第7話 師弟契約
天利 穂が屋敷を去った後、リビングには再び静寂が戻っていた。
メグルは冷めたお茶を一口飲み、向かいのソファで足をぶらつかせているミナモに視線を向けた。
「さて。……大見得を切って彼を巻き込みましたが、具体的にどう鍛えるか、ですね」
「なんだい。ノープランだったのかい、相棒」
ミナモが呆れたように肩をすくめる。
「まさか。幾つか案はありました。……最初は、〈
メグルはすぐに自分の言葉を否定するように首を振る。
日本全土を統括する霊的組織。そこには確かに、体系化された修行法や、優秀な指導者が揃っている。だが、それこそが最大のリスクだ。
「却下ですね。あの組織は『理』を重んじすぎる。穂の持つ〈質量視〉――あの異質な眼の力を知れば、彼らは穂を『育てる』のではなく、『管理』しようとするでしょう」
九重本家のやり口は骨身に染みて知っている。
彼らは穂を飼い殺しにするか、あるいはメグルのように「道具」として完全に組織に取り込む。穂がメグルの隣に立って戦う日など永遠に来ないだろう。
「なら、手っ取り早い方法があるよ?」
ミナモがニヤリと笑い、虚空を指差した。
「もう一回、〈
「……却下です。それでは彼が人間でなくなってしまう」
メグルは即答した。
「組織にも頼れない。過激な荒療治もできない。……となると」
メグルは腕を組み、記憶の引き出しを探る。
「理」の外側にいて、組織のしがらみに関係なく動き、それでいて確かな実力を持つ者。
そして何より、穂のような「異質な見習い」を扱うことに慣れているような、ろくでもない人物。
一人の顔が、脳裏に浮かんだ。
派手な金髪。不機嫌な目つき。
そして、メグルに対して高額な護符を売りつけたり、厄介事を持ち込んだりしてきた、数々の悪行の記憶。
「……一人だけ、心当たりがあります。本当なら、一番頼りたくない相手ですが」
メグルは苦虫を噛み潰したような顔で、その名前を口にしようとした。
「あの、金に汚い――」
⚁
場所を移し、天利神社の境内。
静謐な空気が流れるはずの場所に、場違いな音が響き渡っていた。
ズズズッ!! ズルズルズルッ!!
豪快な麺を啜る音だ。
穂は、呆れ果てた表情で、目の前の光景を見下ろしていた。
社務所の縁側に腰掛け、ドンブリを抱えてうどんを貪っているのは、先ほど石段で行き倒れていた少女だ。
彼女は、穂が台所から持ってきた素うどん(ネギのみ)を、まるで数日ぶりの食事かのように猛烈な勢いで腹に収めていく。
「……ぷはぁっ」
少女は一滴残らず汁まで飲み干すと、ドンブリを置いて満足げに息を吐いた。
そして、懐から煙草を取り出し、慣れた手つきで口にくわえる。そして、懐から煙草を取り出し、慣れた手つきで口にくわえ――ようとした、その瞬間。
スッ。
穂の手が伸び、少女の口元から煙草を素早く奪い取った。
「あ?」
少女がキョトンとして穂を見る。
穂は、没収した煙草を指で摘みながら、真顔で説教を開始した。
「『あ?』じゃないだろ。ダメに決まってるだろ、子供がそんなの吸っちゃ。補導されるぞ」
どう見ても小学生か、良くても中学生にしか見えない。そんな少女が神社の境内で堂々と喫煙など、法以前に倫理的にアウトだ。穂の常識人としてのブレーキが作動したのだ。
しかし、少女は眉を吊り上げ、奪われた煙草をひったくるように奪い返した。
「誰が子供だ失敬な! 返せよコラ!」
「いや、返さないよ。親御さんに連絡するぞ」
「親なんざいねーよ! それにアタシはこれでも成人してるっつーの! 二十一歳だ、二十一歳!」
「はあ!? 二十一!?」
穂は素っ頓狂な声を上げる。
まじまじと少女の顔を見る。あどけない顔立ち。小柄な体躯。どう見ても未成年だ。年齢詐称にも程がある。
「……チッ。信じてない目だね」
少女は不機嫌そうに鼻を鳴らし、奪い返した煙草を(火はつけずに)口の端にくわえて揺らした。
「童顔なのは生まれつき……じゃなくて、ちっとばかし呪いのせいで成長が止まってるだけだよ。中身は立派なレディさ。文句あるか」
「呪いで……?」
その単語が出た瞬間、穂の警戒レベルが引き上がった。
冗談に聞こえない。この街なら、あり得る話だ。
「……まあいい。で、君は……いや、あなたは一体何なんだ? こんな山奥の神社に、何の用があって来たんですか」
穂はドンブリを受け取りつつ、敬語を使うべきか迷いながら尋ねた。
少女――自称二十一歳の女性は、スカジャンの襟を直し、ニヤリと口角を上げた。
「用? 決まってるでしょ」
彼女は立ち上がり、小さな身体からは想像もつかない威圧感を放った。
「ここに、金づる……じゃなかった。厄介な因縁の気配がしたから来たのよ」
「……は?」
言い直した言葉が聞こえなかったわけではないが、穂はあえて無視した。
この少女、やはりタダモノではない。メグルやミナモと同じ、「あちら側」の人間だ。
「名前、聞いてもいいか?」
穂が尋ねる。結局敬語は使わない事にしていた。彼女は咥えていた煙草を指で摘み、ふっと虚空へ煙を吐く真似をした。
そして、芝居がかった仕草でスカジャンの襟を正し、縁側の上に仁王立ちになる。
夕暮れの境内。
彼女の背後で、赤いスカジャンに刺繍された奇妙な宇宙人が、怪しく光った気がした。
「いい度胸だ、少年。アタシの名をタダで聞こうなんて、百年早いと言いたいところだが……」
彼女はニヤリと不敵に笑い、ビシりと親指で自身を指差した。
「うどんの借りは返してやる。心して聞きな!」
彼女は歌舞伎役者のように、大仰に見得を切った。
「混沌渦巻く魔都・新宿の路地裏から、古今東西あらゆる怪異の喉元へ!
彼女の声が、静かな境内に朗々と響き渡る。無駄に良い声だった。
「泣く子も黙る、天下無敵の美少女探偵────その名も、九重 クシナ様とはアタシのことさ!」
バアァァン!!
と、背景に効果音が見えるようなドヤ顔でポーズを決めるクシナ。
……沈黙。
カラスがアホゥ、と鳴いて飛び去っていく。
穂は半眼になり、冷静にツッコミを入れた。
「……探偵? その格好で?」
「形から入るのが一流なのよ、少年。そこ、感心するところだから」
クシナはポーズを解き、再び縁側にドカッと腰を下ろした。
その態度は、先ほどまでの行き倒れからは想像もつかないほど尊大で、そしてどこか憎めない愛嬌があった。
「ま、そういうわけだ。アタシは九重 クシナ。以後、お見知りおきを。……で、デザートはないの?」
「……ないよ」
穂は深いため息をついた。
やはり、この向又谷には、まともな人間は集まってこないらしい。
⚂
穂が呆れてクシナを見ていると、社務所の奥から作務衣姿の中年男性が現れた。
穂の父であり、天利神社の神主、
「騒がしいぞ、穂。境内で何事だ」
「ああ、親父。いや、なんか変なのが行き倒れててさ……」
穂が説明しようと振り返る。
しかし、父の視線は穂を通り越し、縁側に座る金髪の少女――クシナに釘付けになっていた。
そして、その顔色がみるみるうちに蒼白になっていく。
「……そ、その派手な金髪……それに、赤と白のスカジャン……」
禎善の声が震えている。
彼は、まるで幽霊か、あるいは神罰でも目の当たりにしたかのように、ガタガタと震え出した。
「ま、まさか……いや、しかし噂に聞く特徴そのままだ……。あなたは、もしや……」
父の様子がおかしいことに気づき、穂は怪訝な顔をする。
一方、クシナは「あちゃー」という顔で、バツが悪そうに視線を逸らした。
「九重(ここのえ)家の……クシナ様、ではありませんか!?」
禎善が叫ぶように問いかけると、クシナはポリポリと頭を掻き、観念したように溜息をついた。
「……ゲッ。面割れてんのかよ。田舎の神社だと思って油断したわ」
「ほ、本物だ……! 九重の本家筋の方が、なぜこのようなむさ苦しい場所に!?」
禎善はその場に平伏せんばかりの勢いで頭を下げた。
穂は唖然とする。厳格な父が、自分より年下に見える不良少女相手に、直立不動で冷や汗を流しているのだ。
「おいおい、よしてよオッサン。アタシはもう『九重』の人間じゃない」
クシナは不機嫌そうに手を振った。
「アタシは自分の意志で家を出た、ただの探偵さ。本家の威光なんて知ったこっちゃないし、敬われる筋合いもないね」
「し、しかし! 血筋は争えません! まさか貴女様のような高貴な方が、我が家にお見えになるとは……! 穂! お前、粗相はなかっただろうな!?」
急に矛先を向けられ、穂は「はあ!?」と声を上げる。
「ちょっと待ってくれよ親父! さっきから何なんだよ。九重家? 本家? ……このうどん女、そんなに偉い奴なのか?」
穂がクシナを指差すと、禎善は「指を差すな!」と息子の手をはたいた。
「馬鹿者! お前は知らんだろうが九重家といえば、我らのような神職や霊能に携わる者にとっては、雲の上の存在……いや、霊的社会の皇族にも等しい名家だぞ! お前、日頃オレの話をロクに聞いてなかっただろう!?」
禎善は脂汗を拭いながら、声を潜めて続ける。
「日本全土の霊脈を統べる〈出雲會〉……その頂点に君臨するのが九重一族だ。我々末端の神主など、一生かかってもお目通りすら叶わないような方々なんだぞ!」
「皇族……?」
穂は、縁側であぐらをかき、シーハーと歯を掃除しているスカジャン姿の少女をまじまじと見た。
(こいつが……?)
穂の脳裏に、メグルの姿がよぎる。
彼女が纏っていた空気は〝霊能者然〟とした空気があり、確かに常人離れしていた。
教室で見せた絶対零度の瞳。旧校舎でバットを振るった時の、神々しいまでの暴力性。
彼女には、言葉にし難い「格」のようなものがあった。
だが、目の前のクシナはどうだ。
金髪。スカジャン。うどん。そして「金づる」発言。
霊的社会の皇族? 冗談だろう。ただのガラの悪い金欠探偵にしか見えない。
(佐藤さんと比べても、あまりに俗っぽすぎる……。本当にすごい能力者なのか?)
穂の疑いの眼差しをよそに、クシナはニヤリと笑った。
「……悪いね、少年。親父さんの言う通り、アタシのバックボーンは少々重い」
彼女は立ち上がり、穂を見上げた。
「だが、今はただの居候希望者だ。……親父さん、そういうわけだから、しばらく離れの部屋、貸してくれない?」
「は、ははーっ! 喜んで!!」
即答する父。
「ちょっと待ってくれよ親父! 勝手に決めないでくれ!」
穂は慌てて抗議の声を上げ、父を制止しようとする。
「ただでさえ最近、おかしなこと続きなんだ。これ以上、訳の分からない人間を家に置くなんて御免だぞ! 大体、こいつが本当に九重家の人間かどうかも怪しいじゃないか!」
穂の言葉は正論だった。しかし、今の禎善にとってそれは、タブーに触れる暴言に他ならなかった。
「貴様ッ……! この御方をどなたと心得るか! 天利家を潰す気か、馬鹿者ォッ!!」
禎善の額に青筋が浮かぶ。
彼は怒鳴ると同時に、穂の頭を狙って容赦ない拳骨を振り下ろした。
昔から何度も食らってきた、父親の鉄拳制裁。避ける間もなく頭に響くはずの痛み。
――だが。
(……遅い)
その瞬間、穂の視界が冷徹に切り替わった。
父が振り上げた拳。その軌道上に、「重さの塊」が見える。
だが、それは昨日の〈虚数病棟〉で対峙した、あの黒い影の殺意に比べれば、あまりにも軽く、密度が薄く、そして遅い。
あんなものは、攻撃ですらない。ただの空気の流れだ。
穂は無意識に、半歩だけ身体をスライドさせた。
最小限の動き。紙一重の見切り。
ブンッ!
禎善の拳が、何もない空を切り裂いた。
勢い余った禎善は、つんのめるようにしてバランスを崩し、無様にたたらを踏む。
「……なっ!?」
禎善が驚愕に目を見開く。
殴られるはずだった息子は、無傷のまま、冷めた目で自分の拳を見つめていた。
「え……あ、あれ?」
穂自身も、自分の動きに驚いて掌を見つめる。
今、避けたのか? 親父の拳を?
まるでスローモーションに見えた。
その光景を、縁側から眺めていたクシナの目が、興味深そうに細められた。
「へぇ……。やるじゃん、少年」
彼女はパチパチと軽く手を叩きながら立ち上がる。
「今の避け方、マグレじゃないね。視えてなきゃ、あんな動きはできない。……キミ、いつからそっち側に足を突っ込んだ?」
琥珀色の瞳が、探偵としての鋭さを帯びて穂を射抜く。
穂は言葉に詰まる。
「ま、詮索は野暮か。……ちょうどいい」
彼女は穂の前に歩み寄り、指に挟んだ煙草で彼を指した。
「取引といこうか、少年。アタシをここにタダで置けとは言わない。その代わり、アタシがキミに稽古をつけてやる」
「稽古……?」
「そう。キミのその『眼』、使いこなせているとは言い難い。今のままじゃ、宝の持ち腐れだ。アタシは九重の本家筋だ。呪術の扱いも、荒事の捌き方も、そこらの素人よりは教えてやれる。……どうだい? 強くなりたくはないか?」
その言葉は、穂の心の最も柔らかい部分を刺した。
強くなりたい。
メグルとミナモが「見習い以下」と切り捨てた、無力な自分。
彼女と共に戦うと誓ったのに、今のままではただの足手まといだ。
穂は、目の前の少女を見つめ返す。
金髪、スカジャン、金欠。どう見ても胡散臭い。
だが、彼女が放つ〝強者の気配〟だけは本物だと、穂の直感が告げていた。
(……手段を選んでる場合じゃない、か)
穂は覚悟を決めて、深く息を吐いた。
「……分かった。その条件、飲むよ」
「交渉成立ね!」
クシナは満足げに笑い、禎善に向かってウィンクした。
「聞いたでしょ、親父さん? 教育係として住み込み決定ってことで。あ、晩飯は肉がいいな!」
「は、はい! 直ちに用意させます!」
父の情けない返事を聞きながら、穂は天を仰いだ。
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