第二十語章:空と歴史と、わたしのとなりに

成田行きの便は、現地時間で夜の9時に離陸した。

ウィーンの街に灯る夜景が小さくなり、雲の上へと浮かび上がる。


お兄さんはふと横を見る。

シグちゃんは、機内毛布にくるまれて、ぐっすりと眠っていた。


「よっぽど疲れたんだな……」


ほんの数日前まで、彼女は日本の公園で“ユナちゃん”とバブ語で心理学を語り合っていたのに、

いまはこうして、かつて自分が生きた場所に“ただいま”と告げる旅を終え、眠っている。


(なんなんだろうな、こいつ)


最初は本当に、ただの厄介な子どもだと思っていた。

精神分析? 夢? 記憶? なんのこっちゃ、というのが正直な感想だった。


けれど


ベルクガッセ19で椅子にそっと手を置く指先、

ラントマンのカフェでミルヒカフェを飲みながら目を細める表情、

ウィーン大学の前で、思い出せない記憶と静かに向き合っていた背中。


あの姿を、忘れられるはずがない。


(ああ……ほんとうに、あいつは)


そう思った瞬間、シグちゃんが寝返りをうった。

小さく「ふにゃ……」と寝言のように声をもらす。

お兄さんは、ついクスッと笑ってしまう。


(……偉大な精神分析家も、今は寝言で“ふにゃ”かよ)


でも、その“ふにゃ”の向こうに、

100年の歴史と、戦火の中の決断と、言葉を尽くして探し続けた「心」があった。


(フロイトって、すげぇな……)


そう思った。

それは「名前を知っただけの偉人」に対する尊敬とは違う。

彼の人生の重みと、苦悩と、愛と、孤独と、

それらすべてが“いま隣にいる女の子”に宿っていると知ったからこその、

魂を揺さぶられるような、重たい敬意だった。


(……できれば、次は)


お兄さんは、スマホのメモアプリにふと打ち込んだ。


ゴルダーズグリーン火葬場(Golders Green Crematorium)

ロンドン北部

フロイトの遺灰が安置されている


(そこにも、行ってみたいな)


あいつの“本当の終わり”が眠っている場所。

もしかしたら、そのときこそ


(“今の彼女”に、ちゃんと“さよなら”を言える気がする)


“フロイトとしての物語”に、きちんと幕を引いて、

“シグちゃんとしての人生”に、新しい章を開くために。


そしてそれを、隣で見届けるのが、

きっと、自分の役目なんだろうと、なんとなく思った。


シグちゃんは、まだ夢の中にいる。

ユングと議論しているのか、

アンナの頭をなでているのか。


わからないけれど


「……おやすみ、シグちゃん。

また、明日から、よろしくな」


飛行機は、静かに夜空を滑っていった。

過去を越え、歴史を越え、ふたりの未来へと向かって。

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