。
指輪が私を救うと思っていたのに、それが私を傷つける。
まるで、愛そのものみたいだ。
◇
寝室に戻ると、彼がベッドの端に座っていた。
「なぁ、俺、アプリ入れたんだ」
「アプリ?」
「『LifeLink』ってやつ。お互いの位置が分かる。防犯にもいいらしい」
画面を見せる彼。
そこに映る“共有許可”のボタン。
私は笑顔のまま、心が凍るのを感じた。
「……必要、かな?」
「心配だからさ。お前、危なっかしいし」
「でも……」
彼はスマホを置き、静かに私の手を握った。
「信じてるよ。でも、俺、不安なんだ」
「……わかった」
小さくうなずいた。
“拒絶”ではなく、“理解”を選んでしまった。
その瞬間、未来の歯車がゆっくりと動き出した音がした気がした。
◇
眠れぬ夜。
彼の寝息の横で、私は指輪を外し、手のひらに置いた。
あのリングは約束の証であり、呪いの輪でもある。
血の跡が乾いても、赤い影は消えなかった。
(ねぇ、悠真。私は、どこまであなたを救えばいいの?)
(それとも、あなたを救うことで、私はまた壊れるの?)
涙が一滴、指輪に落ちた。
赤と透明が混ざり合い、月光の中で光る。
——もう一度、誓おう。
「あなたを愛しても、私はもう、謝らない」
その言葉を呟いた瞬間、隣で彼が寝返りを打った。
寝言のように、掠れた声が聞こえた。
「……次、謝らなかったら……どうなるか、分かってるよな……」
凍りついた。
息が止まる。
寝言。なのに、その声はあまりにも現実的だった。
私は指輪を握りしめ、胸の奥で祈った。
どうか、これが夢でありますように。
——でも知っている。これは夢ではなく、未来の記録だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます