👢 夢叶愛結町 👢


 ふと気づくと、周りには誰もいなかった。

 隣の女性の姿もなかった。

 驚いて腕時計を見ると、講演会はとっくに始まっていた。

 慌てて入場口へ走った。


 中に入ると、席は人で埋まっていた。係員に空席を尋ねると、最後列の端の席を指差された。そこしか空いてないという。着席している人の迷惑そうな視線を感じながら、頭を下げてその席まで行った。

 座るとすぐにあの女性を探そうとした。しかし、会場は圧倒的に女性が多い上に後姿しか見えなかった。諦めるしかなかった。


 あっという間に講演が終わった。わたしは急いで会場を出ようとしたが、「出口に近い方から順番にお願いします」というアナウンスに阻まれて如何いかんともしがたかった。会場を出た時にはあの女性の姿は影も形もなかった。彼女が身に着けている物も一緒に消えていた。

 落ち込んだ。しかし、どうしようもなかった。縁は切れたのだ。諦めるしかなかった。天を仰ぐと、千切れ雲が同情していた。


 ご愁傷様。


 その声は風に運ばれて、どこかに飛んでいった。


 気落ちして、うつむいたまま歩き始めると、10メートルほど行った時、後ろから大きな音が聞こえた。

 顔を上げると、バスが追い越していった。それを追って前方に視線をやると、バス停が見えた。その途端、目を疑った。探していたあの女性がバス停にいたのだ。あの鮮やかな色の物を身に着けた女性に間違いなかった。

 心臓が止まるかと思った時、バスが停車した。扉が開いたらしく、彼女が乗り込もうとしていた。慌てて駆け出して「乗ります!」と手を振りながら必死になって走ったが、無情にもバスは発車してしまった。わたしは呆然としてバスの後姿を見送った。行先表示器に示された見知らぬ地名がどんどん小さくなっていくのを、なす術もなく見送るしかなかった。

 一気に体が鉛のように重くなった。それでもなんとかバス停に辿り着いて路線図に視線を這わせると、探していたものが見つかった。


 夢叶愛結町。


 見たことも聞いたこともない地名だった。何処にあるのかまったくわからなかったし、読み方さえわからなかった。

 狐につままれたような気持ちになった。でも、ハッとして次のバスを探すと、1時間後と表示されていた。一瞬それに乗ろうかと思ったが、諦めた。彼女がどこで降りたのかわからないのに、乗っても仕方がないからだ。それでも、しばらくその地名を見続けた。すると何故か「夢が叶って愛が結ばれる町か~」と声が出たが、自分には関係がないような気がして見るのを止めた。そして、バス停をあとにした。それでも、足はバスが去った方へ向かって動いていた。心と体は重かったが、未練が足を動かしていた。

 しかし、しばらく歩いていると、その足さえも言うことを聞かなくなった。引きずるようにしか歩けなくなった。もう歩くのを止めようかと思った時、何かを踏みつけてよろめいた。


「痛い!」


 悲鳴のような声が聞こえた。

 見ると、こぶし大ほどの石が怒っていた。


「石の身にもなってみろ。毎日毎日人に踏まれてたまったもんじゃないんだぞ!」


 その通りだと思った。すぐに謝って、植え込みの中に移動させた。そして、「これで踏まれずに済むよ」と声をかけて離れようとすると、「悪かったな、さっきは怒鳴ったりして」とバツが悪そうな声が返ってきた。

 わたしは急いで手と首を同時に振った。すると、「お礼に奇跡を起こすおまじないをしてあげる」と言って石語で何やらブツブツ唱え始め、いきなり「夢見れば叶う!」と叫んで、石のように固まった。わたしはなんだか嬉しくなって、「ありがとう」と頭を下げ、その場をあとにした。


 なんにもいいことがなかった一日だったが、最後にほっこりすることに出会って、なんだか体が軽くなったように感じた。

 そのせいか、久しぶりにステーキが食べたくなった。帰りにスーパーに寄って、550円のオージービーフ・サーロインと500円のチリ産赤ワインと100円の袋入り千切りキャベツを買って、ワンルームマンションに帰った。


 乾杯!


 あの女性の身に着けていた物を思い出しながらグラスを上げると、素敵なその色が瞼に浮かんで、とても幸せな気持ちになった。そのせいかワインがどんどん進み、ボトルの三分の二が一気に空いた。

 しかし、それが限界だった。気持ちのいい酔いが続いて欲しかったが、連日の寝不足が邪魔をした。大あくびを何度もしながら食器を片づけて、歯磨きをして、電気を消して、ベッドにもぐりこんだ。あの女性が身に着けていた素敵な物に出会えますように、と願った途端、眠りに落ちた。


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