第5話 茶会

​ ミノルが目覚めて最初に視界に入れたのは、見知らぬ天井だった。



​ 高い天井。見慣れた実家の和室の板張りではなく、古びた漆喰しっくいで塗られた洋式の造り。かつてシャンデリアが吊るされていたであろう金具だけが、黒い染みのように残っている。



​ 「……っ、ぐ」



​ 穂は反射的に身を起こし、自分の身体をまさぐった。



 右腕がある。胸に穴が開いていない。頭蓋骨も砕けていない。

 五体満足。痛みもない。

​ けれど、脳が記憶している「死」の感触が、幻痛となって全身を駆け巡った。



 数百回。あの白い地獄――で繰り返された、圧殺と再生のループ。



 その記憶が、冷や汗となって彼の背中を濡らしている。



​ 「……生きてる」



​ 乾いた喉で呟く。

 窓の外を見ると、鬱蒼とした木々が風に揺れていた。陽は落ち、辺りは完全な夜の闇に包まれている。ここがどこかは分からないが、少なくとも向又谷の山の中であることは間違いなさそうだ。



​ 下から、微かに話し声が聞こえる。



 穂は軋むベッドから降り、重い足取りで部屋を出た。



​ 廊下もまた、古びた洋館のそれだった。

 埃っぽいが、掃除はされている。けれど、どこか生活感が希薄で、まるで博物館の倉庫に迷い込んだような錯覚を覚える。



 ギシギシと鳴る階段を降り、声のする方――リビングらしき部屋へと向かった。



 ⚁




​ 扉が開かれていたその部屋は、アンティーク調の重厚な家具で埋め尽くされていた。



 猫脚のテーブル、革張りのソファ、色褪せたペルシャ絨毯。



 どれもが年代物で、この屋敷の歴史の深さを物語っている。



​ そんな、中世ヨーロッパを模したような空間の中央で。



​ 佐藤 匝留メグルは、ソファに深く腰掛け、湯呑みを片手に寛いでいた。



​ シュールな光景だった。



 セーラー服と、アンティーク家具と、渋い土色の湯呑み。



 彼女の存在だけが、この空間の「様式美」から微妙にズレている。いや、彼女という異物がいることで、この奇妙な空間が成立しているようにも見えた。



​ メグルは、階段を降りてきた穂に気づくと、湯呑みをソーサーのないテーブルにコトりと置き、いつもの無表情で彼を見た。



​「おはようございます、ミノル。……顔色が悪いですね」



​ 淡々とした声。

 昨日の騒動などなかったかのように、彼女は日常の延長線上にいた。



​「……おはよう、とは言えない時間だな。佐藤さん、ここは?」



​「ボクの家です。向又谷の山奥にある、ただの古びた屋敷ですよ。昨日はあなたが気絶したので、ここまで運んだんです」



​ 運んだ? この山の中を?



 穂は彼女の華奢な身体を思い浮かべ、次に彼女が振るったバットが呪いを粉砕していたのを思い出し、納得した。彼女の筋力? なら造作もないことだろう。



​「身体の調子はどうですか? 外傷はミナモに治させましたが、精神的な摩耗まではケアできませんからね」



​ メグルの言葉に、穂の心臓が跳ねた。

 ミナモ。

 その名前を聞いた瞬間、白い空間での絶望がフラッシュバックする。知らない名前のはずなのに、穂が眼があの痛みを思い出す。


 ミナモという名が持つ言霊とでも言うべきか、名を聞くだけ──穂にはその名を口にするには勇気が必要な程に感じていた。



​「……アイツ・・・は、何なんだ。俺をあんな目に遭わせて……」



​ 怒りと恐怖が入り混じった声が出る。

 すると、メグルの座るソファの背後から、ひょっこりと白い影が現れた。



​「人聞きが悪いなぁ。せっかく『視える』ように調整してあげたのに」



​ 鈴を転がすような、無邪気な声。

 黒いワンピースを着た、幼い少女。

 シシムラ ミナモが、そこにいた。



​ 「ッ……!」



​ 穂は反射的に半歩下がった。

 見た目は愛らしい少女だ。だが、覚醒した穂の眼には、彼女の背後に渦巻くおぞましい呪いの奔流がはっきりと視えていた。 



 あの白い空間を支配していた、絶対的な死の気、否、それ以上のナニカ・・・。それが、この少女の形をして笑っている。



​ (……!?)



​ 穂の記憶にある元凶は、学校の踊り場で手招きしていた「白い服の少女」だ。



 目の前の少女は、年齢や背格好こそ似ているが、服の色が違うし、何よりあの時のような「空虚な不気味さ」よりも、今は人間らしい実在感がある。



​「コイツは……!?」



​ 穂が尋ねると、メグルはため息をつきながら湯呑みを啜った。



​「紹介します。彼女がシシムラ ミナモ。ボクの装備を作っている技師であり……見ての通り、ろくでもない〝呪い〟そのものです」



​「呪い……?」



​ 穂が怪訝な顔をすると、黒い服の少女――ミナモが、テーブルにあったクッキーをかじりながら、ニッコリと笑った。



​「ひどい紹介だなぁ、相棒。わたしはただ、新しい『目』の性能をチェックしただけなのに」



​ その声を聞いた瞬間、穂の全身が粟立った。

 鈴を転がすような、無邪気な声。

 本能が告げている。この声の主こそが、あの絶望的な空間の支配者だと。



​ ミナモはテーブルの上にひらりと飛び乗ると、足をブラブラさせながら穂を覗き込んだ。その瞳は、底のない井戸のように暗い。



​「感謝してほしいくらいさ。キミの眼――〈質量視〉だっけ? あれが開花したのは、わたしがたっぷり死の恐怖を味あわせてあげたおかげだろ?」



​ 穂は絶句した。

 

 この少女だ。この少女が、あの「白い服の幽霊」の正体であり、俺を何百回も殺した張本人だ。



​「……あんたが、あの白い空間を……!」



​「〈虚数病棟ヴォイド・アサイラム〉だよ。素敵な場所だったでしょ?」



​ ミナモは悪びれる様子もなく、ケラケラと笑う。

 こいつは、人間じゃない。

 穂の倫理観や常識が通じる相手ではないことを、痛いほど理解させられる。



​「すみませんミノルくん、彼女には殺意はありません。ただ、倫理観が欠落しているだけです。今後、ボクのサポートをするなら、彼女とも付き合ってもらう事になる」



​ メグルは冷徹に事実を告げる。

 

 穂は、この化け物じみた少女と、バットを振るう少女の間に挟まれ、この非日常を歩まなければならないのだ。

​ 穂は震える拳を握りしめ、目の前の「日常を壊した元凶たち」を見据えた。



 逃げ場はない。

 なら、覚悟を決めるしかない。



​「……分かった。まずは、説明してくれ。俺の眼のこと、君たちのこと、そして……この街で何が起きてるのかを」




 ⚂




​ 穂の訴えを聞き届けたのか、メグルは静かに頷き、手元の湯呑みを置いた。



​「そうですね。屋上での約束でした。……あなたが覚悟を決めた以上、知る権利はあります」



​ 彼女は居住まいを正し、その蒼い瞳で真っ直ぐに穂を射抜く。



​「まず、前提から話しましょう。〈呪い〉とは、人間の負の感情が凝固したものです。ですから本来、呪いの発生頻度と強度は、人口密度に比例します。東京のような大都市こそが、最も呪いが湧きやすい場所なのです」



​「……人の数に、比例する」

​ 穂は反芻する。



​「ですが、今の向又谷はどうでしょう? 確かに、避難生徒たちで高校の人口は一時的に増えています。しかし、それでも都会に比べれば、ただの過疎が進む山間の田舎町に過ぎません」



​ メグルは冷ややかな視線を窓の外、夜の闇に沈む森の方角へと向けた。



​「それなのに、この街では異常な頻度と強度で呪いが発生しています。ボクが処理しても処理しても、次から次へと湧いてくる。……明らかに、自然の摂理ルールから逸脱しているんです」



​「じゃあ……昨日のアレは? 旧校舎の泥みたいな化け物は一体何だったんだ?」



​ 穂の問いに答えたのは、ミナモだった。



​「〈山ノ呪イ〉だよ。本来なら人里離れた山奥の土の中にしかないはずの、天然モノのヴィンテージさ」



​ ミナモはニヤリと笑う。



​「それが学校みたいな場所に湧くなんてありえない。アレはね、誰かが恣意的わざとに仕込んだんだよ。山から種を持ってきて、学校という栄養たっぷりの畑に植え付けたのさ」



​「仕込んだ……?」

​ 穂は絶句した。あの理不尽な暴力が、誰かの悪意によって配置された罠だったというのか。



​「その通りです」

​ メグルが言葉を引き継ぐ。



​「誰かが、この向又谷という街全体を使って、呪いの養殖(ファーム)を行っているんです。意図的に呪いを発生させ、成長させ……そして、ボクのような〈呪いの器〉として適性の高い人間に処理させることまでを含めた、壮大な実験場にしていると推測されます」



​ メグルの推測を聞き、穂は重苦しい沈黙の中で考えを巡らせた。



 許せないことだ。だが、現状としてメグルがそれを処理できているのなら、最悪の事態は免れているのではないか?



​「でも……相手の狙いが何であれ、佐藤さんが倒して吸収できているなら……とりあえずは大丈夫、なんじゃないか? 街に被害は出てないわけだし」



​ その言葉が出た瞬間、ミナモが「くすっ」と不吉な忍び笑いを漏らした。



​「あはは! 傑作だねぇ。ねえメグル、この少年、キミのことを便利な掃除機か何かだと思ってるよ?」



​ メグルは温度のない瞳で穂を見据えた。



​「ミノル。ボクは先ほど言いましたよね。ボクは〈呪いの器〉であると」



​「あ、ああ……」



​「器には、必ず底があります。ボクは呪いを消滅させているのではありません。毒を飲み込んで、体内に溜め込んでいるだけです」



​ メグルは自身の平坦な胸元に手を当てた。



​「もし、呪いがボクの許容量キャパシティを超えたらどうなると思いますか? 制御を失った膨大な呪いのエネルギーが一気に暴発します。……向又谷一つが消し飛び、半径数十キロが呪いに満ちた魔境──死の土地になるでしょうね」



​ 淡々と告げられた言葉に、穂は息を呑んだ。

 彼女は、ただ戦っているのではない。核弾頭の信管を、毎日ギリギリのところで押さえ込んでいるようなものだ。

 そして、この街の誰かが、意図的にその核弾頭に燃料を注ぎ込み、爆発させようとしている。



​ (……ふざけるな)



​ 恐怖よりも先に、煮えくり返るような怒りが湧いた。



 一人の少女に、そんな理不尽な運命を背負わせ、あまつさえそれを実験台にするなんて。



​「……許せないな」

​ 穂は拳を強く握りしめた。



​「そんな奴らの思い通りにさせてたまるか。佐藤さん、俺も戦うよ。俺が少しでも強くなって、君が戦わずに済むように……君がこれ以上、その器を埋めなくて済むようにする」



​ それは、平凡を愛する少年が、初めて明確に「戦い」を選び取った瞬間だった。



​ その決意を聞いて、メグルは少しだけ目を丸くした。だが、すぐに呆れたように鼻を鳴らす。



​「……気持ちは受け取っておきますが、勘違いしないでください」



​「え?」



​「ボクの許容量は、そう簡単に一杯にはなりませんよ。昨日の旧校舎レベルの雑魚なら、あと千体取り込んでも余裕です」



​「せ、千体……!?」

​ 穂は素っ頓狂な声を上げた。あの化け物が、雑魚?



​ ミナモが、勝ち誇ったように胸を張る。



​「当然さ。メグルが取り込んだ呪いは、わたしが〈虚数病棟〉の中で解体して、無駄な部分を削ぎ落として極限まで圧縮zipしてるんだからね。効率的な収納術ってやつさ」



​「そ、そうなのか……」



​「ですが、それにも限度があります」

​ メグルは表情を引き締める。



​「今後、等級の高い呪いが増えてくれば話は別です。二級、あるいはそれ以上の呪いを取り込めば、圧縮限界を超えて、ボクの器は軋み始めるでしょう」



​「あ、あれが……雑魚、なのか……」

​ 穂は改めて戦慄した。



​「当たり前だろ。キミの実力なんて、今のところ見習い以下だよ」

​ ミナモが冷酷な評価を下す。



​「……まあ、素質は悪くありません」

​ メグルがフォローするように言った。そして、何かを思い出したように穂を見る。



​「そういえば、あなたは神社の息子でしたね。……天利神社」



​「え? ああ、そうだけど……」



​「天利神社は、この向又谷の地主神を祀ると同時に、ある組織との関わりが深いはずです。……〈出雲會いずもかい〉」



​「出雲……會?」

​ 聞き覚えのない名前に、穂は首を傾げる。



​「日本全国の霊能者を統括する、巨大な組織です。あなたの家も、末端とはいえその組織に名を連ねているはずですよ。……出来れば関わり合いになりたくなかったんですけどね」

​ メグルは小声で付け足し、深い疲労感を滲ませた。



​「……話が長くなりました。今日はもう遅いです」



​ 窓の外は、完全に夜の闇に包まれていた。山道の夜は危険だ。ましてや、呪いが活性化している今の向又谷では。



​「今日はここに泊まって行ってください。客間なら腐るほど余っていますから」

​「えっ、でも……」

​「拒否権はありませんと言ったはずです。それに、下手に帰ってまた変な呪いに憑かれでもしたら、ボクの二度手間になります。流石にここ連日まともに休息が取れてません、疲れました」



​ メグルの有無を言わさぬ言葉に、穂は反論を飲み込む。



 だが、ふと湧き上がった疑問が口をついて出た。



​「……あのさ、佐藤さん」



​「なんです?」

​ 立ち去ろうとしたメグルが足を止める。



 穂は、薄暗いリビングと、その奥に続く広大な廊下を見渡した。



 重厚なアンティーク家具。埃っぽいが手入れされた空間。

 どう見ても、女子高生が一人で管理できる規模ではない。



​「この広い屋敷……もしかして、君一人で住んでるのか? 他に家族とか、家の人はいな――」



​「……一人ですよ。今は」

​ メグルは淡々と答えた。その声には、寂しさよりも、ただの事実を述べる冷徹さがあった。



​「元々、ここはボクの育ての親である祖父の持ち物でした」



​「おじいさん?」



​「ええ。変わり者の老人でしたよ。こんな山奥に洋館を建てて、骨董品を集めて……。彼はもう亡くなりましたが、この屋敷と、『佐藤』というありふれた苗字だけが、ボクに残されたものです」

​ 彼女は少しだけ目を伏せた。



 その表情からは、祖父に対する思慕があるのか、それとも別の感情があるのか、読み取ることはできない。



​「そう、だったのか……。変なこと聞いてごめん」



​「謝る必要はありません。事実ですから」

​ メグルは顔を上げ、いつもの無表情に戻った。



​「部屋は二階の突き当たりを使ってください。……では、おやすみなさい」



​ 彼女はコツコツと足音を立てて、部屋を出て行った。



 残された穂は、ミナモのニヤニヤした視線を感じながら、広すぎる洋館のソファに深く沈み込んだ。



​ 育ての親、か。



 穂は、メグルが背負う孤独の輪郭を少しだけ触れた気がした。



​ こうして、長い一日が終わろうとしていた。

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