第4話 呪い呪われ


​ 瞬きをした、その一瞬の隙間だった。

 薄暗い木造校舎の廊下も、窓の外の霧も、世界から唐突に消滅した。



​ 「……は?」



​ 穂の口から、乾いた音が漏れる。



 次に肺を満たしたのは、埃っぽいカビの臭いではなく、鼻の奥を鋭く刺す、高濃度の薬品臭だった。



​ それは、病院の消毒液と、生物標本を漬け込むホルマリンを何倍にも煮詰めたような刺激臭。



 吸い込むたびに喉が焼けつき、肺の内側から凍りついていくような、「生」を拒絶する清潔さに満ちた臭いだった。



​ 「どこだ、ここ……あの白い女の子は……」



​ 穂は咳き込みながら、周囲を見渡す。



 視界を埋め尽くしていたのは、暴力的なまでの白だった。

​ 天井も、壁も、床も。継ぎ目のない無機質な素材で構成された空間は、どこまでも白く、影すら存在しない。

 見渡す限り続くその風景は、巨大な病院の待合室のようであり、同時に出口のない霊安室のようでもあった。



​ 穂は混乱しながら、一歩を踏み出そうとした。



 だが、足が動かない。いや、本能が〝動くな〟と全身の筋肉を硬直させていた。



​ ギチリ、と眼球が軋む音がする。



 穂の覚醒したばかりの眼が、この清浄な空間に隠された異常な情報を脳に叩き込んできたからだ。



​ 「ぐ、ぅ……ッ!」



​ 穂は呻き声を上げ、その場にうずくまりそうになるのを必死で堪えた。



 視えている。視えすぎてしまう。



​ この純白の空間には、何もないのではない。



 一見ガランとした通路や空間の至るところに、見えない巨大な質量が、乱雑に配置されていた。



​ ある場所には、天井から吊り下げられた数トンの鉄球のような重圧が。



 ある場所には、左右から迫る巨大なプレスマシンのような圧力が。



 透明な凶器が、この清潔な病棟の至るところに罠として仕掛けられている。



​ (……触れたら、死ぬ)



​ 論理ではなく、確信として理解した。



 あそこに漂っている「重さ」に指一本でも触れれば、その瞬間に全身の骨が砕け、肉がミンチになり、この真っ白な床の染み一つ残さず圧殺される。



​ ここは病院ではない。見えない断頭台が林立する、処刑場だ。



​ 「ふざけるなよ……こんなの、どうやって進めばいいんだ……」



​ 冷や汗が床に落ちる音だけが響く。



 だが、穂の眼は、絶望の中に微かな〝隙間〟を捉えていた。



 重さが充満する空間の中に、糸のように細く、曲がりくねった『重さのないルート』が存在する。



​ (……行けって言うのか? この、一歩踏み外せば即死の綱渡りを)



​ 穂は覚悟を決めるように拳を握った。



 今はただ、この理不尽な白の世界で生き延びるために、その眼を見開くしかなかった。



​ 神経を研ぎ澄ませ、見えない地雷原をどれくらい進んだだろうか。



 穂は、白い廊下の突き当たり、開けたホールのような空間にたどり着いた。



​ そこには、今までの無機質な「重さ」とは異なる、異質な存在が鎮座していた。



​ それは、純白の空間に浮かぶ、黒い影だった。

 人型をしているが、表面はコールタールのように不定形で、常にブクブクと泡立っている。



 そして、その影の中心に鮮やかな深紅の核が脈打っている。



​ (……生きてる?)



​ 穂の目が、その影から発せられる〝意思〟を捉えた。



 ただの現象ではない。明確な殺意を持った、〝生きた呪い〟。



​ 「……あ」



​ 影が揺らぐ。



 次の瞬間、影から伸びた触手のような鞭が、音速を超えて穂の胸元を貫いていた。



​ 痛みはない。ただ、視界が反転し、自分の血が白い床を染めるのが見えた。



 ああ、死ぬんだ。平凡な人生の終わりにしては、あまりにもあっけない幕切れ――。




​ プツン。意識が途切れた。





​ ⚁




​ 同時刻。向又谷高校、屋上。

 錆びついたフェンス越しに、向又谷の街並みが夕闇に沈んでいくのが見える。



 風が強くなり、メグルの黒いステンカラーコートの裾を激しく叩いていた。



​ 彼女は、手首の腕時計に冷ややかな視線を落とす。



​「……遅い」



​ 放課後になってから既に時間が経過している。

 天利 穂は現れない。



 彼が逃げた? いや、それは考えにくい。



 あの少年は、平凡を望みながらも、目の前の異状を無視できない奇妙な倫理観を持っている。



​ (また巻き込まれたんでしょうか、あるいは――)



​ メグルが思考を巡らせた時、背後の貯水タンクの上から、鈴を転がしたような少女の声が降ってきた。



​「あはは。随分と怖い顔をしてるねぇ、メグル」



​ メグルは驚くことなく、ゆっくりと振り返り、その蒼い瞳をスッと細める。



​「……何の用ですか。シシムラ ミナモ」



​ そこには、小学生くらいの幼い少女が腰掛けていた。



 黒いワンピースの上に、医師のような白いコートを羽織った少女。



 その背後には、蠢く巨大な黒い影が従っている。



​ シシムラ ミナモ。



 人でありながら呪いそのものであり、メグルの身体に寄生する〝安全装置〟。



​「メグルの呪装どうぐの話じゃないさ。新しい友達パーツの話だよ」



​ ミナモは、短い足をブラブラとさせながら、楽しげに笑った。



​「あの少年、天利 穂だっけ? なかなか面白い眼を持ってるじゃないか。素材としては悪くない。だから、ちょっと強度テストをさせてもらってるよ」



​ メグルの瞳孔が開く。



 穂が来ない理由。それは、この無邪気な姿をした生きた呪いが介入していたからだ。



​「彼をどこへやったんですか」



​ メグルの声温度が氷点下まで下がる。

​「私の領域……〈虚数病棟ヴォイド・アサイラムの端っこさ。ただの空間の迷路だよ。彼の眼が本物なら、あの程度の『重圧トラップ』は見切って出てこられるはずだ」



​ ミナモは悪びれる様子もなく、積み木遊びの話でもするように言った。



​「もし出てこられなかったら? まあ、その時は圧死して終わりだね」



​ ブンッ!!



​ 次の瞬間、メグルの魂鎮めの鉄塊が、ミナモの鼻先数センチを薙ぎ払っていた。



 寸止めされた風圧で、ミナモの前髪が舞う。



​ メグルは、殺意を隠そうともせず、バットを幼い少女の顔面に突きつけた。



​「……ふざけるな。彼はボクの『目』になる人間です。あなたの玩具じゃない」



​「おっと、怖い怖い」



​ ミナモは大げさに両手を挙げたが、その大きな黒い瞳は笑っていない。



​「すぐに空間を開けなさい、ミナモ。彼が死ねば、ボクの制御も、あなた自身の拡散を防ぐ事も、すべてが破綻しますよ」



​ それは脅しであり、事実だった。



 メグルは、穂を助けるためなら、自身のリミッターを外し無理やりにでも行使する覚悟を目に宿していた。



​ ミナモは少しの間、メグルの蒼い瞳を見つめ返すと、つまらなそうに頬を膨らませた。



​「ちぇっ。分かったよ。……まったく、いつからそんなに所有欲が強くなったんだか」



​ ミナモが小さな指をパチンと鳴らす。

 屋上の空間が、歪み始めた。




 ⚂




​ 「……ッ!!」



​ 穂は、弾かれたように息を吸い込み、目を見開いた。



 心臓が早鐘を打っている。傷はない。血も出ていない。



 夢か? だが、顔を上げた瞬間、思考は凍りついた。



​ 目の前には、あの黒い影が鎮座していた。さっき殺された場所と、全く同じ構図。



​ (まさか……)



​ 逃げようとした瞬間、影が再び膨張した。今度は右から。



 バヂンッ!



 頭蓋骨が砕ける音。視界が暗転する。




​ ***




​ 「がっ……はぁッ!!」



​ 再び、意識が覚醒する。場所は同じ。



 理解したくなかったが、認めざるを得ない。



 ここは、死ぬことすら許されない、無限の処刑台だ。



​ ───5回目。


 ─────10回目。


 ───────30回目。



 死のループの中で、穂の精神から恐怖が削ぎ落とされ、冷徹な観察眼だけが残っていく。



​ (……さっきは右だった。その前は上。予備動作がある)



​ 死ぬたびに、彼の脳裏に『殺されたパターン』が焼き付いていく。



 攻撃の前に必ず起こる『重さの偏り』。



 黒い影の中で、殺傷能力のある〝重い部分〟と、殺傷能力の低い〝軽い部分〟の違い。



​ (視える……! どこが重くて、どこが軽いか!)



​ それは、対象の質量・・を視覚情報として捉える力。〈質量視マス・サイト〉。



 穂は、充血した眼を見開き、再び黒い影と対峙した。



​ 

 ⚃




​ (……観察しろ。逃げながら、考えろ)



​ 穂は、頬を掠める黒い触手の感触を確かめる。

 眼には『質量』が見えている。脳内で「実体」と定義することもできる。 



 だが、それだけでは足りない。



 生身の人間が、高密度の呪いに触れれば、触れた端から肉が崩壊する。



 対抗するには、こちらも同質の「何か」を纏わなければならない。



​ (佐藤さんは、あのバットみたいな武器で戦ってたな……)



​ 死のループの中で、穂の思考は冷徹に、そして倫理のタガが外れる方向へと加速していく。



 呪いとは何か。



 それは、行き場を失った感情の質量。



 他者を害そうとする、純粋で重たい『殺意』の塊。



​ (なら、俺もやればいい。……こいつを、呪えばいいんだ)



​ 穂の心奥から、どす黒い感情が湧き上がる。



 理不尽に殺され続けた怒り。痛みへの憎悪。



 「死にたくない」という生存本能が反転し、「お前が死ね」という明確な害意へと変質する。



​ 「……死ね、クソ野郎」



​ 穂は呟いた。

 その瞬間、彼の身体から立ち上る熱量が、「重さ」を持った。



 彼自身から溢れ出した負の感情が、皮膚の表面を覆う薄い膜となり、呪いの鎧を形成する。



​ (そうだ。これが〝呪う〟ってことか)



​ 理解した。



 他者を呪うことで、自身もそのカルマを背負う。



 だが、その業こそが、この理不尽な世界で唯一、身を守る盾となり、敵を穿つ矛となるのだ。



​ 穂は、次に来る攻撃を待った。



 牽制のための鞭のような一撃。密度は薄い。



​ (俺の眼は今、見えないはずの質量を見ている。……なら、見えている質量を「在る」と定義するのは、俺の脳だ)



​ 穂は、その鞭の軌道を見据え、意識を集中して脳内で映像を強制的に書き換えた。



 煙じゃない。あれは……『布』だ。あるいはロープの様な掴めるものだ。



 そして、自らの右手に〝殺意という名の呪い〟を纏わせる。



​ 穂は、すり抜けるはずの影に向かって、左手を突き出した。



​ バヂッ!!



​ 乾いた音が響く。指先が虚空を掴む感触。



 呪いを纏った穂の手は、黒い影に侵食されることなく、そのエネルギーを物理的に鷲掴みにしていた。



 煙のように散るはずだった影が、穂の掌の中で凝固し、ざらりとした実体へと変化した。



​ 「……掴め、た……ッ!」



​ 掌に走る激痛。だが、肉体は崩壊していない。

 穂の放つ呪いが、相手の呪いと拮抗し、中和しているのだ。



​ 黒い影の本体が、驚いたように揺らいだ。



 ただの獲物が、自分と同質の捕食者へと変貌したことに戸惑っている。



​ その隙を、穂は見逃さなかった。



​ (引きずり降ろしてやる!)



​ 穂は、実体化させた影の鞭を、力任せに引き込んだ。



 バランスを崩した影の胴体に、赤黒く脈打つ核が剥き出しになる。



​ (今だ!)



​ 穂は踏み込む。右の拳を固く握りしめ、その拳に全身全霊の呪いを込める。  



「何度もぶっ殺してくれやがって────」



 鋼鉄の重さと、相手を砕くという明確な殺意。



​ 「テメェも死んでみろ!!」



​ 渾身の一撃が、脈打つ核へと叩き込まれた。



​ 硬質な手応えと共に、黒い影の中心が爆ぜ、空間全体が激しく振動した。




​ ⚄




​ 「はぁ……、はぁ……っ!」



​ 影を霧散させたものの、世界を覆う「白」は晴れない。



 穂は膝から崩れ落ちた。限界だった。

​ 視界が暗転しかけた、その時。



​ ベリリッ!!



​ 何もない純白の空間が、まるで紙のように外側から引き裂かれた。



 生じた亀裂から、見慣れた濡れたような黒色のバットがねじ込まれ、強引に空間をこじ開ける。



​ 「――まったく、ミナモが言う事を聞くわけないですよね」



​ 不機嫌そうな声と共に、黒いステンカラーコートの少女が、白の世界へと踏み込んできた。



 佐藤 匝留。



 彼女は肩で息をする穂を見つけると、わずかに目を見開き、すぐにいつもの冷徹な表情に戻った。



​ 「……生きてましたか。しぶといですね」



​ 「佐……藤、さん……」



​ 穂は安堵と共に、糸が切れたように意識を手放した。



​ 静寂が戻った白い空間に、メグルと、倒れた穂、そして虚空に浮かぶミナモだけが残された。



​ メグルはバットを下ろし、空間の裂け目の向こうでニヤニヤと笑うミナモを睨みつける。



 ミナモには何らかの意図があり、穂に試練を与えた。



 だが、あえて追求はしない。今はまだ、この共犯関係を続けるしかないのだ。



​「帰ります。……ミナモ、あなたも手伝ってくださいよ? どうせロクでもない方法で彼を痛めつけたんでしょうから」



​ メグルは深いため息を吐くと、倒れた穂の襟首を掴み、乱暴に、けれどどこか慎重に引きずり起こした。

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