虐げられても、あなたを愛してしまう──壊れた花嫁の記録
マルコ
第1話 殴られても、愛してしまう
あの人の笑顔が好きだった。
穏やかで、どこまでも優しくて。
私のことを「守る」と言ってくれたとき、本気で信じていた。
結婚して三年目。
食卓には私の作ったハンバーグと、彼の好物の赤ワイン。
テレビではバラエティ番組が流れ、笑い声がリビングに響く。
——一見、どこにでもある幸せな家庭。
でも、その夜から、私の世界は変わった。
「これ、塩、入れすぎじゃないか?」
笑いながら言った彼の声が、いつもより少し低かった。
私は冗談だと思って笑い返した。
「ごめんね、ちょっと味見足りなかったかも」
その瞬間、テーブルの上の皿が宙を舞った。
赤ワインが飛び散り、床に落ちて皿が割れた。
耳の奥で高い音が鳴る。
頬に、熱い痛み。
——殴られたのだと気づくまで、数秒かかった。
「……ふざけるなよ。いつも同じ失敗ばかりだな」
私は何も言えなかった。
ただ呆然と彼を見上げると、彼は拳を握りしめたまま、
息を荒げていた。
まるで、私じゃない誰かを見ているような目だった。
その夜、彼はすぐに謝った。
「悪かった。疲れてたんだ。もうしない」
「俺、お前を傷つけたくなんかない」
震える声でそう言って、泣きそうな顔をしていた。
私は——信じてしまった。
暴力の翌朝、彼は花を買ってきた。
赤いカーネーション。
「ごめんな」と笑うその顔に、胸が痛くなった。
殴られた頬の痛みよりも、彼が苦しんでいることのほうが悲しかった。
私は思った。
この人は悪くない。悪いのは、私だ。
もっと気をつけていれば、あの人も怒らなかった。
そうやって、自分を責め続ける日々が始まった。
季節が変わり、梅雨が過ぎ、夏になった。
外は蝉の声。
カーテンを閉め切った部屋の中、私は洗濯物を畳みながら、
小さく鼻歌を歌っていた。
「おい、どこに行ってたんだよ」
突然、玄関のドアが乱暴に開く音。
仕事帰りの彼が、険しい顔で立っていた。
「スーパーに……」と答える前に、腕を掴まれた。
「誰と会ってた? 男か?」
「違うよ。見て、レシート。ほら——」
その手を払いのけようとして、強く引かれた。
床に倒れ、頭をぶつける。
視界が揺れる。
「謝れ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
謝ることが、私の呼吸のようになっていった。
彼の暴力は、週に一度から、やがて毎日のようになった。
「うるさい」「笑うな」「勝手に寝るな」
理由なんてなかった。
けれど不思議と、憎むことができなかった。
——彼が泣きながら抱きしめてくれた夜を、覚えているから。
「俺、お前がいないとダメなんだ」
「こんな俺でも、愛してくれるか?」
その問いに、私は迷わず頷いた。
それが間違いだと分かっていても、頷くしかなかった。
愛してる。
壊されても、愛してる。
それが私の生きる意味になってしまった。
母からの電話には出なくなった。
友人からのLINEも返さなかった。
スマホを見ているだけで、彼の視線が痛かった。
彼の前では、笑うことも泣くことも、許されない。
それでも、時々見せる優しさが嬉しかった。
仕事帰りにプリンを買ってきてくれた日。
「お前の笑顔、好きだよ」と言った夜。
あの言葉だけで、明日を生きようと思えた。
そしてある夜。
彼が帰宅しないまま、深夜二時を過ぎた。
私は眠れずに待っていた。
玄関が開く音。
酒の匂い。
よろめく足音。
「遅かったね……」
その言葉が、地雷だった。
頬に平手打ち。髪を掴まれ、床に叩きつけられる。
「誰の許可で待ってるんだよ!」
痛みよりも、虚しさの方が強かった。
心が壊れる音が、した気がした。
——気づけば、床に倒れていた。
頬に流れる温かいものを拭おうとして、手が震える。
彼の影が、ぼやけて見えた。
「ごめん……俺、また……」
泣き声が聞こえた。
それでも私は、笑ってしまった。
「大丈夫だよ。あなたのこと、嫌いになれない」
言葉の途中で、視界が真っ白に染まった。
私は、愛していた。
どれだけ殴られても、壊されても。
彼の中の「優しさ」を、信じていた。
——そして、この愛が私を殺した。
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