第3話 第一の勇者

「はっはっは!これは愉快、愉快!神の鎖を斬る者が現れるとは。よかったら、主の名前を教えてくれ。」


洞窟の奥で轟音のような声が響き渡る。

黒曜石のような鱗を纏い、全長五十メートルを超える巨龍がゆっくりと身を起こした。


空気が重くなり、圧が全身にのしかかる。まるで空間そのものが震えているようだった。


「俺の名前はアスラだよ。このダンジョンを制覇するためにやってきたんだ。」


アスラは平然と答えた。

その表情には恐怖も緊張もない。ただ、どこか退屈そうな目で龍を見上げている。


「我が名は龍王ゼログラス。古よりこの地を守護してきた存在だ。この鎖を破壊してくれたこと、深く感謝いたす。我にできることがあれば何でも言ってくれ!」


龍王の瞳には、歓喜と解放の色が宿っていた。

長い年月、誰にも届かぬ声で助けを求め続けた孤独。

その苦しみが、いまようやく断ち切られたのだ。


「いや、大丈夫ですよー。それじゃ!」


アスラは軽く手を振り、さっさと背を向ける。

しかし、龍王は声を低くして言葉を重ねた。


「待て、アスラよ。この大恩、是非返させてくれ。」


アスラは眉をひそめ、静かに目を閉じた。

一度深呼吸し、低い声で言う。


「龍王ゼログラスさん、あなたは大きすぎて意思疎通が取れません。よって恩を返すことはできません、ごめんなさい。では。」


そう言って歩き出すアスラの背に、重低音のような呟きが落ちた。


「龍人型──《ドラゴンフォーム》」


空間が歪む。

龍王の体を覆う光が眩しく輝き、次第に収束していく。

その巨体はみるみる縮み、やがて人間ほどの大きさに変化した。


銀と紅の混ざり合った髪、瞳は燃えるような琥珀色。

威厳を残しながらも、どこか少年のような笑みを浮かべていた。


「これでよいか?」


「……確かにこれならコミュニケーション取れますね。ですが、恩返しは無用ですよ。私は先を急ぎますので。」


アスラが歩き出すと、ゼログラスは慌ててその前に立ちはだかった。

風が渦を巻き、空気が重くなる。

出口が閉ざされる音が響いた。


「本当はずっと一人で寂しかったんだ。人族と話すのも久しぶりじゃ。我も一緒に連れて行ってくれ。悪いことはもうしないと誓うから!」


アスラは無言で見つめた。

ゼログラスの瞳には、強がりの奥に深い孤独が宿っている。

二千年という時間を、孤独の中で生き続けた者の目だ。


(……この目、見たことあるな。俺も同じだった。そして、街の広場にいつも座っているあの少女も、同じ目をしていたな)


アスラの胸に大きな痛みが走る。

あの暗闇の中で、世界に取り残された日々を思い出す。


「はー……二千年、寂しかったよな。俺にもよくわかるよ。分かった!ついて行きたいなら、ついてきてもいいよ。」


アスラの目がゆっくりと開く。

その視線は鋭く、どこか獣のような静けさを帯びていた。


「でも一つだけ忠告しておくね。俺の標的は勇者と女神アテナの抹殺。それでもゼログラスはついてくる?」


「いいセンスをしておる!勇者と女神アテナ、我にも……因縁がある。我の力を存分に使え!今から我が名はゼロとなる!」


ゼロの表情に決意が宿る。

その瞬間、アスラの中で何かが動いた。

二千年ぶりに感じる“信頼”という感情。

それはほんの僅かだったが、確かに暖かかった。


こうして、龍王ゼログラスはアスラの仲間となった。


――――


アスラは自分の“病”について、説明しなければならなかった。

この体には、心を掴まれる呪いのような症状がある。

強く感情を揺さぶられると、まるで心臓を握られるような痛みに襲われ、動けなくなる。

本当は病気だが、呪いと偽って説明した。

ゼロは黙って頷いた。


「なるほど、ならばその呪いも、いずれ我が打ち砕いてみせよう。」


「期待してるよ。」


アスラは短く答えたが、どこか嬉しそうに見える。さらに質問を続けた。


「しかし、何故こんな所に封印されてたんだ?暴れ回ったとか?」


「ギクッ!」


図星の様だ。


二人は六十階層へと上がり立つ。

冷たい風が吹き抜け、青白い光が床を照らしていた。

壁には古代文字が刻まれ、あちこちに封印の痕跡が残っている。


「……ここが六十階層か。」


「空気が違うな。力を持つ者の気配が濃い。」


目的はひとつ。勇者パーティーの動向を探ること。

人数、装備、体力、士気──すべてを把握するためだ。


アスラは黙々と進む。

ゼロは周囲を観察しながら歩いていた。

天井に輝く魔石の光、床に広がる魔法陣。

その一つひとつに興味を示し、時折感嘆の声を漏らす。


「ゼロ、興味深いのはわかるけど、集中して。」


「すまぬ、二千年ぶりの世界だ。全てが懐かしく、眩しい。」


そんなやり取りの直後、地面が揺れた。

次の瞬間、轟音とともに三体のストーンオーガが姿を現す。

灰色の岩の皮膚を持ち、赤く光る瞳。

彼らは同時に咆哮を上げた。


「我がやる。」


ゼロが前へ出る。

その一歩で床石が砕け散った。


「竜掌裂破!」


手刀を放った瞬間、空気が唸りを上げた。

紅蓮の閃光が一直線に走り、オーガ三体を貫く。

音もなく、彼らは斜めに裂かれ、ゆっくりと崩れ落ちた。

切断面は鏡のように滑らかで、まるで時間ごと断ち切られたようだった。


「……ふむ、少し鈍ったか。」


ゼロは肩を回しながら呟く。

アスラはその光景を無表情で見ていた。


「派手だな。勇者に見つかかるよ。」


「はっはっは、それもまた一興。」


ゼロが笑う。

その声は重く響くが、どこか楽しそうだった。


やがて二人は、モンスターの気配が極端に減ったことに気づく。

アスラは歩みを止め、周囲を警戒した。


(勇者が近くにいるか?……それにしても、戦いの音が聞こえない。)


ダンジョンの最奥、薄い霧を抜けた先に、二つの大きなテントが見えた。

アスラは気配を完全に殺し、静かに近づく。

中からは、複数の声が聞こえてきた。


『もうここに来て三ヶ月だよ!いつまでここにいればいいの?限界だよ!』


『女神様の命令だ。もう少しだけ待とう。』


『こんなこと、世間に知れたら大変なことになるよ……』


次の瞬間、テントの中から一人の女性が飛び出してきた。

肩までの髪を揺らし、震える足で奥へ走っていく。

アスラはゼロを待機させ、無音でその後を追った。


女は岩壁の影に座り込み、膝を抱えて泣いていた。

その涙の音が、やけに響く。


アスラは剣を抜く。

銀の刃が青白い光を反射した。

一歩、また一歩。

彼は背後を取り、剣を構える。


だが──刺せない。


手が震え、足が止まる。


(罪もない人間を……俺は殺すのか?)


脳裏に、過去の光景がフラッシュバックする。

女神に裏切られた瞬間の絶望感。

憎しみで燃え尽きた心が、ほんの一瞬だけ迷った。


「三千年……恨みを晴らすためだ……死んでくれ!俺も含め、人間は生きていてはいけない。」


アスラは自分の左肩に剣を突き立てた。

痛みで意識を研ぎ澄ませ、無理やり感情を断ち切る。

そして、そのまま女の背中を貫いた。


刃が通る感触。

温かな血が刃を伝い、地面へと滴る。

アスラはゆっくりと剣を引き抜いた。


「……これが俺の、やり方だ。」


誰に言うでもなく、低く呟く。

その瞳には、光も影もなく、ただ無だけがあった。

そしてアスラはすべての感情を失った。


こうして、アスラの復讐の歯車は、静かに動き出す。


――――


アスラはゼロの元に戻り、テントの様子を伺う。

洞窟の空気は重く、湿っている。焚き火の煙が薄く漂い、鉄と血の臭いが混ざっていた。


ゼロが聞いてきた。


「してアスラよ、主はどうして勇者と女神を狙うのだ?」


アスラは静かに目を閉じた。

思考の底に沈んでいた“あの空間”──三千年という時間の牢獄が脳裏に蘇る。


「詳しく説明するのは疲れるから簡単に言うけど、女神に時空間に三千年間閉じ込められたんだ。最初の百年は地獄だったけど、その後は復讐しか考えられない体になったんだよ。」


その声音には、怒りも悲しみもなかった。

ただ、壊れた人形のように冷たく響いた。


ゼロが焦り出す。


「え?三千年?我より長いではないかっ!」


ゼロは信じられないような顔をしている。

アスラは虚空を見つめながら、淡々と告げた。


「すべての感情が壊れてしまったよ」


ゼロは言葉を失い、悲しげに俯いた。

龍の瞳が、静かに憐憫の色を帯びる。


その時、テントの中から声が漏れた。


『一度地上に出ようよ!補給も底を尽きかけているし、ここでじっとしているのも不審に思われてしまう、一度上がって状況を説明するべきだ!』


『女神の命令は絶対だ。今は待機だ』


リーダー風の男の低い声が響く。

その声に、命令に従うしかない人間の“諦め”が混じっていた。


(なるほど、勇者と女神はやはり繋がっている。俺の考えに間違いはなかった)


少しすると、槍を持った男が、荷物をまとめてテントから出てきた。

背を向けたまま、振り返らずに歩き出す。


アスラとゼロは音もなく後を追う。

足音すら消したその動きは、闇の中に溶けていた。


五十九階層に上がる階段の前で、アスラは足を止めた。

剣を静かに抜く。金属が擦れる鈍い音が、洞窟に響いた瞬間──


槍の男が殺気に気づいた。

反射的に槍を構え、全身に力を込める。


空気が凍る。

息を呑む間もなく、殺意がぶつかり合った。


アスラは無気力に剣を構えている。

まるで興味がないかのような、静かな姿勢。


槍の男が一歩踏み込んだ。

瞬足の速さで突きを放つ。空気を裂く風鳴りが響く。


だが──アスラの瞳はすでに軌道の先を見切っていた。


「遅いな」


刹那。

剣が弧を描き、槍の先端を断ち切る。

衝撃音と同時に、槍の穂先が宙に舞い、岩に突き刺さった。


続けざまに、アスラの体が滑るように回転する。

空気が渦を巻き、視線が追いつく前に閃光が走った。


首が跳ね上がり、血が飛沫のように宙を舞う。

男の体は崩れ落ち、地面を赤く染めた。


今度は、心が揺れなかった。

ただ、終わりを確認しただけだった。


再度テントへ戻ったアスラ、ゼロは再び待機するも、沈黙が長すぎて我慢できない。


「ゼロ、待つのダルいから、魔法で全滅させるのはどうかな?」


「うむ!それは名案だな!我がやるか?」


「ゼロはダンジョンごと破壊しそうだから、とりあえず見ててね」


アスラがテントに右手を向ける。

掌に赤黒い魔法陣が浮かび上がる。

大地が唸り、震え、魔力が渦を巻いた。


第八階梯魔法──

── 地渦葬陣チカソウジン


地面が蠢き、巨大な渦が出現する。

砂と岩が巻き上がり、重力がねじれる。

テントごと、すべてが地中に引きずり込まれていった。


叫び、悲鳴、怒号。

それらが混ざり、地獄の音のように響く。


やがて、四人の影が渦の中から飛び出した。

顔に焦りと怒りを滲ませ、アスラとゼロを睨む。


「今の攻撃はお前かっ!」


剣を構える男が叫ぶ。

残りの三人も一斉に攻撃体勢を取った。


「ゼロ、そこの三人を頼むよ。」


「承知した!」


ゼロの体が躍動する。

黒き鱗が光を反射し、殺気が空気を裂く。


アスラは男に視線を向けた。

金の装飾を纏い、聖なる気配を纏う──勇者レオグラン・ヴァルセリオ。


「君が、勇者レオグラン・ヴァルセリオだな?」


「そうだ!お前は何者だ!」


「お前は今から死ぬんだから、俺の名前を知る必要はないよ。」


アスラの仮面が漆黒に溶け込み、光を吸い込む。

その姿は、闇そのものだった。


勇者レオグランは叫ぶようにスキルを発動する。


「《全知全能》──解放ッ!」


黄金の光が勇者を包み、周囲の空気が波打つ。

力の奔流が大気を震わせ、足元の岩が砕けた。


「へー、それが勇者だけが持つ全知全能の能力か、面白い。全力でかかってこないと死ぬぞ!」


アスラはゆっくりと剣を構える。

その一動作が、まるで死の合図のようだった。


勇者が高速で動く。

斬撃が閃光となり、アスラの首を狙う。


だが、アスラは寸前で身を傾け、髪の先だけを切り落とされる。


斬撃が続く。

視界が追いつかなくなる。

だがアスラの剣は、全ての斬撃を受け流していた。


キンッ、キンッ──

金属の悲鳴が連続して響く。


「……速いな。でも、まだ浅い」


アスラは目を閉じた。

音、風、空気の揺らぎ、勇者の気配──全てを五感で捉える。


勇者が次の手を打つ。


第八階梯魔法──

── 炎界葬滅エンカイソウメツ


地面が割れ、灼熱の炎が噴き上がる。

世界が焼ける。

空間そのものが“再構築”されるかのように歪んだ。


アスラの足元を、紅蓮が呑み込む。

だが、彼は一歩も動かない。


「終わりだ!」


勇者が叫ぶ。

瞬間、アスラの剣が閃いた。


空間が裂け、炎が真っ二つに割れ、渦のように消えていく。


「な……ば、馬鹿な……!」


勇者の顔が恐怖に染まる。


阿修羅一式──


アスラが地を蹴る。

次の瞬間、視界が光に埋め尽くされた。


── 千裂牙センレツガ


千の刃が走り、空間が噛み砕かれるように崩壊する。

その軌跡は、もはや斬撃ではなく“滅”。


勇者の体が細かく削がれ、千の断面が一斉に血を吹いた。

壁まで吹き飛ばされ、岩を砕きながら崩れ落ちる。


「ぐはっ……!」


勇者レオグランは膝をつき、血を吐く。

アスラがゆっくりと歩み寄る。


「お前と女神の関係を教えろ」


「お前に話す事は何もない」


「そうなのか?女神の指示でこのダンジョンに待機してるのではないのか?」


勇者の顔が歪む。恐怖と焦燥が混じっていた。


「死にたくないなら、なぜここで待機しているのか、今すぐ教えろ。ちなみにお前の仲間は既に全滅しているぞ。」


ゼロが戻ってくる。

その爪には血が滴っていた。


「もう一度聞く、何のためにこのダンジョンで待機しているんだ?」


アスラの声が低く響く。


「……魔族に人族を攻めさせるためだ。女神アテナは人族の人口を減らしたいらしい。」


勇者レオグランは目を伏せる。


アスラの瞳が揺れた。

心の奥底で、何かが軋む音がした。


「またか……」


この世界は、またも愚かを繰り返す。

神が人を喰らう理不尽な構造。


「勇者レオグランよ……お前は俺を怒らせた。やりすぎたんだよ。その報いは受けないとな。」


空気が震えた。

アスラの体が重く沈む。

胸の奥から、黒い怒りが噴き出す。


(苦しい……息ができない……この世界は苦しすぎる)


アスラの瞳が赤く染まる。

剣を握る手が震え、怒りが形を成した。


そして──


剣が勇者レオグランの胸を貫いた。

炎のような音が響き、血が花弁のように舞う。


世界は静かだった。ただ、自分の呼吸だけが聞こえる。

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