告別式

 部屋に戻ると、怒涛のような1日の疲れは相当なものだったようで、ベッドに倒れ込むようにして眠ってしまった。


 いろいろな感情が、頭と心の中でぐちゃぐちゃに絡まり合っている。


 それを、ただ眠ることで整理したかったのだと思う。



 どのくらい眠っていたのか、分からなかった。


 時計の針は、夕方を指していた。


 1回目と2回目の間の、間隔の空いたノックの仕方。



 矢吹だ。


「彩お嬢様。


 お目覚めでございますか」


「皆様、長旅に備えてお休みになっていらっしゃいます」


 その言葉で、ピンときた。


「そろそろ日本に帰るのね」


「ええ、いつまでもここにいるわけにも参りませんので。


 藤原さまの葬儀と告別式も、行わねばなりません」


 その言葉に、小さく息をつくしかなかった。


 そうね。


 死の間際に、必死に証拠品を守ったのだものね。


 宝月家の執事として、最高の誇りよ。


「ロイヤルミルクティーをお持ちいたしますので、お待ち下さいませ」


 さすが矢吹ね。


 何も言わなくても、今はとびきり甘い飲み物が欲しい気分なの、分かってるなんて。


 ふと、ベッド横のサイドテーブルに置かれていた封筒に、目が留まった。


【彩お嬢様へ】



 封筒には、こう書かれていた。


 ハネがやけにしっかり書かれたその文字。


 藤原の筆跡。


 何よ、これ。


 再びのノック。


「ミルクティーね。


 入っていいわ」



「彩お嬢様、失礼いたします」


 サイドテーブル横にミルクティーを置こうとして、彼は私が封筒を手にしていることに気付いたようだ。


「そちらの封筒は、先程美崎さまより預かりました。


 何でも、病室の金庫に大事にしまわれていたようです。


 ちなみに、彩お嬢様の誕生日だったそうですよ、その金庫のダイヤルキーは」


「美崎から?」


 封筒を開けると、便箋が入っていた。



 途中から、涙で滲んで文字が読めなくなった。



『彩お嬢様



 突然、あなたの執事を辞めてしまって申し訳ありません。



 お嬢様は、全く気付いておられなかったようですが、私は小さい頃から、気管支喘息を患っておりました。


 しかし、その症状は治まるどころか年々悪化し、執事を辞めなければならなくなりました。



 辞めるにしても、彩お嬢様に心配をかけたくなかったのです。


 だから、旦那さまに辞表を提出する際、旦那さまに念を押しました。


 私の病気のことは、お嬢様だけには伝えないでくれ、と。



 そう言いながらも私は、彩お嬢様のことが心配でございました。


 そこに、彩お嬢様のご学友、美崎さまに遭遇したのです。



 と言っても、行き場を無くしたとき、彼女の義母に反強制的に連行されたのでございますが。



 美崎さまは、


「私の義母は、彩を陥れる計画を考えている。


 彩の元執事なら、彩を監視して様子を伝えて。


 彩に……危険が及ばないように。


 貴方の身体のことも考えて、それが貴方に出来る最高の仕事だと思うわ」



 と言われました。



 美崎様の家から、彩お嬢様のお屋敷をハッキングいたしました。


 その技術は、城竜二家の人間から教えられたのでございますが。



 彩お嬢様のことは、遠くから眺めるだけで、満足でした。


 しかし、あのテーマパークのホテルでは、どうしても見ていられなくなりました。


 転びかけたお嬢様を助けるという、出過ぎたマネをしてしまい、申し訳ございませんでした。


 やがて、監視の仕事もできないくらいの発作に悩まされるようになり、美崎さまの勧めで入院することになりました。


 このままでは肺にまで重大な影響を及ぼすということで、絶対安静を心がけろと言われました。


 また、万が一にも彩お嬢様が狙われる可能性も排除いたしたく、関係者以外、面会謝絶としました。


 それでも、医師の権限を使って、野村はたまに面会してくれました。


 その際、彩お嬢様のことも報告してくださって、嬉しかったです。



 相手は城竜二です。


 私と美崎さまは、義母の計画について、たまに

 筆談で話しています。


 この様子すら、ハッキングやらをされているとしても、おかしくはありません。


 この行動ですら、命を奪われることも、あるのですから。



 彩お嬢様。私の身に何があっても、悲しまないで下さい。


 いつも、彩お嬢様の心の中におります。


 私は、彩お嬢さまの笑顔が一番好きですから。



 藤原 拓未』



 もう、涙は溢れないと思っていた。


 それなのに、身体の水分が全てなくなるんじゃないかと思うくらい、瞳からはとめどなく水滴が溢れた。


 封筒を胸に抱えたまま、私はしばらくその場から動けなかった。


 涙で文字は滲んでも、藤原の声だけは驚くほど鮮明で、胸の奥に静かに、けれど鋭く突き刺さっていた。


 窓の外では、フランスの夕暮れがゆっくり色を変えていた。


 その穏やかな変化さえ、まるで遠い国の出来事のように思えた。


 私はただ、手紙の余韻に揺れながら、その場に取り残された子どものように、静止していた。


 夜が深まるころ、矢吹がそっと告げた。


 ベッド横のテーブルには、ハーブティーを置いてくれた。


「明朝には日本に戻ります」


 返事をした記憶はない。


 ただ、意識のどこかで頷いた気がする。


 翌朝、機内の薄暗い照明の下で瞼を閉じる。


 フランスの乾いた空気と、日本の湿った空気が

 胸の奥で混ざり合い、苦しくなるほど締め付けられた。


 景色は流れていくのに、時間だけが止まってしまったようだった。


 気づけば、窓の外は、最後の、夏の盛りとでもいうべき太陽が照らしていた。


 日本に戻ってきたのだと、唐突な現実がゆっくりと背中にのし掛かってきた。


 そして――藤原の告別式は、その翌日、静かにやってきた。


 黒のサテンワンピースを矢吹に用意してもらい、相沢さんが運転する車に乗り込む。


 人生で初めての告別式と葬儀。

 

 胸の奥には、重く、湿った、言葉にならない恐怖があった。

 

 この儀式を終えたとき、いつか藤原を“完全に忘れてしまう日”が来るのではないか──


 そんな思いが、何よりも怖かった。


 弔辞はうまく言えなかった。


 喉が絞られるように震え、胸が締め付けられ、言葉は喉の奥で詰まったまま。


 声を紡ごうとするたび、嗚咽が胸を突き上げ、言葉は泡のように消えてしまった。


 席に戻ると、涙が止まらなかった。


 肩は小刻みに震え、膝の上で握った両手にはとめどなく水滴が落ちた。


 でも、その涙はきっと、藤原のためだけではなかった。


 うまくできない自分への悔しさと、どうしようもない無力感が混ざり合った、


 そんな涙だった。


 棺に菊の花を入れる瞬間、背後から弟の声がした。


「姉さん。いつまでも泣いてるなって。


 気持ちは、十分すぎるくらい分かってるからさ。


 もう、最後なんだぞ?


 藤原さんに会えるの。


 笑顔でいてやれって。な?」


 泣きすぎて、矢吹に綺麗にしてもらったメイクはとっくに崩れていた。


 それでも、今の私にできる精一杯の笑顔を作った。


 告別式は終わり、会場を出ると、空は鉛色に沈み、冷たい雨が落ち始めた。

 

 納骨のために移動した霊園の道すがら、雨粒は傘を打ち、私の頬をも濡らした。


 胸の奥の痛みと、涙で濡れた頬とが混ざり合い、止まらない悲しみが全身を支配する。


「お嬢様?」


 遠くで矢吹の声がした。


「雨も強くなって参りました。


 風邪をひきますゆえ、早くリムジンにお乗りください。


 お嬢様? 


 彩……さ──」


 私は言葉にならず、ただ矢吹に抱きついた。

 

 こうして誰かにすがることでしか、心の落ち着きを取り戻せなかった。


 そのとき、お寺の方が小さな石のかけらを差し出してきた。


「宝月 彩さま……ですね?


 藤原 拓未さまのご遺骨を焼いた際、このかけらだけが燃え残ったのです。


 受け取ってあげてください。


 きっと……故人からのメッセージなのでしょう」


 矢吹がそっと説明する。


「これは……パワーストーン、モルガナイトでございます。


 愛のエネルギーに気付くこと、今を生きる大切さ……


 悲嘆や心理的な痛みを癒す、とも言われております」


 藤原……。


 最期まで、私の心を揺さぶる罪な人。

 

 でも、この小さな石が、今の私には必要だった。


 胸の奥の悲しみと向き合いながら、私は小さく頷いた。


 藤原のためにも──私は、生きていかなきゃ。

 

 強く、前に。



 葬儀から帰った頃には、とっくに日付が変わっていた。



「眠いわ」



 そう言ってはみたものの、今夜は眠れそうにないなと思った。



 いつもの、天蓋付きベッドに横たわっても、眠れなかった。



 どうしても、藤原のことが思い出されてしまうのだ。


「ぐすっ……」


 堪えていたつもりの涙が、温度ごと溢れ出した。


 コン、コン


 1人だった部屋に、ノックの音が響いた。



「俺だよ。


 麗眞。


 矢吹さんじゃなくて悪かったな」




「麗眞……?


 何……?」



「姉さんのことだから、眠れないんじゃないかなって」



 そう言ってから、部屋に入ってくる。




「寝ろって。


 俺が一緒にいてやるから」




「それは別にいいわよ。


 もう子どもじゃないのよ。


 でも、椎菜ちゃんはいいの?


 私なんかと一緒にいたら、彼女が妬くのではなくて?」



「姉さん、何か勘違いしてね?



 椎菜とは何もないって。


 あの奈留さんが優勝した祝賀会の日以降、しばらく会えてないんだ。


 向こうも忙しいんだろ。


 獣医やりながら大学の教授もしてるし。


 俺の高校の友人の深月みづきちゃんみたいに、何足もわらじ履いてよ。


 椎菜、昔から身体が丈夫じゃないからな。



 体調崩してぶっ倒れてないか、それだけが心配だ。


 元気なんだろーな、アイツ」


 まったく。



 この弟は、私を励ましたいのか、愛しの椎菜ちゃん愛を語りたいのか、どっちなんだろう。


 そんなに気になるなら、連絡するか会いに行けばいいじゃない。


 まぁ、その"いつも通り"が、今は心地よかった。


「とにかく、変なことしないでよ?」



「するかよ。


 何度も言ったろ。


 俺が抱きたいのは椎菜だけ。


 ってか、椎菜のこと思い出させるなって。


 姉さんも分かってないのな」



 何でかな……麗眞が来たから?


 少し……気分が楽になった気がする。



 そんな雰囲気を壊すかのように、内線が鳴った。



「お。


 俺出るわ」



 しばらく電話の向こうの相手と親しげに話していた麗眞は電話を切ってから言った。



「何だって?」



「親父から呼ばれたの。


 今更俺に何の用だよ。


 電話でいいだろ、めんどくせーな。


 行ってくるから、待ってろ」



 それだけを言って、部屋を出て行った麗眞。



 何よ……


 麗眞まで行っちゃうの?



 またひとりぼっちじゃない。



 そのとき、扉の向こうから、遠慮がちなノックの音が。



「彩お嬢様?


 そっとしておこうと思ったのですが……


 やはり心配だったもので」



「入っていいわよ」



「お嬢様。


 やはり、お休みになっておられなかったようですね……」



「悪いのかしら」



「いいえ。


 麗眞さまの前でも、お泣きになっていらっしゃらなかったようで、ご立派でした」



「まあね。


 いくらなんでも年下の前では、さすがに泣けないわよ。



 ただ……矢吹の前では別よ?


 温かいから。


 貴方の胸でなら、思い切り泣ける気がするの」



「どうぞ。


 悲しいことがおありのときは、思いきり泣くのがよろしいかと。




 気の済むまで、思いの丈を吐き出すのがいちばんてす」



 矢吹が優しく抱き寄せてくれた。


 その温もりにただ身体を委ねて……


 思いきり泣いた。


「好きだったの、藤原のこと。


 執事だとか、関係なく……


 忘れたくないよ……


 初めてだったの、初恋だったの……!


 この人にならキスとか、されてもいいって思えたの、初めてだったの……」


 言えなかった想いを、矢吹に吐き出した。


 鼻水で言葉が途切れるのも、嗚咽で咳き込むのも構わず、ひたすら泣いた。


 そのとき気づけるはずもなかった。


 扉の向こうに、唇を噛みしめて立ち尽くしている人がいることも。


 それが──麗眞だったことも。




 泣いている合間に、矢吹が何か言ってくれた言葉さえも、何も耳に入ってこなかった。


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