予感

 それから、2週間が経った頃。


 突然、私の携帯が鳴った。


 国際電話だ。


 画面に映る名前は──パパ。


「パパ? 


 急に私に電話なんて、どうしたの?


 今、アメリカにいるんじゃないの?


 MLBを楽しんでいるはずよね、シーズン中なのだから」


『いや、その予定だったんだが……


 急なスポンサー会議でパリに飛んでいたんだ。


 目玉のオールスターゲーム見逃したよ。


 まったく、最悪だ」


 パパらしくない愚痴に眉をひそめたけれど、その直後、声のトーンが変わった。


 まぁ、その話は後だ。


 でな、彩。


 偶然にも、街中で奈留さん──三咲奈留を見かけたんだ。


 彼女は、今パリの病院で獣医としての研修中だろう?』


「ええ。


 そう聞いているわ」


 君の病院の獣医、三咲奈留さんが事件に巻き込まれた。


 男に暴行されて、病院に運んだところだ。


 突然殴られて、転倒したらしい。


 そこで診た担当医から、彼女が妊婦だと告げられた。


 激しい腹痛を訴えていたから、流産の可能性もある』


「……ちょっと待ってよ。妊娠なんて、一言も聞いてないわ」



 奈留ちゃん……どうして言ってくれなかったの。


 あの宝月家の旅行で“そういうこと”があったなら、可能性は否定できない。


 でも――妊娠を隠して、一人で耐えていたなんて。



 私はパパの言葉を聞き終わると、すぐに電話を切った。



「矢吹、すぐに北村動物病院にチャーター機を手配して。



 奈留は今、精神的にも肉体的にも限界よ。


 一番そばにいるべきなのは、彼女の夫の雅志だわ。


 首根っこを引っ掴んででも、連れてくるのよ」


 彼女は冷静に命じたが、心の中では奈留のことが気になって仕方なかった。



 あの子には、獣医師コンテストで鬼軍曹のようなスパルタ指導をした負い目がある。


 奈留が無事であることを確認するためには、何としてでも今すぐにでも動く必要があった。


 生理のピークは過ぎたが、まだ身体は重い。


 それを引きずってまで、動く価値はある。


 いや、動かなければならない。


「すぐに手配いたします」


 矢吹は微動だにせず答え、静かに動き出す。


 その背中を見ながら、小さく息をついた。


“やっぱり、私にはこの人がいる――”



 自然と微笑みが浮かんでしまう。


 どこまでも、頼りになる人。


「私どもは、奈留さまのご自宅へ急ぎましょう。


 何かしら、日記等に妊娠のことを記入しているやもしれません」


「そうね。


 急ぐわよ」


 研修中は、病院の隣のアパートを間借りしていた彼女。



 机の上に目を向けると、まず書きかけの中絶同意書が目に入った。


 その隣には、奈留が書いた日記があった。


 ページを開くと――奈留が抱えていた不安が、丁寧に綴られていた。



『——雅志、最近ずっと悩んでる。


 実家の病院を継ぐべきか、私と一緒に動物病院を開く夢を選ぶべきか……。


 ただ、医師免許は持っていない。


 どっちが正しいなんて、私は決められない。


 私のせいで迷わせてるんじゃないかって思うと、余計に胸が苦しくなる。


 それでも私は……あの人の夢を応援したい。


 彼が自分の選んだ道で笑ってくれるなら、それが一番だと思う。



『——生理が来ない。


 ただの遅れだと思いたかったけど……


 検査薬、陽性だった。


 頭の中が真っ白になって、しばらく動けなかった。


 雅志には……まだ言えない。


 あの人、実家の病院のことで悩んでるのに。


 私のことでこれ以上迷わせたくない。


 それでも、ノートの端っこに名前を書いてしまった。


 もしこの子が生まれてきたら、って……。


 書いたあと、涙が止まらなかった』


 私は日記のページを開いたまま、しばらく動けなかった。


“妊娠を隠して、一人で苦しむ”


 その状況が、どうしてもあの日を思い出させた。


 嫌でも、脳内に映像が蘇ってきた。


 私の弟の麗眞がカナダに渡って3ヶ月後の、あの日のことが。


 その日は、たまたま私が本業の経営講義をしていたため、ずっとスマホの通知を見ていなかった。


 椎菜ちゃんからのメッセージが、一言だけ画面に浮かんでいた。


『私、妊娠しました。


 間違いなく、麗眞との子です』



 呼吸の仕方が、一瞬分からなくなったくらいの衝撃だった。



 こんな思いを、もうしたくないと思っていたのに。



 今度は、奈留ちゃんか。


 頭がふわっと揺れて、視界が少し滲んだ。


 身体がぐらりと傾いた瞬間、強い腕が私を支えた。


「大丈夫でございますか、彩お嬢様。


 手早く調査を済ませて、宝月家の別荘に戻りましょう。


 まだ体調が万全ではないようで。


 私、心配でございます」


 矢吹の腕に支えられながら、私はゆっくりと息を吐いた。


 自分の身体が思っているよりずっと弱っているのを、いまさら思い知らされる。


「……ごめん。


 大丈夫よ。ちょっと力が抜けただけ」


 そう言ったけれど、矢吹はまったく表情を緩めなかった。


 彼の腕の力は、むしろ少しだけ強くなる。


「大丈夫ではございません。


 本来であれば、お休みになっていただくべきお身体です。


 しかし──今回は例外といたしましょう。


 奈留さまの件は、緊急を要します」


「ええ……分かってるわ」


 分かってる。


 頭では理解しているけれど、落ち着かない。


 奈留のこと。


 雅志のこと。


 そして、私があの時に守れなかった椎菜ちゃんのことまで──


 全部が胸の底で絡みついて離れない。



「矢吹」


 名前を呼ぶと、彼はすぐに私の方を見る。

 どんな時でも。


 この人は本当に、私の呼吸のタイミングすら読んでいる。


「……私、やっぱり放っておけないわ。


 奈留ちゃんだけじゃない。


 雅志も、きっと今どうすればいいか分からない」


 言葉にした瞬間、胸の痛みがはっきりした。


 奈留ちゃんが一人で抱えていた苦しみ。


 雅志が迷っていた未来。


 そして、それに気づいた今。


 このまま、指をくわえて見ているだけなのは、私のプライドが許さない。


「だから……私が動くしかないのよ」


 矢吹は静かに目を細めただけだった。


 否定もしないし、賛成も押しつけない。


 ただ、私の決意をそのまま受け止めている。


「承知いたしました。


 お嬢様がお望みなら……私はすべてを整えましょう」


 その言葉が、胸の奥にすっと落ちていく。


 ああ、やっぱり私はひとりじゃない。


 そう思えただけで、少し肩の力が抜けた。


「ありがとう、矢吹」


 自然と、声が柔らかくなった。


 彼は軽く頭を下げ、歩き出す。


 私はその背中を追いながら、胸の中にもう一度だけ誓った。


 奈留を助ける。


 雅志を迷わせない。


 そのためなら、私は何だってやる。


「後は、奈留さまの夫──葦田雅志様の到着を待つだけです」


 そう言いながら、矢吹は静かにリムジンのドアを開けてくれた。


 私は身を滑り込ませるように乗り込み、深く息を吐く。


 リムジンが動き出すと、窓の外のパリの景色がゆっくり流れていった。


 異国の美しい夜景なのに、心に余裕なんてなかった。


 ──奈留ちゃん、大丈夫よね。


 お願いだから、無茶な選択だけはしないで。


 胸の奥でそんな願いが何度も反響する。


 矢吹がちらりとバックミラー越しに私を見る。


「彩お嬢様、別荘に着いたらすぐ横になっていただきます。


 まだ本調子ではないでしょう。


 少しでもお休みを」


「……ええ。


 分かってるわ。


 でも、頭だけは休まらないのよね」


「頭は休ませなくて結構でございます。


 身体だけ、お嬢様が倒れぬように守るのが私の務めですから」


 その言葉に、思わず笑ってしまった。


 本当に、どこまでも頼れる人だ。


 やがて、宝月家の別荘の灯りが見えてくる。


 石造りの門が開き、リムジンが敷地内へ滑り込んだ。


 矢吹がドアを開けてくれ、私はゆっくりと車を降りた。


 足にまだ力が入りきっていないのを悟ったのか、矢吹の手がさりげなく支えてくれる。


「ありがとう。


 ……部屋に行くわ」


「ご案内いたします」


 静かな廊下を歩き、自室に入る。


 シーツの白さがやけに眩しい。


 靴を脱ぎ捨てるようにベッドに腰を下ろし、

 そのまま倒れるように寝転がった。


 天井を見上げたまま、目を閉じる。


 チャーター機は、もうすぐ雅志のところへ着く。


 彼が乗って、奈留ちゃんの元へ向かう。


 私ができる準備は、全部終えた。


「……少しだけ寝るわ。


 矢吹、何かあったらすぐ呼んで」


「もちろんでございます。


 お嬢様は安心してお休みください」


 そうして、私はゆっくりと目を閉じた。


 胸の奥の不安は消えないけれど──今は、身体を休めるしかない。


 そしてまた、すぐ動くために。



 どれくらい眠ったのか分からない。


 深く沈んでいたはずなのに、何度も意識が浮かびかけた。


 そのたびに、すぐそばで何かが動く気配を感じていた。


 ……矢吹ね。


 私は目を閉じたまま、彼の足音や衣擦れの音を聞いていた。


 矢吹は、私が完全に眠ったと思っているのだろう。


 いつものように静かすぎるほど静かに、淡々と仕事をしている。


 紙の束が軽く揺れ、テーブルに置かれる気配がした。


(……書類?)


 薄く意識が浮かんだ状態で、彼の小さな独り言が耳に触れた。


「……葦田家と宝月家、双方に齟齬が出ぬよう……


 この条件なら、雅志様が押しつぶされることもありますまい」


 あなた、また勝手に調整してるのね。


 でも、そういうところが好きなのよ。


 ……って、本人には絶対言わないけれど。


 続いて、スマホのバイブ音。


「はい、こちら矢吹でございます……


 ええ。


 雅志様はすでにチャーター機にご搭乗されました。


 予定通り、あと30分でフランスに到着されます」


 私の胸は、その言葉で少しだけ軽くなる。


 矢吹は電話を切ると、今度は私の枕元まで歩いてきた。


 私は寝たふりのまま耳を澄ませる。


 彼は小さな声で、しかしはっきりとした調子で呟いた。


「お嬢様は……本当はとてもお優しい方だ。


 辛いものは、全部ご自身の中に抱えてしまわれる」


 そんなこと、言わないでよ。


 聞かれてるなんて思ってもいないでしょうね。


 矢吹の指先が、そっと毛布を直す。


 私の肩が冷えないように。



 ……ありがとう、矢吹。


 私はそのまま、再び眠りへ落ちていった。

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