第5話 犠牲

 真崎の手が彩花へ伸びた瞬間——

 世界がスローモーションになる。


 彩花の背中に迫るフェンス。

 屋上をなめるように吹く強風。

 落ちたら終わり。

 凜も、美弥も、誰も追いつけない距離。


 そして——


 彩花の前に、ひとりの影が飛び込んだ。


「——やめろ!!!」


 美弥だった。


 その一秒後。


 衝撃。


 風を切る音。


 彩花の視界が揺れ、誰かの身体が宙を舞うのが見えた。


 落ちていくのは——美弥の身体だった。


「……え?」


 彩花の声は震え、喉が凍ったように音にならない。


 凜が叫ぶ。


「美弥!!!」


 真崎の手は空を掴み、力なく震えた。


 次の瞬間、屋上に響いたのは鈍い衝撃音。


 そして、世界が音を失った。


 ■ 病院


 雨が降っていた。


 その雨音が、病院の白い廊下に静かに吸い込まれていく。


 彩花は震える膝を抱え、椅子に座っていた。

 隣では、凜が壁にもたれ、顔を覆っている。


「……私のせい……」

 彩花が漏らす。


 凜はゆっくりと顔を上げ、首を振った。

 涙で赤くなった目で、必死に言葉を探しながら。


「違う……違うんだ……。

 美弥は……あいつはずっと……

 俺たちを守ろうとしてた……」


 真崎は警察に連れて行かれた。

 抵抗もせず、ただ呆然と雨の中で立ち尽くしていたという。


 美弥が倒れた場所には、赤い雨水が広がっていた。


 彩花は胸に手を当て、息を絞り出す。


「最後に……私の手……引っ張ってた……

 あの時、美弥さん……

 “逃げないで”って言った……」


 その言葉を思い出した瞬間、彩花の目から大粒の涙が零れた。


 ■ 手術室前


 医師が現れた。


 深刻な表情。

 その顔だけで、十分すぎる答えだった。


「……残念ですが……」


 彩花は耳を塞ぎ、聞きたくなかった現実を拒むように首を振った。


 凜は顔を背け、肩を震わせた。


 美弥——

 強く、美しく、誰よりも真っ直ぐだったあの少女が。


 この世界から消えた。


 守ろうとした人を守り抜いて。


 ■ 葬儀の日


 空は、あの日と同じ雨。


 彩花は黒い服に包まれたまま、美弥の写真を見つめた。


 笑顔。

 いつもの、少し強がったような美弥の笑顔。


「……ごめん……本当に……ごめんね……」


 彩花は写真に触れ、泣き崩れた。


 凜が傘を持ちながら近づき、静かに言った。


「美弥は……最後まで、お前のこと……守ろうとしてた。

 あいつ……俺たちの中で、一番強かったんだよ……」


 二人は雨の中、しばらく言葉を失ったまま立ち尽くした。


 ■ その後


 真崎は取り調べで泣き崩れたという。


「俺は……誰も殺したかったんじゃない……

 ただ、弟を……誰かを……救いたかっただけなんだ……」


 その言葉は、誰にも届かなかった。


 取り戻せるものは、もう何もなかった。


 ■ 雨の教室


 しばらくして、彩花は学校に戻った。


 美弥が座っていた席は空白のまま。

 誰もあの場所に座ろうとしない。


 放課後、彩花と凜は静かな教室で向かい合った。


「凜……これからどうするの?」


 凜は窓の外の雨を見つめながら答える。


「……美弥が守ってくれたものを、無駄にはしない。

 俺はもう……後悔だけで生きたくない。」


 彩花は静かに頷いた。


 胸の痛みはまだ消えない。

 だけど、美弥が守った命なら——前に進まなきゃいけない。


「私も……逃げない。

 美弥さんが教えてくれたから。」


 凜は彩花に微笑みかけた。

 その涙は、悲しみと、そして未来への決意の色だった。


 小さな雨音が教室に響く。


 かつて“雨の教室”は彩花の心を曇らせた場所だった。


 けれど今は——


 失った光を抱えながら、それでも前を向こうとする場所になっていた。

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