第8話
春風が山里の木々を揺らし、獣人族の村に一年で最も華やぐ季節が訪れた。
「春の大獣祭」――豊かな狩猟への感謝、村の繁栄、そして子どもたちの健やかな成長を祈るための大祭だ。
村の中心では、赤と金の布をまとった柱が立てられ、周囲には香草を束ねた飾りが風に揺れている。
広場には朝から村人たちが集まり、毛並みを整え、色鮮やかな装飾を身につけていた。
カインはというと、まだ“祭りの装束”に着替えたばかりだった。
「……これ、似合ってるのか?」
人族用に用意された服は、獣人族よりも軽く布地の多い、青を基調としたもの。
肩に金糸の編み紐、腰には細い帯が巻かれている。
広場の端で控えていたリィナが、そっと近づいてきた。
「とても、似合ってますよ。カイン」
リィナは耳の横に白い花飾りをつけ、胸元には刺繍が施された淡い桃色の衣装をまとっている。
獣人特有の尻尾がふわりと揺れ、どこか落ち着かない様子で手をそわそわ動かしていた。
「よかった。こういう儀式ごとは慣れてなくてな……」
「ふふ、私も変わりません。今日は特別ですから」
村長リオルが高台に現れ、大きく息を吸い込んだ。
「――さあ、村のみんな! 今年も《春の大獣祭》を始めよう!」
その声は風に乗って山々に響き渡った。
村人たちがざわめきを止め、静かに広場中央に集まった。
リオルは手に「狩杖」と呼ばれる儀式用の杖を握りしめ、ゆっくりと掲げる。
「森よ、風よ、土よ、我らが命を守りし古き友よ――
今年も我らに道を示し、力を分け与え給え」
祈りの言葉に合わせ、獣人たちの耳が一斉にぴくりと動いた。
カインは静かに見守りながら、胸の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。
「……すごい一体感だな。まるで森そのものが息をしているみたいだ」
リィナは小さく微笑む。
「これが、獣人族の“始まりの祈り”なんです。
狩りを生業とする私たちにとって、とても大事な儀式で……」
彼女の言葉には誇りと、少しだけ懐かしさが滲んでいた。
祈りのあと、村では太鼓が鳴り響いた。
ドン、ドン――太いリズムが空気を震わせ、子どもたちが跳びはね、若い獣人たちが円形に並び始める。
「では、今年の“春の輪舞”に参加する者は前へ!」
リオルの声に合わせ、村の若者たちがぞろぞろと広場中央へ向かう。
カインがきょとんとしていると、リィナが袖を引っ張る。
「あの……カインも……出ませんか?」
「俺が? 踊りなんてできるかどうか……」
「大丈夫です。ゆっくり足を動かすだけですから。それに……」
そこでリィナは言葉を飲み込み、顔が赤くなる。
「……カインと、一緒に踊りたいですから」
その直後。
「ほぉ~~? リィナがそんな顔するなんて珍しいわねぇ」
どこからともなく、サリナが割り込んできた。
姉らしい鋭い目つきでリィナを見つめ、尻尾でリズムを刻みながらニヤニヤしている。
「まさかとは思うけど……カインを指名しようとしてる?」
「お、姉さま、ち、違……違いませんけど!」
顔を真っ赤にするリィナ。
カインが苦笑しながら間に入る。
「踊るくらいなら、俺は別に構わんよ」
「っ!!」
リィナの耳がピンと立った。
「でも、サリナ。祭りの踊りってそんなに大事なのか?」
「大事よ~。踊りの相手ってのは、“今年の狩猟を共にする相手”って意味があるの。
まぁ、恋人になることも多いけど?」
「ちょ、ちょっと姉さまっ!?」
リィナが慌てて耳を伏せる。
カインが少し目を丸くした。
「……そ、そうなのか?」
「別に、全部が全部じゃないけどねぇ~。ふふっ」
サリナはわざとらしく肩をすくめながら、リィナをじろり。
「さて。カイン。あなたを指名するのは……誰かしらね?」
リィナの尻尾がぶんぶんと揺れ、決意したように一歩前へ出た。
「……カイン。よ、よければ……一緒に、踊ってください」
カインは迷わず頷いた。
「もちろん。リィナがいいなら」
リィナの頬は桃色に染まり、サリナは「はいはい、ごちそうさま」と呆れながらも微笑んだ。
太鼓の柔らかなリズムと、笛の伸びやかな音が重なり、
輪舞(りんぶ)がゆっくりと始まった。
ペアが向かい合い、足取りを合わせながら円を描くようにステップを踏んでいく。
カインとリィナは少しぎこちないが、息を合わせようと必死だ。
「カイン、もう少し左に……!」
「こうか?」
「はい……そのまま……上手です!」
リィナは嬉しそうに尻尾をぱたぱた揺らす。
その仕草があまりにも素直で、カインは少し照れながら歩調を合わせた。
焚火のゆらめき、春の草花の匂い。
それらが重なって、どこか夢のような時間が流れていく。
――そんなとき。
輪の外で見守っていたサリナの耳がふとぴくりと動いた。
「ん……? あぁ、春風か」
風向きが変わり、甘い草花の匂いと若葉の香りが流れ込んでくる。
サリナは目を閉じて深く吸い込む。
(この匂い……懐かしい。子どもの頃、母さまと踊った春祭りもこんな風だったな)
ほんのりと頬がゆるむ。
まるで、季節そのものが祝福しているかのような、穏やかな風だった。
リィナは踊りの最中、姉の表情に気づき、小声でカインへ囁く。
「……姉さま、優しい顔をしています。風の匂いを楽しんでいるのかな」
「サリナが? ……珍しいな」
カインも踊りながらサリナをちらりと見る。
いつもより柔らかい彼女の横顔に、思わず微笑んだ。
風がもう一度吹き、村の飾り布がしゃらりと揺れる。
色とりどりの布が風に踊り、祭りの輪舞にそっと重なるように舞い上がる。
サリナはその光景を見て、静かに呟く。
「……いい風ね。今年の春祭りは、きっと素敵になるわ」
太鼓の音が穏やかに響き、笛の旋律が風の音と溶け合う。
村の春の祭りは、平和そのもの――
幸福な空気に満ちたまま、ゆったりと夜へと続いていった。
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