第15話 4-3:結界の外の魔獣
魔王は、瘴気の森を疾風のごとく駆けていた。
彼にとってこの森は庭だったが、その庭は彼自身をも蝕む呪われた庭だ。
彼の魔力が周囲の瘴気を強引にねじ伏せ道を開く。黒い影が黒い木々の間を音もなく滑っていく。
しかし、瘴気はまるで生きているかのように彼の精神にまとわりつき、思考を鈍らせようと試みていた。
(……頭が、痛む)
こめかみの奥で、慣れ親しんだ激痛が走る。
彼を突き動かしていたのは、焦燥感にも似た一つの「可能性」だった。
「浄化」
その、神話の中だけの力が、もし本当に存在するのなら。
(……見えてきた)
半日も経たずして、彼は目的地――ヴァイスが報告した「瘴気の澱み」があったはずの区域に到達していた。
そして、彼は己の目を疑った。
(……瘴気が、薄い)
ヴァイスの報告通りだった。いや、報告以上だ。
あの、一歩足を踏み入れるだけで精神が狂いそうになるほどの、鉛のように重く濃密な瘴気の圧力が、明らかに和らいでいる。
それどころか、遠くから瘴気の腐臭とは似ても似つかない、清浄な「何か」の気配が漂ってくる。
それは、彼が城で感じていた人工的な「遮断」とは根本的に異質の気配だった。
(花の、香り……?)
馬鹿な、と彼は思った。
この森で香りを放つ花は、すべて獲物をおびき寄せる「毒」だ。『瘴気喰らい』の蔦のように。
だが、この香りは違う。
わたくしが育てた豆の花とカモミールの放つ、甘く優しい「生命」の匂い。
腐臭と鉄錆の匂いしか知らなかった彼の肺が、その香りを吸い込み驚愕に満たされる。
(……なんだ、この感覚は。頭の痛みが、和らいで……?)
彼はその香りに導かれるように音もなく進んだ。
そして、彼は「それ」を見つけた。
(……結界、か)
彼の目の前に、不可視の「壁」が立ちはだかった。
わたくしの「聖域」だ。
それは、魔王領の魔術師たちが張る攻撃的な魔力の結界ではない。
純粋な、金色の「浄化の光」そのものが、まるで温かい陽光のように渦を巻いて形成された、清浄な「領域」だった。
「……!」
魔王は、その結界に触れようとして寸前で手を止めた。
指先が光に触れる前に、焼けるような「痛み」を感じたからだ。
(……拒絶される)
彼の、瘴気を帯びた魔力と、この清浄な光は水と油。
彼の魔力がこの結界を「毒」だと認識し、彼自身がこの光を「異物」だと認識している。
(これほどの清浄なマナ……下手に触れれば、わたくし自身が浄化されかねん)
彼は結界の縁に沿って静かに移動した。
(この力……アステル王国の聖女のものとは比較にならん。あれが人の手で作った脆い「壁」なら、これは大地そのものから湧き上がる「太陽」だ)
そして、彼は、おぞましい光景を目撃した。
「グルオオオオオオッ!!」
結界のすぐ外側。
魔王が来たのとは別の方向から、一体の「魔獣」がのそりと姿を現した。
(……末期段階か)
魔王の紅い瞳が冷たく細められる。
それは、もはや元の動物が何であったかすら分からないほど醜悪に「異形化」していた。
アウトラインで示された通り、体長は大型の熊ほどもあるが、背中からは黒い甲殻と骨が「棘」のように突き出し、頭部にはねじくれた「角」が天を突いている。
その瞳は、理性を失った赤い光ではなく、瘴気そのものが凝縮したかのような虚無的な「闇」に沈んでいた。
救うべき精神などどこにも残っていない、浄化不可能な、哀れな成れの果てだ。
魔獣は、明らかにわたくしの「聖域」から放たれる清浄な光に引き寄せられていた。
獲物としてか、あるいはその光を本能的に憎んでいるのか。
「ギシャアアアアッ!」
魔獣は虚無的な瞳を憎悪に燃やし、異形の角を振りかざし、金色の結界に突進した。
次の瞬間。
「ギャアアアアアアアアアアッ!!」
魔獣の巨体が、まるで神の雷に打たれたかのように激しく痙攣した。
ジュウウウウウッ、と肉の焼ける音と、瘴気が蒸発する酸っぱい匂いが辺りに立ち込める。
金色の結界はびくともしない。
それどころか、結界に触れた魔獣の角と甲殻が、清浄な光によって「浄化」され、ボロボロと崩れ溶けていく。
(……浄化が、『毒』として作用している……!)
魔王は息をのんだ。
彼にとってさえ討伐するには骨が折れるあの末期段階の魔獣が、この結界にただ触れただけでこれほどのダメージを受けている。
この結界は、「瘴気に汚染されたもの」だけを自動的に、そして無慈悲に滅する力を持っているのだ。
「グルル……オ……」
魔獣は本能的な恐怖に数歩後ずさった。
その巨体はわたくしの聖域の光を浴びただけで全身から煙を上げ、その場に崩れ落ちそうになっている。
だが、その虚無的な瞳はまだ結界の向こう側を睨みつけている。中にある「何か」を激しく憎悪しながら。
魔王は、結界と苦悶する魔獣を冷静に見比べた。
(これほどの力……。一体、何者がこの結界の内側にいる?)
エルフの賢者か、古の竜か。どちらにせよ、アステル王国が関わっているとは到底思えなかった。
(この結界の主は、あの魔獣を指一本動かさずに退けている。わたくしが、あの魔獣の介錯にどれほどの魔力と時間を割いてきたと……)
彼は魔獣に気づかれぬよう気配を完全に消し、大木の影から結界の「内側」を、その紅い瞳で凝視した。
彼自身の運命が、そこにあるとでも言うように。
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