フリートーク訓練
翌日。
机の上には私が渡した「犬の原産国一覧」リスト。
奈留はまだ読み込み途中。
その紙はメモだらけ。
勉強の痕が見えるそれを必死に抱えている。
「――じゃ、始めるわよ。
今日は外国人相手の“会話力”だけ」
「え、あの……本当にやるんですか……」
「あなたが本番で一番落とされる可能性があるのがフリートークなの。
知識だけあっても意味がないの。
通じなきゃゼロ点よ?」
「は、はい……!」
奈留は例によってオロオロしてる。
だからこそ、今日やる意味がある。
私は矢吹に目で合図した。
「お嬢様、外にお招きしております」
矢吹がドアを開ける。
入ってきたのは――
カルロス(ドイツ人)。
3年前に宝月家にホームステイしていた青年だ。
「アヤ!
久しぶりネ!」
「カルロス、声がでかい」
奈留はピタリと固まった。
「は、はじめましてカルロスさん……!」
「きみがナル?
ドイツ語フリートーク頼まれてきたネ!」
「ルールは簡単。
“5秒以内に自己紹介を口に出す”。
声を落としたらやり直し。
例外なし」
「5……秒……?」
「3秒にしようか?」
「い、いえ5秒でお願いします!!」
「じゃ、スタート」
奈留は肩を震わせながらも息を吸い――
「グ、グーテンターク!
ミサキ・ナル です……!!」
「止まったわね」
「ひっ」
「テンションを一定に保ちなさい。
“最初だけ気合い入る”のは新人にありがちなミスよ。
本番は途中でトーンが落ちた瞬間、評価が下がるわ」
奈留は唇を噛む。
「も、もう一度お願いします……!」
「いいわ、やりなさい」
深呼吸のあと――
「グーテンターク!
ミサキ・ナル です!
よろしくお願いします!」
カルロスがうなずく。
「すごく聞こえやすいよ、ナル!」
「そう。その声。
今のが“スタートライン”」
「じゃ、次は“イタリア人の飼い主”設定でいくわよ。
犬の原産地の話題で会話を続ける。
カルロス、イタリア人やれる?」
「モチロン! イタリアの犬すきだよ!」
奈留の顔がまた固まる。
「な、なにを……何を話せば……!」
「だから渡したんでしょう?
その原産国リスト」
「う……!」
「いい?
フリートークって、“覚えた情報をそのまま出す場”じゃないの。
“会話を続けるための材料を引き出す場”。
あなたは知識は十分ある。
問題は――引き出すタイミングよ」
奈留は悔しそうに拳を握る。
「……やってみます!」
「OK。
カルロス、イタリア原産犬の飼い主になって」
「チャオ!
ぼくの犬、スピノーネだよ!」
奈留の目が一瞬泳いだ――
だが、踏み止まる。
「ス、スピノーネ……!
狩猟犬ですよね!?
イタリア原産で……えっと……!」
「答え急がない!」
私は制す。
「“間”を怖がるな。
会話は、沈黙5秒までは“考えてる間”として許されるわ」
奈留は再度息を整え――
「……とても、優しい犬種ですよね?
被毛の色も……個体差があって……」
「おお、そうそう!
うちの子は白多めだよ!」
奈留の表情が少し明るくなった。
“通じてる手応え”が芽生えてきた証拠だ。
10分ほど続け、奈留の弱点が顔を出す。
「……で、その……えっと……
私の……あっ、あの……」
「止まったわね、奈留」
声の震え。
テンションの急落。
「動物の話から、私生活方向へ話題が転んだ瞬間に止まる。
――昨日も私と葦田とのとき、そう言ったわよね?」
「う……」
「そこが“明日までの課題”よ。
外国人は特に“個人の話題”が好き。
避けて通れないわ」
奈留は強くうなずく。
「はい……改善します!」
カルロスとの会話が一段落したところで、ドアがノックされた。
「……失礼します」
白衣にゴム手袋を握ったまま入ってきた顔は、すでに“優しさをどこかに置いてきた顔”である。
奈留は肩をビクッと震わせる。
「奈留。
“本番のフリートークは、想定外の質問が飛ぶ”ことが簡単に予想がつく。
今日は俺も混ざる」
「えっ、えっ……!」
「安心しろ。
甘やかす気は一切ない」
その声ほんと容赦ないな。
私はむしろ、そのほうが好きだけれど。
「じゃ始めるぞ。
“飼い主が突然、獣医学以外の雑談を振ってくる場面”だ。
むしろ本番は、この要素のほうが強いだろう。
葦田はカルロスにアイコンタクトを送る。
「カルロス、適当に“話題ぶっ込み係”頼む」
「オッケー!」
奈留はすでに青ざめている。
「じゃ、スタート!」
カルロスが突然テンション高く言う。
「ナル!
ドイツのパン、好き?
ぼくはブレーツェルが大好きなんだ!」
「えっ……え、パン……!?
犬じゃなく……パン……!?」
「話題変わったくらいで止まるな!
続けろ!」
奈留「ひっ……!」
私は腕を組んで眺める。
好きよ、こういうの。
奈留は必死に言葉を探し、声を震わせながらも返す。
「え、えと……え、ええ……!
ドイツのパンは……皮が香ばしくて……好き、です……!」
「オー! グート!
きみのお気に入りは?」
「わ、私の……お、お気に入り……!?
あ、あの、えっと……!」
「奈留、5秒黙ったらアウトだ!」
「わっ、わっ……!
クロワッサン……好きです……!」
「“フランスのパン”出したな?
奈留、いいぞ、その調子だ。
“あえて国を広げて話題を戻す”のは上手い!」
「ほ、褒められた……?」
「気を抜くな。
次いくぞ!」
「ひぃぃ……!」
「よくやった。
喉乾いたろ。
じゃあ10分休憩だ。
水飲め」
葦田が淡々と言った――次の瞬間。
「奈留、手震えてる。
大丈夫か?」
鬼軍曹モードが3秒で溶けた。
奈留は疲労でフラフラしながら振り返る。
「ま、雅志さん!
むり……しんどい……」
「よく頑張ってるよ。
すごいよ奈留」
葦田、急に声が甘い。
奈留はすぐ彼の胸に顔を埋める。
「もう無理……死んじゃう……」
「死なせるか。
俺が絶対守るから」
……うわ、出たわ。
気持ち悪っ。
この二人の“休憩だけのラブラブスイッチ”。
カルロスが私にこそっと耳打ちしてくる。
「アヤ、急に空気変わるね。
さっきまで“鬼軍曹”だったのに」
「そうよ。
今の姿がが“普段の葦田雅志”なの。
仕事と私生活の線引きが異常にキレッキレなのよ」
奈留はぎゅっと彼の白衣の袖をつまんでいる。
「雅志……隣にいてね……?
いないと……不安で……」
「離れないよ。
でもな、奈留――」
葦田は彼女の頭を軽く撫でて、ぽつりと言った。
「あと5分でまた鬼に戻るから覚悟しろ」
「いやぁぁぁぁあああ!!!」
見事な絶叫が診察室に響いた。
「休憩終わったら地獄再開よ、奈留」
「お、オーナーさんまでぇぇ……!」
奈留は涙目で訴えてきた。
矢吹が静かに告げる。
「お時間です、お嬢様。
5分経過いたしました」
葦田の顔から一瞬で“恋人モード”が消え、また“獣医師指導モード”へ切り替わる。
「じゃあ第2セットいくか。
奈留、立て」
「えっ、えっ……!
雅志ったら、さっきまで優しかったじゃん……!」
「“仕事中”は別だ」
ピシャリ。
奈留は肩をすくめ、しかし震えながらも立ち上がった。
「……やります……!
雅志にも……オーナーにも……
負けたくないから……!」
私は軽く頷いた。
「その顔よ。
続けるわよ、奈留」
フリートークの特訓は、日が沈むまで続いた。
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