第4話 痛み

 屋上の扉が開き、無表情の生徒が立っていた。


 冷たい風が吹き込み、空気が一瞬で張り詰める。


 その生徒はゆっくりと歩み寄り、彩花を見つめる。


「ようやく……見つけた」


 声には感情がほとんどなく、それが余計に恐怖を強めた。


 美弥が前に立ちふさがる。


「アンタ何者!?なんで彩花を——」


 しかし男は答えず、ただ彩花だけを見て言った。


「お前は覚えてないのか」


「……私、あなたのことなんて……知らない……!」


 男は小さく笑った。


「知るはずがない。

 でも——“あいつ”は知っている」


「……あいつ?」


 その瞬間だった。


 屋上の扉が勢いよく開き、息を切らした凜が飛び込んできた。


「彩花!! 美弥!! 離れろ!!」


 あまりに切迫した声に、彩花は驚いて振り返る。


 凜の目は、怒りと焦りと恐怖が入り混じっていた。


 無表情の男は凜を見ると、ふっと口角を上げた。


「……来たか。

 “お前”が来ないと意味がないからな」


 凜は歯を食いしばった。


「……やっぱり、お前だったか。

 真崎」


 その名を聞いて、美弥が息を呑む。


「真崎……って……二年の……!」


 彩花だけが、名前に心当たりがない。


「……凜。

 この人、あなたとどういう関係なの?」


 凜は彩花の方を見た。


 そして、決壊したように言葉を吐き出した。


 **「彩花……ごめん。


 お前には言えなかったことがある。」**


 胸がひきつる。


 凜はゆっくりと真崎のほうへ視線を戻す。


「俺が昔、中学で関わった事故……知ってるか、彩花?」


「……え?」


「俺は、中学で“いじめの加害者”に巻き込まれていた。

 標的にされたやつを庇ったせいで、俺まで狙われた。

 その“標的”が——真崎の弟だった」


 彩花は息を詰まらせた。


 真崎の弟……

 そのいじめのせいで、何かが起きたのか?


 真崎は静かに笑った。


「お前のせいで、弟は学校に来られなくなった。

 怪我だけじゃない。心も壊れた」


 凜が叫ぶ。


「違う! 俺は助けた側だ!!」


「だが弟は“お前のせいだ”と言い続けていたよ。

 守ってくれたのか、巻き込まれたのか……もう判断もできないほど追いつめられていた」


 彩花は震えながら凜を見た。


「凜……そんなこと……どうして今まで——」


「言えるわけないだろ……!

 俺はずっと後悔してた。

 誰かを守ろうとして、逆に傷つけて……何もできなかった自分が情けなくて……」


 その声は、聞いたことがないほど震えていた。


 真崎がゆっくりと彩花の方を見る。


「そして気づいた。

 弟が言った“お前のせい”の“お前”は……凜じゃない。」


「え……?」


 真崎の眼光が鋭くなった。


「弟は最後まで言っていた。

 “あの女のせいだ”ってな。」


 彩花は心臓が止まりそうになった。


「……私……?

 私、中学違うよ……会ったこと——」


 真崎は首を振った。


「お前じゃない。“名前が似ている別の女子”だ。

 だが——俺は凜を苦しめた“女”をずっと探していた。

 そして気づいたんだよ。」


 屋上に風が吹き荒れる。


 真崎は凜と彩花を交互に見て、断言した。


 **「凜が守ろうとしたのは“弟”じゃない。


 “お前”なんだよ……彩花。」**


 彩花は呼吸ができなくなった。


「……ま、待って……意味が……」


 凜は目を閉じた後、ゆっくりと彩花を見た。


「彩花……

 俺、お前のこと……ずっと前から知ってたんだ。」


「え……?」


「小学生の時、お前、別の学校の文化祭に来たことあるだろ?

 迷って泣いてる子供を、俺が案内した。

 ……覚えてないよな」


 彩花の記憶に、かすかな光景がよみがえる。

 手を引かれたあの感覚——。


 凜は続けた。


「あの日、俺は初めて“誰かを守れた”。

 だから、ずっと探してたんだよ。

 名前もわからない“あの子”を。

 でも……真崎は勘違いをして、お前が“弟を追いつめた女”だと思い込んだ」


 彩花は震えながら口を開く。


「じゃあ……

 狙われてた理由って……」


 真崎は静かに言った。


「凜が守った“女”を、俺が許せるわけがない。

 凜を壊した“原因”は——お前だからだ。」


「ちが……っ……!」


 彩花は膝から崩れそうになる。


 凜が慌てて支える。


「やめろ真崎!!

 彩花は関係ない!!

 俺が俺自身を責めてただけだ!!」


 しかし真崎は首を振る。


「だからこそ……“彩花を選んだ凜”を壊すには、彩花を狙うのが一番早い。」


 屋上に、重い静寂が降りる。


 凜は彩花の手を握りしめた。


「……彩花。

 これが、俺が隠してた“真相”だ。」


 彩花は涙をこぼした。


 胸が痛くて、苦しくて——

 でも、ひとつだけわかる。


 凜はずっと、一人で背負っていた。


 そして今——

 その影が、彩花に牙を剥いている。


 真崎が一歩前に出る。


「さあ、終わりにしよう。

 凜も、お前も——全部。」


 風が、遠くで雷鳴のようにうねり始めた。


 屋上で向かい合う四人。

 空は急速に雲に覆われ、冷たい風が髪を揺らす。


 真崎が一歩前に進む。


「ここで終わりだ。

 凜、お前が守っている“女”も……お前自身も。」


 凜は彩花の前に立ち、全身で庇った。


「……俺は、あの時みたいに逃げない。

 今度こそ、守るって決めたんだ。」


「守る?」

 真崎の声は嘲りを含んでいた。

「守れなかったやつが何を言う。」


 凜の拳が震える。


 彩花は震える声で言った。


「凜……もういいよ。私のせいで——」


「違う!!」


 凜は初めて彩花に向かって怒鳴った。

 いつもの静かな彼からは想像できない叫びだった。


「お前のせいじゃない。

 俺が……俺が黙ってきたせいだ。

 俺の弱さが真崎を歪ませた……!」


 真崎が冷たい目で彩花を見下ろす。


「彩花。凜がお前を選んだ瞬間から、お前は“標的”だ。」


 美弥が叫んだ。


「アンタ、何言ってるの!?彩花は何も悪くない!!」


「悪いかどうかは関係ない。」

 真崎の声は低く、痛いほど冷静だった。

「凜を苦しめた“原因”——それが消えればいい。」


「原因……?」


 真崎はゆっくりと凜を指差した。


「お前が彩花を守り続ける限り、お前は永遠に後悔する。

 弟を守れなかった時のように。」


 雷鳴が轟き、屋上の空気が震えた。


 彩花の手が凜の袖を掴む。


「凜……やめようよ。私、もう逃げない。

 けど……誰かが傷つくのはもう嫌なの。」


 凜は彩花を見る。

 その瞳は深い影を湛えていたが、同時に強い光が宿っている。


 そして——


 彼は決断した。


 **「真崎……俺がお前の弟にしたこと。


 全部、俺が償う。」**


 真崎が眉をひそめる。


「償う?どうやってだ。」


 凜は一歩前へ進む。


「俺を——学校から消せばいい。

 退学でも停学でも何でもいい。

 だから彩花と美弥には二度と近づくな。」


「り、凜!!?」

 彩花の声が裏返る。


「やめて!!そんなことしなくても……!」


 美弥も叫んだ。

「アンタ、自分を犠牲にすれば解決するとでも思ってんの!?」


 だが凜は静かに二人を振り返った。


「……俺は、ずっと後悔して生きてきた。

 誰かを守ろうとして、逆に追いつめてしまったこと。

 だから今度は……自分が代わりになる。」


 風が強く吹き、シャツが揺れる。


 凜は真崎に向き直った。


「俺を傷つけたきゃ傷つけろ。

 でも彩花を巻き込むな。

 お前が欲しいのは——俺の破滅なんだろ?」


 真崎はしばらく沈黙した。


 その沈黙が、屋上に響く雷よりも重かった。


 そして、彼はゆっくりと笑った。


 **「やっぱり……変わってないな、凜。


 “自分が傷つけば済む”と思ってるところが。」**


 真崎は一歩、凜へ歩み寄る。


「だが……その自己犠牲が一番ムカつくんだよ。

 そうやって“正しさ”を気取って……何も理解してない。」


「……理解?」


 真崎の目が赤くなるほど血走る。


「弟が壊れた理由は……いじめでも、お前でもない。

 誰にも気づかれなかったことだ。

 助けられなかったことだ!!

 お前も、周りも……全員が!!」


 凜は言葉を失った。


 真崎の声は震えていた。

 怒りだけではない——悲しみが、その奥底に渦巻いていた。


 彩花は気づいた。


 真崎もまた、ずっと苦しんでいたのだ。


 だが——


 真崎は最後の一言を告げた。


「凜。

 お前が“彩花を守る”というなら……俺は逆に、彩花を奪う。」


「——やめろ!!」


 凜が叫ぶが、真崎は静かに続けた。


「奪われる痛みを、今度はお前が味わえ。」


 その瞬間、真崎はフェンスの近くにいた彩花へ向かって走り出した。


「彩花!!!」

 凜の叫びが空気を切り裂く。


 美弥が咄嗟に彩花を引き寄せる。


 真崎の手が伸びる。


 彩花の視界が白く弾けた——。

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