第11話 3-3:懸命な看病と「コハク」

瘴気の澱みは、想像以上に過酷な場所だった。

紫色の霧が、まるで粘り気のある液体のように体にまとわりつく。

(息が……苦しい)

わたくしの聖なる力が全力で瘴気を押し返しているのが分かる。体力の消耗が尋常ではなかった。わたくしの力の「盾」が、濃すぎる瘴気に押されて軋んでいる。

一歩進むごとに、鉛の靴を引きずるようだ。

(早く……! わたくしが限界になる前に……!)

わたくしは歯を食いしばり、ナイフで聖獣の足に絡みつく黒い蔦を切り裂いた。

そして、弱りきったその小さな体の下に、泥まみれの手を差し入れる。

その体は氷のように冷たく、小刻みに痙攣していた。

額の宝石は、先ほどよりも光を失い濁っている。

「……キュゥ」

わたくしが手を伸ばすと、聖獣は最後の力を振り絞るようにわたくしの手を噛もうとした。

だが、その動きにはまったく力がなく、歯はわたくしの厚い革手袋にこつんと当たっただけだった。

そのあまりの弱々しさに、わたくしの胸が締め付けられる。

「大丈夫。わたくしは、あなたを助けに来たの」

わたくしは革手袋を外し、素手になった。

そして、あの日、小川のほとりで草の芽に行ったのと同じように、わたくしの内なる金色の光を呼び起こす。

(わたくしの力を、この子に……!)

金色の光が、わたくしの手のひらから溢れ出した。

「……!?」

わたくしがその手を聖獣の体にそっとかざすと、聖獣はまるで熱湯にでも触れられたかのように、ビクッと激しく体を震わせた。

「キュウウウウッ!」

それまでとは比べ物にならない、甲高く苦痛に満ちた悲鳴が瘴気の澱みに響き渡る。

(だめ……!? 力が、強すぎるの……!?)

わたくしはパニックになり、思わず手を引っこめそうになった。

だが、すぐに理解した。

違う。

わたくしの金色の光は、瘴気を「浄化」する力。

今、この子の体表に泥のようにまとわりついている濃密な瘴気が、わたくしの光によって焼かれるようにして消滅しているのだ。

ジジジ、と瘴気が蒸発する嫌な音さえ聞こえる。

その急激な変化が、弱りきった聖獣の体に激痛として伝わっている。

(ごめんなさい、もう少しだけ耐えて……!)

わたくしは光の出力を、植物を相手にする時のように、もっと繊細に、もっと優しく調整する。

荒々しい炎のような光を、温かい春の陽だまりのような光へと変えていく。

わたくしの全神経が、その出力の調整だけに集中していた。

「……ぅ……ぁ……」

聖獣の悲鳴が、徐々に苦しそうな吐息へと変わっていく。

わたくしの光が、聖獣の体を覆っていた瘴気の泥をゆっくりと溶かし、浄化していくのが見えた。

黒ずんでいた毛皮が、徐々に本来の美しいクリーム色を取り戻していく。

(……これなら)

わたくしは聖獣の体を、エプロンで使っていた丈夫な麻布の予備袋でそっと包み込んだ。

そして、その小さな体を新生児でも抱きかえるかのように慎重に胸に抱き上げる。

(軽い……)

見た目の毛量に反して、その体は驚くほど軽かった。それだけ衰弱しているのだ。

「拠点に戻るわ。絶対に、あなたを死なせたりしない」

わたくしは聖獣を抱えたまま、一刻も早くこの瘴気の澱みを抜け出そうと、元来た道を引き返し始めた。

背後で、わたくしたちがいた場所の瘴気が、まるで獲物を奪われたかのように怒り狂って渦を巻く気配がした。

わたくしの「聖域」である洞窟にたどり着いた時、わたくしはもはや立っているのもやっとだった。

聖獣を抱えながら浄化の力を使い続けたせいで、体力も魔力(と呼ぶべきものかもしれない)も底をつきかけていた。

わたくしは洞窟の奥、いつもわたくしが眠っている枯れ葉を敷き詰めた寝床に、聖獣をそっと横たえた。

「キュ……」

聖獣はか細い息をしている。その体はまだ冷たい。

わたくしはすぐに焚き火の火力を強め、洞窟の気温を上げた。

そして、水袋から清浄な水を布に含ませ、聖獣の口元を湿らせてやる。

聖獣は舌を出す力もないようだったが、本能で水を求め、わずかにその唇を濡らした。

(まだ足りない。浄化が、足りないわ)

瘴気は体表から取り除いた。だが、あの澱みの息吹を吸い込み続けたせいで、この子の体の内側が弱りきっている。

このままでは、夜を越せないかもしれない。

わたくしはエプロンから、自作の薬草軟膏と薬草の種を取り出した。

(この子の体に、直接、清浄なマナを送り込む必要がある)

わたくしはわき目もふらず、洞窟の外の、わたくしが耕した「庭」へと飛び出した。

持っていた薬草の種(カモミールとレモンバームだった)を拠点の「浄化された土」に蒔き、そこに残された力を振り絞って注ぎ込む。

(お願い、育って……! この子の命のために!)

わたくしの願いに応えるかのように、瑞々しい緑の葉が目の前で勢いよく茂る。

わたくしは、その新鮮な葉をナイフで摘み取り洞窟へ駆け戻ると、二つの平たい石ですり潰し、清浄な小川の水で溶いた。

即席の「浄化薬」だ。

聖獣の口をこじ開け、その青白い液体を、一滴、また一滴と喉の奥へと流し込む。

「……っ……!」

聖獣の体が再び痙攣した。

だが、今度の震えは拒絶ではない。

その小さな体が、わたくしの薬の力を必死に吸収しようとしているのが分かった。

(……効いている!)

わたくしは、その夜、一睡もしなかった。

焚き火を絶やさぬよう薪をくべ、数時間おきに浄化薬を与え、そしてわたくしの金色の光を、今度はその額の宝石に優しく注ぎ続けた。

聖獣の体が、わずかに熱を帯びてきた。

(熱……? まさか、瘴気の熱……!?)

わたくしは一瞬、最悪の事態を想像した。

だが、違った。これは死に至る熱ではない。

(生きようとしている……! わたくしの力と、この子の生命力が、瘴気と戦っているんだわ!)

二日目の夜、聖獣の熱はさらに上がった。

「キュ……ゥ……」と、苦しそうなうわ言がその小さな口から漏れる。

わたくしは自分の焼いたイモを食べるのも忘れ、ただひたすらに濡れた布でその体を冷やし、浄化の光を送り続けた。

(お願い、元気になって……)

王宮の植物たちに注いでいた愛情が、今、すべてこの小さな命に注がれていた。

わたくしは、追放されて以来初めて、自分の「力」が誰かの「命」に直接関わっているという、重い責任と温かい使命感を感じていた。

そして、三日目の朝。

わたくしが疲労困憊で、焚き火の前でうたた寝から目覚めると、何かがわたくしの頬をくすぐったく舐めている感覚がした。

「……ん……?」

わたくしはゆっくりと目を開けた。

すると、目の前に、信じられないほど美しい黒曜石のような瞳があった。

わたくしを覗き込んでいる小さな顔。

「……!」

わたくしは息をのんだ。

聖獣が、わたくしの寝床から起き上がり、自らの足で立ち、わたくしの顔を心配そうに覗き込んでいたのだ。

あれほど濁っていた瞳は今は澄み切り、知性的な光を宿している。

額の宝石は、まるで磨き上げられたかのように温かい「琥珀色」の輝きを取り戻していた。

瘴気に汚れていた毛並みは、輝くようなクリーム色だ。

「……よかった……元気になったのね」

わたくしがそう呟くと、聖獣はわたくしの言葉を理解したかのように、「キュ!」と短く、しかし力強く鳴いた。

そして、わたくしの膝の上によじ登ってきた。

(……モフモフだわ)

わたくしは、その柔らかく信じられないほど温かい毛皮の感触に、思わず目を見開いた。

聖獣はわたくしの膝の上で丸くなると、わたくしの土で汚れた手袋に、自分の額の宝石をすり、と擦り付けてきた。

(……これは……感謝、してくれているの?)

わたくしがそっとその頭を撫でると、聖獣は心地よさそうに目を細めた。

わたくしは、この三日間の疲労がその温かさで一瞬にして溶けていくのを感じた。

「……あなたの額の宝石。とても美しい琥珀色ね」

わたくしはその聖獣に微笑みかけた。

「わたくしの名前は、エリアーナ。あなたは……今日から、『コハク』よ」

「キュイ!」

わたくしが名付けると、コハクはまるでその名前を気に入ったとでも言うように、嬉しそうに一声鳴いた。

わたくしの瘴気の森での生活に、初めての「家族」ができた瞬間だった。

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