第16話 4-4:邂逅、土塗れの聖女
(……いた)
大木の影から金色の結界の内側を覗き込んだ魔王は、ついにその「浄化の源」を発見した。
だが、その姿は彼の想像を遥かに、あまりにも遥かに超えていた。
そこにいたのは、エルフの賢者でも古の竜でもない。
(……人間? それも、女……?)
一人の、若い人間の女だった。
魔王の紅い瞳が、信じられないものを見るかのように細められる。
彼がまず目にしたのは、結界の内側に広がる異様な光景だった。
外側が黒と紫の「死」の世界であるというのに、結界の内側はまるで別世界だった。
清らかな小川が流れ、そのほとりには豊かな茶色い土が広がり、そこには彼が文献でしか見たことのない青々とした植物が、溢れんばかりの生命力で咲き誇っている。
彼が先ほどその香りに驚愕した、豆の紫の花やカモミールの白い花が、瘴気の森の陰鬱な光の中で、あり得ないほどの色彩を放っていた。
そして、その「庭園」の中心に彼女はいた。
彼女は、魔王が先ほど見た恐ろしい末期段階の魔獣など、まるで存在しないかのように意にも介さず、結界に背を向けたまま地面に膝をついている。
その姿は、お世辞にも美しいとは言えない。
アステル王国の貴婦人が着飾る派手なシルクのドレスとは無縁だった。
作業着は泥と、おそらくは魚の皮か何かで無骨に補強されゴワゴワになっている。艶やかなはずの髪は無造作に一つに束ねられ、その頬には土がつき、初冬の冷気の中で労働による汗が光っている。
まるで、アステル王国の最下層の農奴のような姿。
(……だが)
魔王は、その姿に奇妙な違和感を覚えた。
みすぼらしい。汚れている。
だが、その所作の一つ一つが信じられないほど洗練されているのだ。
土を触るその指先はまるで赤子に触れるかのように優しく、植物を見つめるその横顔は高貴な学者か神官のように真摯な探求心に満ちている。
何より、その女の足元で信じられないものがじゃれついていた。
「キュイ!」
クリーム色の毛玉――魔王はそれが、この森には存在し得ないはずの聖獣「カーバンクル」であることに気づき、さらに驚愕する――が、嬉しそうに鳴きながらその女の足元で浄化されたばかりの泥に転げ回っている。
(聖獣……? あの、瘴気を何よりも嫌うはずの聖獣が、なぜこんな女に懐いている……!?)
混乱が彼の思考を鈍らせる。
聖獣は、魔王である彼にさえ滅多に姿を見せない誇り高い存在のはずだ。
それが、泥だらけの人間の女にまるで飼い猫のようにじゃれついている。
女は、その聖獣に優しく微笑みかけると、目の前のまだ浄化されきっていない「黒い土」の境界線にそっと手のひらをかざした。
「コハク、見ていてちょうだい。ここも、綺麗にしてしまいましょうね」
その、穏やかで凛とした声が結界を越えて魔王の耳に届いた。
次の瞬間、魔王は彼自身の存在意義を揺るがす光景を目撃することになる。
女の手のひらから、魔王の魔力とは正反対の、温かい「金色の光」が溢れ出した。
それは彼が知るどの魔術とも違う。
破壊でも支配でも防御でもない。
ただ、そこにあるだけで周囲を暖める、太陽そのもののような力。
コハクが「キュ!」と鳴き、その額の宝石を輝かせると、女の光はさらに力を増し、目の前の「黒い土」に降り注いだ。
(……なんだ、あれは。瘴気を……浄化している……?)
魔王は、その光景を息をのんで見つめていた。
信じられない。
あり得ない。
彼が王として生涯をかけて求めてきた力。
彼の民が、その力を失ったがために何百年も苦しみ続けてきた奇跡の力。
それが今、こんな泥だらけのみすぼらしい人間の女の手によって、まるで鼻歌でも歌うかのように、世界で最も簡単な作業であるかのように、あっさりと行われている。
金色の光を浴びた「黒い土」が、悲鳴を上げるようにその瘴気を蒸発させ、まるで呼吸を取り戻すかのようにしっとりとした豊かな「茶色い土」へとリアルタイムで変わっていく。
腐臭が消え、彼が先ほどから感じていた清浄な「花の香り」と「土の匂い」がさらに濃くなった。
(……ああ)
その香りを吸い込んだ瞬間、彼のこめかみで、それまでずっと彼を苛み続けていた鈍い痛みが、すう、と和らいでいくのを魔王ははっきりと自覚した。
この女は、ただ瘴気を浄化しているのではない。
この女の力は、瘴気が精神に与える「呪い」そのものを、癒しているのだ。
(……これだ)
絶望の淵にあった男の心に、渇望という名の炎が燃え上がった。
(この力さえあれば、民を救える。この女さえいれば、わたくしは……)
(……眠れる、かもしれない)
その、あまりにも強烈な「希望」が、彼の常に張り詰めていた理性の糸を、ほんの一瞬だけ緩ませた。
「……あ」
あまりの衝撃に、魔王は自分がこれまで完璧に消し続けてきた「気配」を、ほんの一瞬漏らしてしまった。
それは音ではない。
彼という、この森で最も強大な魔力を持つ存在が放つ、濃密な「魔力の揺らぎ」。
凍てつくような、絶対零度の威圧感。
「―――ッ!?」
わたくし(エリアーナ)は、その時、コハクの目の前の土を浄化し、そこに新しく薬草の種を蒔こうと作業に集中していた。
(この調子なら、この一帯すべてを薬草畑にできるわ……)
わたくしの心が新たな研究への期待に満ちていた、まさにその時。
「キュウウウウウウウッ!!」
突如、足元でコハクがこれまで聞いたこともない激しい威嚇の鳴き声を上げた。
「え?」
わたくしが驚いて顔を上げると、コハクは先ほどまで泥にじゃれついていた愛らしい姿から一変していた。
全身のクリーム色の毛をハリネズミのように逆立て、小さな体をわたくしの前に割り込ませ、結界の外の「ある一点」を睨みつけている。
その小さな口からは鋭い牙が剥き出しになり、額の琥珀色の宝石が主を守るために警戒の光を激しく明滅させている。
まるで、「来るな、わたくしのご主人様に近づくな!」と、その小さな体で叫んでいるかのようだった。
わたくしは、コハクのその異常な様子に一瞬で血の気が引いた。
(まさか、あの魔獣が戻ってきたの!?)
先ほどまで結界の外で苦悶していた、あの角の生えた異形の魔獣。
わたくしは慌てて剪定ばさみを握りしめ、コハクが見つめる方向を振り返った。
「……え?」
だが、そこにいたのは魔獣ではなかった。
結界のすぐ外、瘴気の霧が渦巻く大木の影。
そこに、一人の「男」が立っていた。
(……人?)
いや、違う。
わたくしは、その存在を一目見ただけで、それが「人間」ではないと本能で理解した。
瘴気の森の陰鬱な光の中で、その男の存在だけが異様なほどに際立っている。
背が高く、漆黒の上質な外套をまとっている。
雪のように白い肌。夜の闇を切り取ったかのような、艶やかな黒髪。
そして、その顔はアステル王国のどんな絵画で見た神々よりも、冷たく理知的で、近寄りがたいほどに美しかった。
だが、何よりもわたくしの目を奪ったのは、その「瞳」だった。
こちらを射抜くように見つめる、燃えるような「紅い瞳」。
その瞳は、わたくしがこれまで見てきたどの魔獣の赤い瞳とも違う。
そこには理性を失った狂気ではなく、この世のすべてを見通すかのような鋭い知性と、そして計り知れないほどの「魔力」が宿っていた。
コハクは、あの異形の魔獣にではなく、この、あまりにも美しい「彼」に命がけで威嚇していたのだ。
その、土で汚れた顔。
その、何が起きているのか分からず驚きに見開かれた、翡翠(ひすい)のような緑色の瞳と。
漆黒の外套をまとった、魔王の、燃えるような紅い瞳が、瘴気の森の中で、初めて交錯した。
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