第二十四章:フロイトの街に、今ふたりで

「……寒っ」


「ウィーンはね、朝晩冷えるの。あと空気がちょっとだけ硬い感じ、分かる?」


「いや、初日から達人みたいなコメントするな……」


10時間以上のフライトを経て、シグちゃんとお兄さんはついにオーストリア・ウィーンに降り立った。

空港のターミナルには、ドイツ語と英語が入り混じり、クラシック音楽の断片がBGMとして流れている。


「……へぇ、意外とモダンなんだな、この街。もっと古都って感じかと思ってた」


「都市は変わっていくけど、建物と空気は変わらないの。

ほら、あそこ……!」


シグちゃんが指差す先に、ベルクガッセ19

フロイトが診療所を構えていた、精神分析の聖地ともいえる場所があった。


「……ここが、わたしの……」


「……前世の実家?」


「ちがっ……いや、まあ、あながち間違ってないけど……」


受付でチケットを購入し、二人は中へ。

展示室には、フロイトの使っていた椅子、古びた書斎の再現、

書簡や写真、さらには夢判断の直筆原稿などが静かに並べられていた。


「……わぁ」


シグちゃんは小さな声で、展示物の前に立ち尽くした。

目の前の“椅子”を、じっと見つめたまま、動かない。


「もしかして……ここで、患者の話を聞いてたのかな」


「うん。椅子は患者のため、もうひとつの椅子が、わたしの」


彼女の声は、どこか懐かしさと恥ずかしさが入り混じっているようだった。

思い出すようで、でもまだ手に取れないもの。


「……今のわたしじゃ、たぶん、ここに座る資格はないけど」


「でも、ここに来られたこと自体が、すごいことだろ」


お兄さんはそう言って、そっと彼女の背中を押す。


「……ありがと」


その一言が、壁に飾られた白黒写真よりもずっと強く、

“フロイトの生まれ変わり”がここにいるという実感を突きつけてくる。


そのあとはカフェ・ラントマンへ。


「このお店、よく来てたんだよ。ミルヒカフェとアップルシュトゥルーデルが好きで」


「……ほんとに小学生か?」


「わたしは、シグちゃんです」


上機嫌でミルヒカフェを飲む姿は、どう見てもただの小さな観光客だ。

しかしその目の奥には、100年を越えた知性が確かに灯っていた。


「お兄さん。わたし、今、なんか不思議な感じ」


「何が?」


「記憶は曖昧だけど、この空気とか人の喋り方とか……

“ここで生きてた”って、身体が覚えてる感じ。

でも同時に、“わたしはもう、ここには属してない”って思う」


「……うん。今は日本にいるもんな」


「ううん、そうじゃなくて……

ここは“昔のわたし”の場所。

でも“今のわたし”は、あなたと一緒にいるわたし。

だから、ここに来て思い出すためじゃなくて、

“さよなら”を言いに来たのかもしれない」


お兄さんは、一瞬だけ返す言葉を失った。


そんなことを、こんな年齢の少女が言えるのか。

だけど目の前の彼女は、本気だった。


「じゃあ、ウィーンは“墓参り”みたいなもんか?」


「ちょっと違うけど……でも、似てるかも。

ありがとう、昔のわたし。そして、

これからのわたしを、よろしくお願いします」


小さく頭を下げる姿に、お兄さんはそっとカップを掲げた。


「じゃ、未来のシグちゃんに乾杯」


「うんっ。乾杯、だね」


異国の街角で、小さなグラスがカチンと鳴った。

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