第30章 女戦士、熊を狩る。

夜明け前の空気は、刃のように冷たかった。

吐く息が白く広がり、森の奥からは低い風の唸りが聞こえる。

今日――ついに“大熊刈り”の当日を迎えた。


戦士たちと冒険者たちは、既に戦支度を整えている。

鎧の金属音、剣を抜く音、祈りの詠唱……。

それぞれが己のやり方で、これから始まる死闘に備えていた。


作戦は単純だ。

開けた場所に熊を誘い込み、一気に片を付ける。

森の斜面に沿って数名のレンジャーが散り、

音を立てて獲物を誘導する。

私たちは中央で構え、地を踏みしめた。


やがて、地鳴りのような唸りが森の奥から響いてくる。

木々の枝が揺れ、鳥が一斉に飛び立った。

――来る。


黒々とした影が現れた。

正面の茂みを突き破り、十数頭の大熊が一斉に姿を現す。

その巨体が走るたび、地面が震えた。

彼らもまた、我々を敵と認識したのだ。


戦士たちは一斉に雄叫びを上げ、迎え撃つ。

剣が閃き、斧がうなり、血と土が混じる匂いが立ちこめる。

後方では、魔法使いが詠唱し、僧侶が治癒の光を走らせていた。

レンジャーの矢が次々と放たれ、炎の魔法が大地を焦がす。


――死闘だった。

熊の咆哮、戦士たちの叫び、魔法の爆ぜる音が入り乱れる。

剣を振るうたびに腕が痺れ、足場の泥が跳ねる。

だが、誰も退かなかった。誰ひとり。


ふと、戦場の向こう――戦士レオのパーティが目に入った。

レオを中心に、魔法使い、僧侶、

そしてレンジャーが見事に連携している。

無駄のない動き。迷いのない判断。

場数を踏んでいることが一目でわかった。


とくに驚いたのは、あのレンジャーだ。

放たれた矢は、風を切る音すら美しく、

次々と熊の急所を射抜いていく。

その正確さは、もはや神業と言っていい。

私は思わず息を呑んだ。


――なるほど、これがギルドの冒険者というやつか。

少しだけ、レオのパーティのメンバーを見直した。


背後で誰かの悲鳴が上がった。


振り向くと、

すでに仲間たちはそれぞれの持ち場で限界まで戦っている。

援護など望めない。

そんな中、私は三体の大熊に囲まれていた。


――まずい。


目の前の一頭が吠え、土煙を巻き上げながら突進してくる。

避けた瞬間、背後から別の一頭が牙をむいた。

斬り返すが、三体同時はさすがに分が悪い。

腕が痺れ、呼吸が荒くなる。


(このままじゃ、押し切られる――!)


そのときだった。

「サオリ殿っ!」

聞き慣れた声が戦場を貫いた。

あの僧侶――リオンが、こちらへ駆けてくる。


「馬鹿か、死ぬぞ!」

叫ぶ私の声など、彼には届いていない。

次の瞬間、

一頭の熊がリオンに向かって丸太のような腕を振り下ろした。


――間に合わない。

守れない。

だめだ、こいつは死ぬ――そう思った刹那。


「!!」


驚愕が走った。

リオンは、その熊の腕を左手一本で受け止めていた。

信じられない。

大地が鳴るような一撃を、真正面から。


その腕は、見る間に膨れ上がっていた。

筋肉が盛り上がり、血管が浮き上がり、肌から白い蒸気が立ち上る。

まるで、鋼鉄のような肉体。

あの温厚な僧侶の面影はどこにもない。


「なっ……!」


リオンは、一撃を受け止めたまま、右拳を腰に構える。

次の瞬間、熊の胴に渾身のボディーブローを叩き込んだ。

「ドゴッ!」という鈍い音と共に、巨体がよろめく。

熊は低く唸り声を上げ、その場から後退した。

目の奥に、警戒の色が宿る。――あの熊が、怯えている。


信じられなかった。

リオンの全身は、もはや僧侶ではない。

戦士をも凌ぐ筋肉の塊――「狂戦士(バーサーカー)!」


リオンは、私に駆け寄ってきた。

その勢いのまま、私たちは背中を合わせ、熊の攻撃に備える。

息遣いが荒く、土と血の匂いが入り混じる中、

背中越しにリオンの気迫が伝わってきた。


――この男には、背中を預けられる。

そう、直感で感じた。


熊が再び吠え、私たちは同時に動いた。

剣が閃き、拳が唸る。

リオンの動きは速く、正確で、何より無駄がない。

攻撃と防御が自然に噛み合う。


やがて、最後の熊がうめき声を上げ、土煙の中に崩れ落ちた。

私とリオンの共闘により、三体の熊を見事に倒すことができた。

大地に倒れ伏した巨体を見下ろしながら、ようやく息を吐く。


気づけば、リオンは元の姿に戻っていた。

膨れ上がっていた筋肉は静まり、僧衣の隙間から見えていた肌には、

わずかな傷跡と汗が残るだけ。

彼は何事もなかったように微笑んでいた。


――あの力は、いったい……。

問いかけようとして、言葉が喉の奥で溶けた。


そのころには、他の熊もすべて殲滅され、

戦場にはようやく静寂が戻りつつあった。

こうして“大熊刈り”は成功裏に幕を下ろした。


◇ ◇ ◇


翌朝、空は澄み渡り、凍てつく風が村を吹き抜けていた。

冒険者たちは荷をまとめ、それぞれの帰路につく準備をしている。

私たち村の戦士は、見送りの列を作っていた。


そのとき、リオンが私のもとへ歩み寄ってきた。

僧衣の裾が風に揺れ、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。


「また、サオリ殿に会いに来ても、よいだろうか?」


一瞬、胸が熱くなった。

けれど、私はいつものように平静を装い、軽く頷いた。


「……好きにすればいいさ。」


リオンは一瞬、少年のように顔をほころばせた。

そして深く礼をし、仲間たちのもとへ戻っていった。


その背中を見送りながら、

私は無意識に、自分の胸に手を当てていた。

まだ、戦いの余韻が残っている――そう思いたかった。

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