第10話 3-2:瘴気の澱みと聖獣の瞳

三週目に入った日、わたくしは拠点の洞窟からいつもより遠くへ足を延ばしていた。

わたくしの「聖域」は豆の紫の花が咲き、生き生きとした緑に満ちている。だが、その一歩外は、変わらず黒と紫の絶望の森だ。

目的は、新しい薬草の発見。わたくしが持ってきた種はあくまで「鎮静」や「殺菌」といった基本的なもの。この森の魔獣の爪が持つかもしれない「呪い」や、未知の毒に対抗するには、この土地で進化した、より強力な植物が必要だった。

水袋は清浄な小川の水で満たし、エプロンには焼いたイモと煎ったクルミを携帯食として詰め込んでいる。

右手に剪定ばさみ、左手には杖代わりにもなる硬い樫の木の枝を握りしめている。

(今日は、あの小川の上流を調べてみましょう)

水源が森の外にあることは分かっている。だが、その清浄な水がこの瘴気の森を通過する間に、どのような植物を育んでいるのか知りたかった。

小川に沿って歩けば、万が一迷っても拠点に戻ってこられる。サラサラという水の音は、わたくしの唯一の道しるべであり、心の支えでもあった。

小川の周囲は、わたくしの拠点と同じように瘴気が比較的薄かった。

だが、聖域から離れれば離れるほど、その「安全地帯」は川岸ぎりぎりの、ほんの数メートル幅にまで狭まっていく。

黒くねじくれた木々が、まるで清らかな水を憎むかのように川面に向かって枝を伸ばし、紫色の霧がわたくしのすぐ背後まで迫っていた。

(……嫌な空気)

一時間ほど歩いた頃だろうか。わたくしは、ある地点で足を止めた。

それまで聞こえていた小川のせせらぎが急に緩やかになり、淀んだ音に変わった。

そこは、小川が大きく蛇行し、流れが堰き止められたようになっている場所だった。

そして、その淀みの周囲は、森の他のどこよりも瘴気が濃く、まるで紫色の泥が溜まっているかのように空気が重い。

(瘴気の澱み……)

わたくしの無意識の「浄化の盾」が、その濃密な瘴気に押され、肌がピリピリと痛むのを感じる。

わたくしの力が、この場所の「異常」を警告していた。

黒くねじくれた木々が折り重なるように倒れ込み、行く手を阻んでいる。

(こういう場所には、強力な毒草か、あるいは……)

わたくしは、倒木の表面に残る生々しい爪痕を見つけた。

(……魔獣の巣)

それも、先日罠で見つけたキツネのような初期段階のものではない。もっと巨大で、強力な何かの気配。

わたくしは息を潜め、五感を研ぎ澄ませた。

風の音も水の音も、ここでは瘴気の唸りに飲み込まれている。

静かすぎる。

(……戻ろう)

これ以上進むのは危険だ。わたくしの知識が、生存本能が、そう判断した。

わたくしは、音を立てぬようゆっくりと後ずさった。

まさに、その時だった。

「……キュ……ゥ」

か細い、鳴き声が聞こえた。

(!)

わたくしは、その場に凍りついた。

(……今の、は)

瘴気が立てる風の音か? いや、違う。

わたくしは息を止め、耳を澄ませる。

「……キュ……」

今度は、はっきりと聞こえた。

獣の鳴き声だ。

だが、わたくしがこれまで夜間に聞いていた、あの地を這うような魔獣の咆哮とはまったく違う。

それは、まるで赤子が助けを求めるような、苦痛に満ちたか細い声だった。

(……罠、かもしれない)

魔獣が、小動物の鳴き声を真似て獲物をおびき寄せている?

わたくしの心臓が恐怖で激しく脈打つ。

生存本能は「逃げろ」と叫んでいる。

だが、わたくしの園芸師としての本能が、「何かが死にかけている」と足を縫い止めた。

わたくしは剪定ばさみを構え直し、ゆっくりと音のする方へ近づいた。

折り重なった倒木と、毒々しい紫色の『死の涙』の群生。

その、最も瘴気が濃い影に、それはいた。

「……まあ」

わたくしは、思わず声を漏らした。

それは、一匹の動物だった。

キツネほどの大きさだろうか。だが、キツネではない。

全身が、陽光を吸い込んだかのような、クリーム色にも似た柔らかそうな真っ白な毛で覆われている。

その体が、瘴気の澱みから湧き出す黒い泥の中に半ば埋もれていた。

そして何よりも目を引いたのは、その額。

瘴気の中でもぼんやりと、しかし確かに光を放つ、美しい「琥珀色(こはくいろ)」の宝石が埋め込まれていた。

だが、その光は、まるで消えかけの蝋燭のように弱々しく明滅していた。

(……聖獣? まさか、カーバンクル……?)

王宮の禁書庫で読んだ、お伽噺にしか出てこない存在。

清浄なマナを好み、人に幸運をもたらすという伝説の聖獣。

その聖獣が、なぜ、この国で最も不浄な瘴気の森の澱みに……?

わたくしの気配に気づいたのか、聖獣は苦しそうにゆっくりと顔を上げた。

その瞳を見て、わたくしは息をのんだ。

(目が……赤くない)

わたくしが罠で見た、あの理性を失ったキツネの血走った赤い目ではない。

その瞳は、濡れた黒曜石のように深い黒色。

ただ、その瞳は瘴気の苦痛によって深く濁り、知性的な光が消え、絶望の色だけを浮かべていた。

「キュゥ……ゥ……」

聖獣はわたくしを威嚇する元気もないようだった。

その真っ白な毛皮は瘴気の泥に汚れ、ところどころ黒ずんでいる。

わたくしはすぐに状況を理解した。

(この子は、魔獣じゃないわ。瘴気に『侵されて』いるのではなく、瘴気に『当てられて』、弱っているんだわ……!)

清浄なマナを好む聖獣が、何らかの理由でこの瘴気の森に迷い込み、この最悪の「澱み」にはまり込んで動けなくなってしまったのだ。

わたくしは一瞬ためらった。

ここは魔獣の縄張りかもしれない。わたくしの力が動物にまで通用するのか分からない。

そして何より、この濃密な瘴気の中で力を使えば、わたくし自身がどれほど消耗するか。

もしこの子を助けようとしてわたくしが動けなくなれば? あるいは、力の匂いを嗅ぎつけてあの爪痕の主が戻ってきたら?

わたくしの命も、ここまでだ。

わたくしは、無意識に一歩後ずさった。

カサリ、とブーツが枯れ枝を踏む。

その音に、聖獣はビクッと体を震わせた。

そして、わたくしを拒絶するのでも威嚇するのでもなく、ただ諦めたように小さく鳴いた。

「……キュ」

まるで、わたくしが育てていた植物たちが、水が足りずに枯れていく間際にあげる、あの「声」と同じだった。

聖獣はゆっくりと目を閉じ、額の宝石の光がふっとさらに弱くなった。

わたくしは、その瞬間、すべての打算を捨てていた。

(……見過ごせない)

王宮で植物たちの声を聞き、その苦しみを取り除いてきたわたくしの本能が叫んでいた。

目の前でか細い命が苦しんでいる。

それを救う知識と力が、わたくしにはある。

ならば、手を伸ばさない理由などどこにもなかった。

「……今、助けてあげるわ。少し、我慢なさい」

わたくしは自分でも驚くほど落ち着いた声で聖獣に話しかけていた。

恐怖は消えていない。だが、それ以上に園芸師としての「使命感」がわたくしの全身を支配していた。

わたくしは剪定ばさみをエプロンのベルトに差し、園芸用ナイフを利き手に持ち替えた。

(この子を絡めている、あの黒い蔦を切らなければ)

わたくしは自らの内なる金色の力を、今度は「盾」として意識的に体の前面に展開させた。

紫色の瘴気がわたくしの力に触れ、ジリジリと焦げるような音を立てて後退する。

(……消耗が激しい。でも、やるしかない)

わたくしは、わたくし自身の力で作り出した小さな「聖域」と共に、瘴気の澱みの中へと足を踏み入れた。

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