第4話 調査と交信

 例のT字路は想像していた以上に事故の多い場所だった。

 直近の半年だけでも六件の大小事故の記録が残っており、当てずっぽうに適当な年度を検索しても十件以上は事故記録が出てくる。東池袋の六ツ又交差点や大阪府天王寺の8車線×6車線がぶつかり合う大交差点にはさすがに及ばないまでも、都心部の複雑な構造道路に匹敵する数だ。

 警視庁交通局が発表している「交通事故の発生状況」によると、損害保険が適用される人身事故または物損事故の原因として最も多いのが安全不確認、続いて脇見運転、動静不注視と続く。しかし例の交差点においてはこの統計とは異なり脇見運転が突出して多くなっている。

 普通に考えて、見通しのよくない交差点で事故が発生しているとしたらそれは安全だと思って確認せずに侵入したり、もしくは考え事をしているなどして注意散漫な状態で一時停止を怠るケースが多そうなものだ。それが、運転中に他のものに気を取られてハンドル操作を誤る「脇見運転」が大半を占めるというのはやはりおかしい。

 実際に事故を起こした被保険者への聴取記録として「ミラーに映ったものに気を取られた」というものがいくつか残されていて、あそこに女性の霊をかなりのドライバーが見ているらしいことがわかる。

「でもこれだけの人があそこで『白い服の女性』をミラー越しに見ているなら、どうして私にだけついてくるようなことになったんでしょう」

 一緒にパソコンの画面を覗き込んでいた我謝先輩が次の検索条件を打ち込みながら私の質問に答えてくれる。

「この事故を起こしちゃった人たちも、必ずしもあのまんまの姿を見たってわけじゃないと思うよ。よく『霊感がある』とか言うけど、単純にあるかないかっていうものじゃないと思うよ。人の視力と一緒でさ。ぼんやりと見える気がするって人からかなり遠くのものまではっきり見える人までがいるんだよ。それに仮にそこそこ見える人であってもミラーを注視しているかどうかで運転中気を取られるかどうかが変わるだろうし」

 安全運転のためにあの小さなカーブミラーを丁寧に見てしまっていた人の方が事故を起こしがちというのは皮肉な感じがする。

「私はできるだけ昔の記録を探してみるから、紙月はネットで心霊の噂みたいなものを検索してみてよ」

「あ、なるほど。そうですね。近所の心霊スポットみたいにされてる可能性もありますね」

 そこで私はスマホを使って地名から心霊スポット情報を掲載しているサイトを探してみた。案の定掲示板式の書き込みサイトにはあの交差点のことがいくつか書かれていた。

 しかしながら、ただ立っているところがうっすら見えたり見えなかったりする程度というのは心霊スポットとしてはパンチが弱いのか、そこまで多くの情報はない。他のスポット情報を見ると「背後から生首が転がってきた」だとか「振り返ると戻って来れなくなる」とか直接的な被害を報告するようなものが並んでいるので、そういうものに比べるとどうしても埋没してしまうのだろう。

「ダメだなあ。データベースで検索できる事故記録はせいぜい1990年くらいまでみたい。一番古い記録を調べても今とそれほど統計情報とか事故記録に変化はないから、それよりも前からあの霊はあそこにいたんだろうね」

 日本においてパソコンが一般的なオフィスワークに使用されるようになったのはだいたい1980~90年代くらいだ。

 研修のときにちょっと教えられた記憶があるが、それよりも前の事故については紙ベースで管理されていて警察が作成する「交通事故原票」という書類を参照していたらしい。なお交通事故の統計については都道府県の交通部門が手作業で行っていたというのだから驚く。

 一方で交通事故に対応する損害保険業務というのはそれよりもはるか昔から存在しており、1920年代には既に大手保険会社が自動車向けの商品を販売していたらしい。

 私たちの所属している「カスマ損害保険会社」は2010年を過ぎてから設立された外資系の企業ではあるが、日本市場に参入するときにその戦前から存在していた大邦損害保険グループ(損害保険参入時の社名は「大邦火災海上保険」)を買収しているので所持している事故案件データ量は決して少ないものではない。

「90年代よりも前の交通事故の記録については一部はデータベースされてるものもあるだろうけど、その頃と比べて都市開発とか区画整理とかで全く道路構造が変わってたりするから不要と割り切って破棄されている可能性はあるよね」

「もしかして、地下の書類倉庫あたりにファイルが段ボール詰めにされてるかもしれせん」

 そうなると探すのはとんでもない作業になる。なにせキーワードを打ち込めば自然に該当する情報が目の前に出てきてくれるわけではないのだから。そう考えると、90年代より前のオフィスワーカーさんたちはどういうふうに仕事をしてきたのだろうかと気になってしまう。

「残念だけどここでわかるのは『あの白い女性の霊は少なくとも1990年よりも前からいた』っていうことくらいだね。データベースからはそれくらいしか探せない」

「わかりました。それは仕方ないでしょう。そろそろ通常業務に戻らないとまた残業時間が長くなってしまいますし」

「だね。私もこれから外出しないといけないから、また何か気になることがあったら戻ってから話そう」

 そこで私たちは探索を切り上げてそれぞれの業務へ戻った。

 少し席を外していた私と我謝先輩のことを松田部長がちらりと見た時にはひやりとしたが、特に咎めるようなことはされなかった。


*****


 結局そこで私たちの調査は一旦手詰まりとなってしまった。

 というか実際のところ日々の業務が忙しくて調査にまで十分に時間をかけることができなかったというのが正しい。

 日常のルーティーンに紛れていくうちにその霊の存在そのものも私たちの記憶から消えて……とはならないのが悲しいところ。

 時折思い出したように我謝先輩に「いますか?」と尋ねると即答で「いるよ」と言われるし、試しにと自宅の化粧台の布を払って鏡を覗き込むとそこには待ち構えていたように白い服で長い髪の毛をだらんと垂らしたまま棒立ちになっている彼女が見える。

 私が久々の予定のない休日にベッドの上でごろごろとしていた時に、思いも寄らない方向からの手が差し伸べられた。

「もしもし? 葉瀬里? 元気にしてる?」

 着信音が鳴ったと思って見た画面には「菊子おばあちゃん」と表示されていた。

 私がとびつくように通話ボタンをタップすると、懐かしくて温かい声が聞こえてくる。

「うん。おばあちゃんの方はどう? 病気とかしてない?」

「もちろんだよ。まだまだ私には生きているうちにやらないといけないことがたくさんあるからね」

 年齢でいけば75歳のはずのおばあちゃんだが、声だけを聞いていると20歳は若く感じる。私が実家で生活をしていたときもものすごくエネルギッシュで、自宅内でせわしなく家事や趣味で動き回っていたのを思い出す。

 私はベッドの上で座り直してしっかりとスマホを耳元にあてた。

「急に電話なんてどうかしたの?」

「うん。何となくなんだけど、葉瀬里の声が聞きたくなってね。元気でやってるってことがわかればそれでいいんだよ」

 じわっと泣きたくなるようなことを言われて私はこっそりと鼻をすすった。

 私はふと今一番の悩みとなっている霊のことを相談してみようかとも思ったが、どこからどう説明をすればよいかわからない。

 ゆっくりとベッドから起き上がり、部屋のカーテンを開けた。午前中の明るい日差しが部屋の中に差し込んでくる。

「おばあちゃんはさ、若い時に心細くなったりすることはなかった?」

「どうしたの? 急に。それはまあ、私だって年頃のときには悩んだり後悔したりすることはあったよ」

「そういうとき、どうやって乗り越えた?」

 ふう、とおばあちゃんが姿勢を正したのが受話器越しに伝わった。真面目な話をする前のクセのようなものだった。

「まず、自分の心を強く持つの。今自分がやりたいこと、やらないといけないことをしっかり考えてね。それで、怖いって思う気持ちを無理矢理にでもぐっと心の中に押し込めるの。お腹に力を入れてね」

「うん。そっか」

「いつも言っていたでしょ。『自分の目で見て考えたことを信じなさい』って」

 おばあちゃんの言葉はいつも心強い。

 私は仕事の忙しさや求められる業務のクオリティに少し弱気になってきていたことも思い出した。

 考えてみれば他にやるべきことはたくさんあるのだから、特にこちらに害を加えようとしてこない霊の存在でくよくよするのは自分のためにならない。

「ありがとう。ちょっと勇気出た」

「うん。もし何か悩んだら遠慮なく電話してくれていいからね」

 電話を切ってからもしばらく私はスマホの画面を見つめていた。それから言われた通りにぐっとお腹に力をこめて、今まで避けてきた霊との対峙を決心する。

 私はゆっくりと化粧台に歩み寄り、鏡台前の椅子に腰掛けた。

 勢いよくざっとかかっていた布を払う。

「……!」

 予想をしていたことではあったが、やっぱりそれでも実際に見えると心にくる。

 前に我謝先輩と電話をしながら鏡を見ていたときには半分薄目でまじめに見るということはしてこなかったので、今度こそはと思ってぎゅっと顔を前に向けた。

 ちょうど私のへそから上くらいを写している大きめの鏡では私のちょうど背後の壁の前あたりに白い服で長い髪をだらんとたらした女性が立っているのが見える。

 しばらく身じろぎもせずにそうしているも、お互いにぴくりともしないまま時間が過ぎた。

 私は思い切って鏡に手を伸ばし、鏡に映った女性の姿の前に手をかざした。

「ねえ。もし何か言いたいことがあるなら、私に言ってくれない?」

 傍目から見たら独り言を言っているように見えるだろうが、ここには生きている人間は一人しかいないのだから遠慮はいらない。

「私は我謝先輩みたいに霊とかそういうの詳しくないけどさ。もしあなたが私に何かやってほしいことがあってここにいるなら、何かヒントをちょうだい。えっと、言われたからってできるとは限らないけど」

 私が霊の姿の上に重ねるようにしていた自分の手のひらをそっと下にずらしたときだった。

 ゆっくりと、その霊が片手を前に出して顔を上向かせたのが見えた。

「……。……」

 前にそうしていたように口元をぱくぱくと動かしているのが見える。怖い気持ちをぐっとこらえて正面から観察をすると、その霊は差し出した指を鏡よりも少しだけ下向きにして手招きをするような仕草をしている。

 こっちに来いと言ってるんだろうか? と私は思ったがとりあえず様子をみておくことにした。

「何? わかんないよ。どうしてほしいの?」

 若干声が震えそうになりながらも再び呼びかけると、霊は一度動作を止めて。俯いてからぐっと力を込めるように顔を上げた。

「……む。……ま……む」

 聞こえた!

 私は思わず自分の耳元をおさえた。耳を塞ぐような仕草になったが、そんなことは関係ないらしく鏡越しに霊の姿を見ていると声が伝わってくる。

「ま、む?」

 私がそう復唱すると、霊が口の動きを止めた。

「まむ? そう言ったの?」

 私が興奮して言うと、霊はなんとなく口元を微笑ませたように見えた。

 すると気のせいだろうか。それまで乱雑に伸びていた長い黒髪が、わずかに形を変えてさらりと揺れた。

 目を凝らすと、それまで薄汚れた白い布きれのように見えていた服にも、かすかに色味がついているように見える。

「えっ?」

 その変化に私が戸惑いどうしてよいかおろおろしていると、霊はすっと背後から姿を消してしまった。

 しばらく呆然と座ったまま、今目にしたものを思い出す。

 それからようやく思い出したように私は化粧台の隅に置いていたスマホを取り出して我謝先輩に電話をかける。

「もしもし? どうしたの? 紙月」

「先輩! 私、今あの霊とほんのちょっと会話ができたんです!」

 いきなりハイテンションで目にしたものをまくし立てて説明をすると、遮らずに話を全部聞いたあとで我謝先輩が私に言った。

「紙月、やるじゃん」

「えっと、あ。はい」

「すごいよ。よく頑張ったね。えらい!」

 そこで一気に緊張の糸が切れたようで、ぶわっと涙が湧き出してきた。

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