特訓
次の日、私が奈留の病院に行くと、葦田雅志がすでに待機していた。
彼は私が奈留に求める厳しさを知り尽くしている。
「奈留、今日は葦田先生にお願いするわよ。
悪いけど、いつものバカップルぶりは完全封印してもらうように依頼してあるわ」
葦田は無言で頷き、立ち上がると手元に置いてあった大きな診察道具を持ち上げた。
彼の表情には一切の感情がない。
優しさなんて微塵も見せない。
「まずは、実地訓練だ。
実際に診察しているとき、相手が困っていても、動物の状態に集中することが最も大事だ。
つい相手の感情に引っ張られて飼い主と一緒に困るなんて、存在価値ゼロの獣医師だ」
奈留は怯えた顔で私を見つめ、少し口ごもった。
「え、えっと、でも……
飼い主さんが困ってるとき、どうしても……」
ダメだこりゃ。
先が思いやられる。
私は冷たく言い放つ。
「それが駄目だって言ってるの。
ペットが危機的な状態にあるとき、飼い主が感情的になったらどうする?
あなたが動揺してたら、どうやって救うわけ?」
「……わかりました」
奈留は小さくつぶやくと、力を込めて頷いた。
「じゃあ、葦田先生、よろしく頼むわ。」
葦田は無言で手を振り、実際に一頭の犬を診察室に呼び入れた。
その犬は、足を引きずりながら歩いてきた。
飼い主の女性は、その犬を見て泣きそうな顔をしている。
「奈留、まずは犬の診断をして。
飼い主が泣いていても、あなたが動揺してはいけない。
まずは冷静に。
理解できた?」
奈留は大きく息を吸い込んでから、診察台の犬に目を向けた。その目に不安が浮かぶ。
でも、私が視線を向けると、すぐにそれを押し込めた。
「あの、足を引きずっているので、骨折かもしれません。
レントゲンを取る必要があると思います。」
葦田は一瞬もためらわずに言った。
「正解だ。
しかし、もっと速く反応できるように、次からは早く決断しろ。
今の反応は遅すぎ」
奈留の顔がわずかにこわばった。
彼女は、葦田がどれだけ冷徹であるか、少しずつ理解し始めているのだろう。
だが、それが必要なのだ。
彼女に甘えを許さない、厳しさの中での成長を促す。
その後、奈留は次々と症例に取り組んだが、葦田の評価は厳しい。
「まだ決断が遅い。
状況を読み取る力が足りない」
「でも、あの犬は、飼い主が感情的で」
「診療の場で言い訳か?
だからどうした?
感情で動くのは飼い主だ。
だからこそ、オレたちは獣医師として、冷静に分析し、必要な処置を即座に選ぶべきだ」
葦田の言葉に、奈留は必死に応えようとするが、顔色はすぐに青くなる。
それでも、彼女は言い訳をしようとせず、黙々と犬に向かっていった。
それから、どれくらいの時間が経っただろう。
そろそろ、少し休憩を挟むことも必要だろう。
「ここで一旦ストップ。
皆も、少し休みましょう」
奈留は椅子にぺたんと腰を下ろし、胸を押さえて深呼吸した。
その瞬間、葦田の表情が氷のような冷徹から、ふわっと柔らかく溶けた。
ほぼ“別人”である。
「……奈留、大丈夫か?」
低く優しい声に、奈留は微かに笑顔を見せた。
「う、うん……
でも、ちょっと緊張して……」
葦田はそっと手を伸ばし、奈留の手を握った。
「よし、安心していい。
今は甘えていいんだ」
耳元で囁かれ、奈留の顔は真っ赤になった。
そのまま胸にぴったりと身を預ける。
「……雅志……」
小さな声に、葦田は笑みを浮かべて、額に軽くキスを落とす。
奈留は恥ずかしそうに身をもぞもぞさせ、彼の腕の中で小さく笑った。
葦田はその髪を撫でながら、さらに耳元で囁く。
「今日1日頑張ったら、夜に甘いご褒美な?」
……くっそ、砂糖か。
さっきまで“鬼軍曹”だった男が、よくもまぁこんな甘い声を出せるわね。
私は思わずため息をつく。
「アンタら、切り替え激しすぎない?」
奈留は小さく顔を伏せ、でも腕の中で安心しているのが見える。
「……雅志の声聞くと、安心するんだもん」
「そうか。
なら、よし」
何が「よし」なのよ。
甘さが溢れすぎて、虫歯になりそうなんですが?
奈留は小さく笑い、葦田に腕を絡めたまま顔を上げる。
葦田も微笑み返し、額をそっとくっつける。
「あと5分後に再開するわ。
奈留、大丈夫?」
私は甘い飲み物を手渡しながら優しく声をかけた。
厳しさと優しさの二刀流が、私のやり方だ。
「はい、オーナーさん!
大丈夫です」
奈留は短い息をつきながら、顔を上げた。
その目に、少しだけ確かな光が宿っていることに気づいた。
「いい顔をしてるじゃない。
もっと強くなるわよ。
これからが本番よ」
奈留はまだ肩で息をしながらも、微かに笑みを浮かべた。
それが、彼女の成長の兆しだ。
私は、冷静に続けた。
「奈留、あなたが成長するためには、厳しい言葉も必要よ。
これがあなたにとって、良い獣医師になるために必要な試練だと思って」
「はい、オーナーさん!」
その言葉に、私は満足そうに頷いた。
そして、再び厳しくも愛のある目で奈留を見つめた。
「さあ、もう一度。
あなたの力を見せなさい」
「さ、そろそろ戻るぞ」
葦田は優しく奈留の背を押し、立たせる。
「え……もう……?」
奈留の目はまだ潤んでいる。
「はい、休憩は終わり。
戦場に戻る時間だ」
鬼軍曹に戻った葦田に、奈留は小さく息をつく。
でもその頬には、さっきまでの甘い笑顔の余韻がほんのり残っていた。
こうして、奈留は私のスパルタ指導のもと、成長を続けていくことになる。
葦田の、恋人モードを抜いた冷徹な訓練により、彼女は徐々に自信をつけていった。
私は奈留に資料を渡した。
「奈留。
これ全部“外国産犬種”の原産国リスト。
コンテストのフリートークは“外国人留学生との質疑応答”。
話題を広げるには必須よ」
奈留は緊張で指先が震えている。
「が、外国人……ですよね。
あの……英語も、ドイツ語も、あんまり……」
「言語じゃないわ。
“外国人相手にもまったくビビらないメンタル”
を作るのよ」
奈留の顔が一瞬で青くなった。
「無理ぃぃ……」
みるみるうちに、奈留の瞳には涙が溜まっていく。
ダメだこりゃ。
「私とならやれるかしら?」
私はそう言うなり、診察室の椅子に腰を下ろした。
突然“外国人飼い主”モードにスイッチした。
「Hello!
My dog is Papillon.
He is from France, right?」
奈留はまるで石像のように固まった。
「え、あっ、えっと……!
パ、パピヨン、フランス……!」
「※フリートークで“えっと”は禁止よ。
ホント、頼りないわね」
私は即座に遮った。
「話題をつなぎなさい。
沈黙3秒で減点よ?」
「す、すみません……!
えっと、France は、えー……!」
「“えっと”って言ったわね?」
「ひ……はい……」
「じゃ、もう一度。
今度は“笑顔”で。
笑えないと外国人には不信感を持たれるわ」
「笑顔……?
む、無理ですぅ……」
「笑いなさい。
今すぐ」
ビクッと奈留が背筋を伸ばす。
「は……はいぃぃ……!」
ぎこちないが、引きつった笑顔になった。
今日はそれで十分。
そこへ、"たまたま"通りかかった葦田が声をかけた。
「奈留。
今のは“弱い”。
外国人飼い主はハッキリ言うぞ」
彼はすぐにスマホを取り出し、音声翻訳アプリを英語モードに設定した。
【You are not good. Please answer faster.】
【あなた下手ですね。
もっと早く答えてください】
奈留の顔が青ざめる。
「ひ、ひどっ……!?」
「外国人は悪気なくこう言うことがある。
そのとき動揺したら終わりだ」
葦田はさらに追い込む。
《Why is your face scared?
Are you really a vet?》
「び……っ!?
わ、私……!」
「“すぐ感情が出る”のが、お前の最大の欠点だ。
直せ。
外国人相手には特に通用しない」
奈留は唇を噛んだ。
だが、逃げなかった。
「……や、やります……!」
その言葉を聞いた瞬間、私は小さく頷いた。
曲がりなりにも恋人というだけのことはある。
奈留の良いところも悪いところも、すべて分かっている。
いいことだ。
訓練終了後、私は奈留に言った。
「明日からの実戦の相手は、私や葦田じゃないわ。
外国人相手の“生の会話”よ」
奈留の顔がこわばる。
「生の……?」
「ええ。
呼んであるわ。
――昔、宝月家にホームステイしてたドイツ人留学生。
カルロスよ」
「か、カルロス……?」
矢吹が静かに付け加えた。
奈留が息を呑む。
「ドイツ語……ですか……?」
「そうよ。
第2Rは留学生フリートークなんだもの。
逃げられないわよ、奈留ちゃん。
貴女は、北村動物病院を背負っていることを忘れないで」
奈留は震えながらも、しっかりうなずいた。
「……やります……!」
奈留の瞳には、強い意志が宿っていた。
見込みはありそうね。
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