贖罪

 病室の静けさを破ったのは、突然のモニターの音だった。


 それを聞いた瞬間、私たちは一斉に振り返った。


 ベッドの上で、奈留の指先が微かに動いた。


 詩織が一歩前に出た。



「奈留ちゃん……?」


 その声が部屋に響くと、奈留の瞳がわずかに開き、霞がかかった視界で私たちを見つめた。


「……お義母さん……?」


 その声に、詩織は涙を流しながら、強く奈留の手を握った。


「奈留ちゃん……よかった……! 


 本当に良かった!」


 一方、雅志は言葉を失い、ただただその光景を見守っていた。


 涙をぬぐいながら、奈留の顔をじっと見つめる雅志の目。


 それは今まで見たことのないほど穏やかだった。


 その瞬間、奈留の微かな笑みが見えた。


「雅志……これから私、どうなっちゃうんだろう……?



 もう、私と雅志の赤ちゃん、いないんだよ……!」


 その問いに、雅志はすぐに答えることはできなかった。


 けれど、彼の目が語った。


『大丈夫だよ。


 君の未来は、もう俺が守るから

 何があっても』


 それは、言葉にしなくても、彼女に届いていたはずだった。



「……奈留!」


 病室の扉が開いて、姿を見せたのは、産婦人科医としてのプロフェッショナルな仮面を脱ぎ捨てた、三咲朱音だった。


 彼女はまだ意識が戻ったばかりの奈留の手を、ぎゅっと握った。


「お母さん……」


「娘にも、同じ思いはさせまいと、産婦人科医を選んだのに。


 母親失格ね。


 本当は、貴方にも兄か姉がいるはずだったのよ。


 私が睡眠薬自殺未遂なんてしていなければね」


 その場の空気が、ぴんと張り詰めた。



 私は息を呑んだ。


 朱音先生が、そんな顔をするなんて。


 あの人はいつだって、鋼みたいに冷静で。


 誰よりも強い人だと思っていたのに。


「……ごめんなさいね、奈留」


 声が震えていた。


「私はね、自分の弱さで一度、子どもを失ったの。


 その罪を一生抱えて生きていく覚悟で医者になったのよ。


 それなのに……娘のあなたにまで、同じ痛みを背負わせるなんて」


 奈留は、細い指をゆっくりと動かし、朱音先生の手を握り返した。


「……お母さんのせいじゃ……ないよ」


 かすれた声が漏れた瞬間、朱音先生の表情が崩れた。


 泣くところなんて、初めて見た。


「違うのよ。


 あなたの胎児は……助けられなかった。


 私がどれだけ医者をやっていても、母親としては、何も守れなかったのよ」


 朱音先生の涙が、奈留の手の甲に落ちた。


 私は息をするのも忘れて、その光景を見つめていた。


 あまりにも、静かで、残酷で、優しい時間だった。



 奈留は、まるで壊れ物を扱うみたいな弱い力で――それでも確かに、朱音先生の手を握り返した。


「……お母さん」


 かすれた声だった。


 けれど、そのたった5文字が、部屋の空気を震わせた。


「私……赤ちゃん失ったの、すごく、すごく……辛いよ。


 でも……私、責められないよ、お母さんのこと。


 分かるもん。


 私も、同じだから」


 朱音先生の肩がびくっと震えた。


「奈留……」


「だって……」


 奈留の瞳からぽたりと涙がこぼれた。


 声は震えていて、息を吸うたびに苦しそうだった。


「だって私も、守れなかったんだもん……


 お母さんが昔どんな思いしたか、想像したら……

 ……責められるわけ、ないよ……」


 泣きながら、それでも誰かをかばうように言う。


 ――ああ、この子は本当に、優しすぎる。


 私は拳を握りしめた。


 朱音先生は一歩、奈留の枕元へにじり寄り、娘の額にそっと触れた。


「奈留……


 あなたまでそんなふうに自分を責めないで」


 その声は、医者のものではなかった。


 子どもを一度失い、またもう一度失いかけた母親の声だった。


「今こうしてあなたが生きて私の手を握ってくれていることが……


 それが、何よりも救いなのよ」


 奈留は小さく首を振った。


「……生きてるよ、お母さん。


 だから、これから……一緒に生きる方向考えたい。


 やりたいこともいっぱいあるから」


 朱音先生は堪えきれずに泣き出した。


「奈留……


 ありがとう……


 ごめんなさい……


 本当にごめんなさい……」


 母と娘が静かに過去の贖罪をぶつける。


 その横で、雅志が口元を押さえて、ただ必死に涙を堪えていた。


 あの強い男が、誰よりも小さく見えた。


 詩織さんは黙ってその肩にそっと触れた。


 雅人さんでさえ、厳しい表情をくしゃりと崩したまま目を伏せていた。


 私はその光景を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ――ああ。


 家族って、こういう瞬間に本当の形になるんだ。


 そして、私は知っていた。


 ここからが本当の家族の始まりだということを。


 奈留も、雅志も、朱音先生も。


 失ったものの大きさに押しつぶされながら、


 それでも手を伸ばして――今、確かに繋がっている。


 誰もが傷ついているのに、その手は温かかった。


 私は小さく息を吸い、静かに心の中で呟いた。


 ……大丈夫。

 ここからは、私も一緒に支えるわ。


 そして――奈留が震える声で、ゆっくりと朱音先生を呼んだ。


「……お母さん……



 手……離さないで……」


 朱音先生は、涙で濡れた笑顔で頷いた。


「離さないわ。


 もう二度と」


 病室の光が静かに揺れ、その声は、確かに未来へ向けて結ばれていった。



 確かあれは、高沢 たかざわ あきらといったか。


 私に体力が限界そうだから空き病室で休めと言った男性医師。


 彼が、ふと視線を緩めてこちらを覗いていた。


 この表情は、木漏れ日みたいに柔らかかった。

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